琵琶湖環状恋バナ列車

安江俊明

琵琶湖環状恋バナ列車

「十連休が明けてから、琵琶湖環状線に乗らへんか?」

元号が令和に改まった日の午後、香山蓮(れん)が中学同級生の山田華(はな)に声を掛けた。

「何、それ? 大阪に環状線走ってるのは知ってるけど、琵琶湖の周りにも環状線があるってこと?」

華は内心ワクワクしながら首を傾げた。二人にはそれぞれ別のフレンドがいたが、同じ化学クラブで琵琶湖の水質を調べる野外活動をしているうちお互いに好意を持つようになっていた。それが、その日初めて蓮が華を誘ったのだ。

「滋賀県が考えた琵琶湖をぐるっと回る鉄道の構想があるんや。大阪みたいに直通で回れへんけど、電車を乗り換えたら一周出来る事実上の環状線や。しかも一駅乗るだけの運賃で」

「へえ、えらい安いんやなあ」

「ただし、その運賃やったら電車に乗ってる間は駅の外には出られへんから、昼間やったら何処かの駅で駅弁買うて食べなあかん」

「面白そうやな。どっから乗るん?」

「外人の観光客が増えた湖西(こせい)線のおごと温泉駅からや。そこから隣の駅の比叡山坂本まで切符は百九十円。それだけで琵琶湖ぐるり一周の旅が出来るんや。琵琶湖の色んな景色も見られるしな」

「ええなあ、行こ、行こ」

華と蓮は二人だけの時間が持てそうと心が弾んでいた。

 

十連休が終わり、最初の土曜日がやって来た。二人はおごと温泉駅で待ち合わせて、プラットホームに上がった。

 一駅上りの比叡山坂本駅までの切符を買い、下りの堅田駅方面に向かう午前七時二十一分発の福井行ローカル電車に乗り込んだ。

全線高架の湖西線から北陸本線、それに琵琶湖線(東海道本線)と乗り継いで、四時間余りかけて琵琶湖を一周する二人の鉄道の旅が始まった。  

上りの京都・大阪方面行とは違い、下りの乗客はまばらだった。華と蓮は四人掛けの座席を「占領」し、進行方向の右手に湖を望む隣り合わせの席に座った。

間もなく松尾芭蕉の句でも有名な浮御堂のある堅田と琵琶湖の対岸、守山を結ぶ琵琶湖大橋が見えて来た。大橋は日本最大の湖の最も狭くなる両岸を結んでいる。

湖西は作家・司馬遼太郎の長編『街道をゆく』の第一巻という作品の出発点になったところで、地元と渡来人の両文化に育まれた土地柄である。

大津京駅近くに遺跡が発掘された天智天皇ゆかりの大津宮跡を初め、沿線には数多くの歴史・文化の拠点があるのが蓮の自慢だ。

特急が停車する堅田駅の隣の小野駅周辺は、遣隋使の小野妹子、歌人の小野道風らが輩出した小野氏ゆかりの地で、「小野」を冠する神社が複数ある。

そこから、古代豪族・和邇(わに)氏の根拠地があったことに由来する和邇、蓬莱、志賀、比良と駅は続く。

白砂青松が約四キロ続く近江舞子を過ぎると、万葉集にも登場する比良山系の連峰が迫り、トンネルも多くなって来た。

「この前、この近くで鹿が電車にはねられたんや。それで電車が長いこと停まった」

蓮が言った。

「へえ! 高架やのに鹿はどないして線路まで入って来るんやろなあ」

 華が目を丸くした。

「ほら、この辺トンネル多いやろ。トンネルの出入り口にある坂を上って線路に入るらしいわ」

「鹿言うたら堅田には鹿肉のカレーライスが食べられる店もあるしな」

 湖の中に鳥居がある白髭(しらひげ)神社や幾つかの遊泳場を過ぎて、車窓に展開する風景を楽しみながら四十五分ほどすると、琵琶湖に浮かぶ三つの島のひとつ、竹生島が見えた。

