これが夢だと知っていても

夏川 流美

- 夢 -

「花奈?」


 呼び掛けてくる声の主の、輪郭がぼやけて揺れている。優しくて温かい、よく知っているその声に、目から一粒の水が落ちていくと、途端に視界はクリアになった。


 見慣れないジャケットを羽織った人物が、テーブルを挟んで向かい側に座っていた。困ったように眉を下げながら、愛おしそうに目を細めている。身を乗り出して、長い指で私の目元を拭うと、静寂を崩さないようにゆっくり座り直した。


「花奈は泣き虫だね」

「だって、嬉しくて」


 鏡のように美しい、手元のワイングラスと、お皿に少量しか盛られていないパスタ。彼には絶対に物足りないのに、私のために予約してくれたレストランのフルコース。


 嬉しくて、仕方ない。ちょっと呆れて笑う彼に、頬を膨らませて対抗した。すかさず頬を突こうと伸ばしてくる指から、逃げるように空気を吐き出す。今度は愉快そうに笑った彼に、私は何気なく問い掛けてみた。


「どうして、ここを予約したの?」


 他に良い聞き方が思い付かなくて、責める口調になってしまった。誤魔化したくて、ワインを一口飲み込む。なんか薄くて、あんまり美味しくない、かも。首を傾げてグラスを置き、目を合わせると、柔い笑顔を向けてくれた。


「花奈に喜んでほしかったからだよ」


 甘い言葉に溺れてしまいそうな感覚と、どこか腑に落ちない感覚。私なんかのために、こんなことしなくて良かったのに。心の片隅で思ってしまう。折角の記念日、特別なお祝いをしたかった気持ちは同じだった。


「……どうして、ずっと泣いているの」


 そう言われて、鞄から鏡を取り出して覗き込む。確かに、涙が次々に溢れていた。心配そうな顔で私の様子を伺ってくる彼に、曖昧に微笑んで見せた。





――今、私は夢を見ている。


 5回目の結婚記念日。行けなかったレストランの夢。彼が運転をして、私が助手席に座っていた。天気は晴れで、満月が煌々と輝いていた。そんな満月にでも見惚れていたのか、考え事をしていたと言う黒い車が、交差点で私達に突っ込んできた。


 私は数ヶ月の入院で済んだ。なのに彼だけは、即死だった。事故が夢だったら、いかに嬉しいことか。彼の死を知らされた私は、何時間でも何日間でも泣き喚いた。医師の助言も聞かないで、葬式に出席もした。


 忘れたくても、全部しっかり覚えている。だからこれは、私の夢。





「なんだか、ずっと嬉しいみたい」


 涙の理由を知らぬフリして伝えると、彼はやっぱり呆れたように笑って、また、泣き虫だね、と言った。小説や映画を見ては泣いて、サプライズをされては泣いて、イライラしては泣いていた。そんな姿を散々見せてきたのだから、泣き虫って言われるのも当たり前。


 私が今泣いている理由は、明確には自分でも知らない。この状況に嬉しいのかもしれないし、彼に会えたことが嬉しいのかもしれないし、これが夢だと知っているから悲しいのかもしれない。


「ねぇ、私のこと、どのくらい好き?」

「突然だね。世界で一番、好きだよ」

「それっていつまで?」

「いつまでって……うーん、難しいこと聞くね。……死んでもずっと、かな」


 相変わらず、口が上手いんだから。なんて返して、笑顔を浮かべることはできなかった。「死んでもずっと」の発言が胸に引っかかった。目の奥が急激に熱くなる。私が一番、縋りたかった言葉。


 流れ続けていた涙が、ようやく意識の内に入った。同時に、計り知れない安堵に包まれた。……これが夢だと知っている。彼の言葉だって、私が望むから言ってくれた、所詮は夢の中の言葉に過ぎないと、私は知っている。それなのに、この涙が止まらないのは。息が詰まって、嗚咽が漏れてしまうのは。





 私が今も、この先も、いつまでも、彼のことを愛しているから。





「私も、ずっと好きだよ」


 穏やかな声音で、うん、と彼が答えた。視界が波のように揺れている。彼の輪郭も、気付けばとうに、ぼやけていた。


「ずっとずっと、大好きだよ」


 子どものように泣きじゃくる。一生懸命だしている声は、ちゃんと彼に届いているだろうか。いつものように、穏和な笑みで私のことを見ているのだろうか。


「絶対に、忘れないから」


 彼の姿は、すっかり涙の海に沈んでしまって、捉えることはできない。それでも、きっとそこにいてくれていると信じている。だって彼は、そういう人だった。私を置いていったりなんか、しない人だった。


「――私が行くまで、ちゃんと待っててね」


 だから私は、精一杯、笑って告げた。






 頰に水の伝う感覚と共に、視界が開ける。カーテンの隙間から抜き出してきた朝日が、暗闇の天井に一筋の道を作っていた。あぁ、彼とお別れをしたのだと、思い出すのは容易いことだった。


 もう会えないのだという自覚が、痛いほど胸を締め付ける。唇に歯を立てて、膨らんだ瞼から落ちそうになる涙を堪えた。


 待っててくれる彼に、私は会いに行かなければいけない。急がずゆっくり、日々を過ごして。こんなにシワが増えたよ、と冗談を言って笑い合う為に。亡くなった人間の願いなんて、取り残された人間の希望でしかないけれど。彼は私の冗談を、待っててくれるに違いない。




 ベッドを降り、台所に立つ。私がこっそり買っていた、結婚記念日の赤ワイン。何度も一緒に使ったワイングラスに少量だけ注ぐ。そして私はそれを、彼の側にそっと置いた。

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