「ほら、あれが竹生島やで」蓮が島を指差した。

「どれどれ」

 華は立ち上がり、窓に向かって背伸びをした。スカートがキュッと持ち上がり、蓮の目前に華の白い素足が飛び込んで来た。蓮はその白さにドキリとした。

「あれが竹生島なのね。何か初めて見たような気がするわ」

 背伸びをしたまま華が言う。

 ボクも君の白い素足をこんなに身近に見たの、初めてや。

 華が再び席に座り、蓮はやっと自分を取り戻し、口を開いた。

「あの島の竜神さまのところで願い事を書いた素焼きの土器の酒杯を投げるんや。『かわらけ』っていうのやけど、かわらけがうまく鳥居をくぐれば、願い事が叶うっていう言い伝えがあるんや」

「へえ、一度かわらけを投げてみたいな」

 華は目を輝かせた。

「実は俺、こないだそこでかわらけを五つ投げた。そしたらひとつが鳥居をくぐったんや。そやから願い事をひとつかなえてもらう権利を持ってるんや」

「凄い! どんな願い事?」

 蓮はドヤ顔を赤らめて、恥ずかしそうに下を向いた。

「どうしたん?」

 華が首を傾げた。願い事は口に出せば消えてしまう。

「ちょっと目をつぶってえな」

「何で?」

「目をつぶっている間に、その願い事を華の心に渡すから」

 華は蓮の言うとおりに瞳を閉じた。

 その瞬間、華は蓮と一緒に電車から別の空間に滑り込んで行った。

そこにはフィギュアのブルードラゴンがいた。ボクの名前はレン。ドラゴンが自己紹介した。

 ある日ご主人の大学生、陽介君が休講になったことを幸いに、ボクを連れてミュージアムに出かけたんだ。

「スミマセン。あなたが手に持っているフィギュアをちょっと見せてくれませんか」

 陽介君が振り向いたら、若い外国人の女性がボクを見つめて立っていた。

 金髪が波打って両肩まで下がり、ブルーの瞳がキラキラ輝いている。

その女性がボクを見つめる以上にボクは女性を食い入るように見つめてしまった。肌の白さが際立っている。

陽介君は日本語が上手なその女性に微笑んで「いいですよ」と言って、ボクを受けとめようとする彼女の手のひらに置いた。彼女はボクを色んな角度から眺め回してこっくりと頷いた。

「へえ、とっても素敵」

 ボクは女性の真っ白い指の間で、頬を少し赤らめてしまった。

「わたしエヴァと言います。ドイツのアウグスブルクから来ました」

 エヴァはボクを陽介君に返した。

「ボクは陽介です。日本語お上手ですねえ」

「大学で日本語習いました」

「そうですか。よかったら長浜の町をご案内しましょうか」

「ありがとう」

「案内していただく間、そのドラゴン・フィギュアを預かりましょうか」

 エヴァが言った。

「お願いします。レンて呼んでやって下さい」

「そう、あなたレンていうのね。どうぞよろしく」

 エヴァさんは愛情がこもった目でボクをバッグの中に入れた。バッグの中にいい香りのする香水瓶があり、エヴァさんが使っている香水だと思うと、何だか心がウキウキして来る。

陽介君はエヴァさんを何処に連れて行くんだろう。ボクは暗いバッグの中で想像を巡らせていた。

「琵琶湖に竹生島(ちくぶしま)という島が浮かんでいます。島全体がパワースポットになっているんです。行ってみましょうか」

「ええ」

 陽介君とエヴァさん、それにバッグの中のボクは船で竹生島に渡るクルーズ船に乗り込んだ。

 竹生島は周囲二キロの小島で島全体を覆う針葉樹などの森が神秘的な空気を醸し出している。宝厳寺(ほうごんじ)という西国三十三所めぐり第三十番札所がある。弁財天などを祭る都久夫須麻(つくぶすま)神社もある。

 エヴァは琵琶湖を渡る春の爽やかな風に美しい金髪をなびかせながら島全体を眺めている。ボクはバッグの中でエヴァさんがバッグから物を取り出す瞬間しか外の景色が見られない。

 ああ、じれったい! 明日こそはボクの番だぞ。ボクはバッグの中で歯を食いしばった。

 ガイドが終わり、陽介君はエヴァさんをホテルまで送り、自分の連絡先のメモだけはきちんと渡し、ボクのことはすっかり失念して家に帰ってしまった。 

余程エヴァさんにのぼせ上ってしまったんだろう。ボクはボクで、少しでもエヴァさんの傍に居たいので、わざと陽介君に「帰りたいコール」は送らなかった。


 翌朝、ボクはエヴァさんの部屋のベッドのサイドテーブルに置かれたバッグの中で目を覚ました。

 エヴァさんはボクがバッグの中で一緒に一夜を過ごしたことなんか全く気付いていなかった。

「バッグを開けてくださいな!」

 ボクは力一杯叫んだ。

エヴァさんは驚いてバッグを開いて、中を覗き込んだ。

「レンじゃないの! どうしてここに。それにあなたしゃべるのね!」

「ええ、陽介君には何卒ご内密にお願いします。今日はボクがエヴァさんをご案内しますから」

そう言いながら、ボクはバッグから飛び出した。

「えっ? 本当に? 何処に連れてってくれるのかしら。もっとも今日は午後にJR長浜駅に人を迎えに行かなくちゃならないの。だから、午前中だけしか時間が取れないのよ。それでもいいかしら」

「ええ、それで十分です」ボクはそう言いながら、エヴァさんが駅に誰を迎えに行くのかが気になった。

「じゃあ、ここでボク変身しますからよく見ててくださいね」

「えっ? 変身するって?」

 エヴァさんはボクを穴の開くほど見つめていた。

 ボクは一瞬で若いイケメン男性に変身した。人間のように話し、人間にも変身出来るのが、ボクのとっておきの秘密なのだ。

「えっ! あなたがレンなの?」

 エヴァさんは驚いて微笑むボクをその大きな目をさらに大きくして見つめた。

「さあ、御手をどうぞ」

 エヴァさんは首を傾げながら白く透き通るような腕をボクの腕に絡ませた。

 ガイドの道すがら、ボクは思い切ってエヴァさんに恋心を打ち明けてみた。エヴァさんは微笑んでいた。

 

午前中のガイドが終わり、エヴァさんを駅に案内すると、ちょうど列車が着いて乗客が降りて来るのにぶつかった。

 エヴァさんは乗客の群れに向かって大きく手を振っている。その先を見ると、外国人の男性がこちらに向かって大きく手を振っている。

 ボクはすぐに感じた。その男性がエヴァさんの恋人だということを。

 それを感じた瞬間、ボクは男性に気付かれないように人間から再びブルードラゴンに戻った。そしてエヴァに合図し、またバッグの中に入れてもらった。

 エヴァさんはその男性と人目を憚らずに抱き合い、熱い口づけを交わしたらしいが、ボクはバッグの中だったので、それを見ずに済んだのは幸いだった。

 男性はルディという、エヴァさんと同じドイツ・アウグスブルク出身のビジネスマンだった。仕事の関係で長浜訪問が三日遅れになってしまい、エヴァさんが迎えに来たらしい。

 ボクは片思いのまま失恋してしまったんだ。身体からストンと力が抜けてしまっていた。


 陽介君はボクが忽然と姿を消したのにようやく気付き、あちこち捜し回っていた。

捜し疲れて夜になり、独り公園のブランコにもたれていた時だった。

人が近づく気配がして、陽介君は思わず傍の木の陰に身を隠し、様子を見守った。

若い男女がブランコに乗り、楽しそうな声を上げている。あっ、エヴァさんじゃないか!

ブランコから降りて、ルディが語りかけた。

「エヴァ、結婚して欲しい。これは君へのプレゼントだ」

ルディは両手でボックスを手渡した。受け取ったエヴァがボックスを開くと、指輪が眩しい光を放っていた。ルディはエヴァの左手の薬指に指輪を挿入した。

 二人は固く抱き合い、キスを繰り返してからブランコ周辺のスポットライトから離れ、闇夜の中に姿を消した。


 翌日の関西空港は春の陽光が降り注いでいた。ルフトハンザ航空のカウンターにはエヴァとルディの姿があった。

 搭乗口から機内に乗り込んだ二人は微笑み合いながら隣同士の椅子の座り心地を試していた。

 機内持ち込みのエヴァのバッグの奥底にはレンがいた。静かに身を横たえている。一切声も立てずに。エヴァさんのバッグの中に居れば、少なくとも彼女と行動が共に出来る。それが失恋したレンの唯一の慰めであった。

 機はオンタイムに滑走路を走り始め、離陸した。

 通路側に座っていたエヴァは小窓から上昇し始める機を感じながら、みるみる小さくなってゆく地上の風景を見ていた。エヴァは目を左手薬指の婚約指輪に転じ、英字新聞に目を通しているルディを見つめながら、顔をルディの肩に傾けて微笑んだ。

そのエヴァの目に、通路を歩く子供の手に握られているドラゴンのフィギュアが目に飛び込んで来た。

あっ! レンは?

駅でルディを出迎えた時、レンが気を利かせてイケメンからフィギュアに戻り、頼まれてわたしがバッグにレンを入れたんだった。

バッグの中を覗き込んで奥の方を見ると、レンの姿があった。翼を折り曲げて小さくなっている。

「レン。わたしあなたのことをすっかり忘れていたわ! 言ってくれればよかったのに」

「どうかしたのかい」

 バッグの中を覗きながら何か言ったように感じたルディがエヴァの顔を覗き込んだ。

「レンを返すのを忘れちゃったのよ」

「レン?」

 エヴァは事情をルディに説明した。

「だってもう仕方がないだろ。もう飛行機の中だぜ」

 ルディはエヴァの肩にそっと触れた。

「とにかく大切に持って帰るわ」

 エヴァはそう言って、バッグを閉じた。

ルディがトイレで席を立った隙にエヴァはバッグを開き、レンに優しく語りかけた。

「レン。イケメンになって長浜の街を案内してくれたことには感謝するわ。でもね、あなたがもう気付いているように、わたしにはルディという婚約者がいるの。だからあなたの恋人にはなれないのよ。わかってね」

 レンは小さく頷いた。よく見れば、レンの目から可愛い涙が一筋流れ落ちていたのにエヴァは気付いたはずだが。

「エヴァさん。それはわかったから、このままエヴァの住むドイツの家に連れて行って欲しい。せめてボクが初めて恋した女性の故郷を記憶に残しておきたいんだ。お願い!」

「わかったわ。しばらくうちで過ごしなさい。お友達も出来るかも知れないわ」

 ルディが席に戻って来たので、エヴァはレンにウインクをして急いでバッグを閉じた。


ドイツに着いてからボクはアウグスブルクにあるエヴァさんとルディの愛の巣で過ごすことになった。明るい窓辺に並べられたフィギュアの中に可愛らしいレッドドラゴンがいた。ハナという名前だ。

ボクは直ぐハナに一目惚れした。


二週間ほど経ったある日、ボクは窓辺でハナと寛いでいだ。そこにエヴァさんがやって来て、二人に話があるというのでエヴァさんの両手に持たれて、彼女の部屋に運ばれた。エヴァさんがちょっぴり寂しそうな表情を浮かべているのが気になった。

 

さらに二週間ほど経った日、長浜の陽介の許に国際宅配便のボックスが届いた。ボックスの発送者を見ると、エヴァだった。

 逸(はや)る心でボックスを開いてみたら、何とそこにはレンが入っていた。

「レン、お前はドイツに行っていたのか!」

それともうひとつ驚いたのは、レンの隣にレッドドラゴンが入っていたことだ。

 陽介君は添えられているエヴァからの日本語の手紙を急いで開けて読んだ。

『驚かれたとは思いますが、レンをバッグの中に入れていたのを失念したまま、ルディと帰国便に乗ってしまい、ご心配をかけ申し訳ありませんでした。ここにお返しいたします。それから同じボックスに入っているレッドドラゴンのことです。友人が以前長浜を観光した際、わたしへの土産としてもらったものです。名前はハナです。ハナとレンはとっても仲がいいので、一緒にして送りました。末永く可愛がってやってください』

 手紙を読み終えて、陽介は今一度レンとハナを見つめた。

「レン、お前を捜したが見つけられなかった。ゴメン。でも、良かったな。ハナと出会って一緒に帰って来られたんだから」

 

ボクはハナと二人で出かける機会を見つけて人間に変身し、ハナを手に持って出かけた。

 最初に行ったのはエヴァさんがルディから求婚されたと聞いた公園だ。

「ああ、わたしも指輪が欲しい!」

 陽介君から公園での話を聞いていたハナはボクの方を見上げた。

「もう少し待っておくれ。何とか考えてみるから。ところでハナ。竹生島に行ってみない?」

「一度機会があれば行ってみたいと思っていたの。こんなに早く実現するなんて嬉しい!」

ボクは陽介君の家でハナがお昼寝している間に銀行に足を運んでいた。

エヴァさんからもらったユーロを円に両替するためだ。竹生島に行くのにも往復のクルーズ代や拝観料などが要るからだ。

 

 クルーズ船は穏やかな湖面を滑るように進んで行く。半時間の乗船だ。甲板に出たら風が頭髪を靡かせるくらいに吹き、船のエンジン音と波しぶきが散る音が聞こえる。

ボクはハナをしっかり手に握って島の方角を眺めながら、パワースポットの島の話をした。ハナはかき消されそうなボクの声を聞き漏らすまいと、手にしがみつきながらボクの唇を眺めていた。

 唇と言えば、国際宅配便のボックスに収められて飛行機で日本に向かっていた時、初めてハナと口づけをしたのを思い出した。ボックスの中には詰め物があり、窮屈でお互いに背中の翼がちょっぴり邪魔に感じたほどだったが、口づけの瞬間にはそんなことも忘れて、目をつぶっているハナの幸せそうな表情を薄目を開けて見つめていた。

 何故竹生島にハナを連れて来ようと思ったのか。ひとつはハナにボクの秘密を打ち明けようと思ったからだ。ボクらは竹生島にある都久夫須麻神社の本殿に参ったあとで、本殿向かいの琵琶湖を望む断崖に向かった。

そこには鳥居が立っている。竜神さまをお祀りする社の鳥居だが、竹生島を訪れた参拝客が竜神さまの拝所からかわらけを投げていた。

「ハナ。覚えているかい。エヴァさんの家の窓辺で、君はボクが何故人間に変身出来るのかって尋ねただろ?」

「ええ、よく覚えているわ」

「その秘密は実はここにあるんだ」

「どういうことなの」

「ボクがミュージアムショップで陽介君に買われてから、彼はボクを連れて一緒にここに来たんだ。その時、陽介君は願い事をかわらけに書き込んで、ここからかわらけ投げをした」

「何て書いたの?」ハナが身を乗り出した。

「ボクにレンという名前を付けてくれたあとで、『レンが人間に変身出来ますように』ってかわらけに書いて投げてくれた。すると、そのかわらけがすごくうまいこと鳥居をくぐったんだ。それからボクは自由に人間に変身出来るようになったんだ」

「へえ、竜神さまが願い事を叶えてくださったんだ」

「もっともボクはそのことを秘密にしているから、陽介君は自分の願いが通じていることを今も知らないままだけどね」

「わたしも人間に変身したくなったわ。ねえ、お願い! 陽介君と同じ願い事を書いてわたしのためにかわらけを投げてちょうだい」

「よし、やってみよう!」

 ボクは願い事を書き込んだかわらけに念を込めて投げた。

かわらけは琵琶湖に向かって吹く風に乗っかって弧を描きながら鳥居をくぐって行った。

「やった! これで願いは叶うわね!」

 驚いたことにボクの手からあっという間にハナは消え、竜神さまの鳥居の陰から可愛い女性が現れた。ボクはあっけにとられたまま、その女性を見つめた。

「ひょっとしてハナ?」

 ボクは恐る恐る女性に声を掛けた。

「そうよ、レン。わたしよ。ハナよ」

 ボクは急いで竜神さまを拝んだ。

「願いを聞き届けていただいて本当にありがとうございます!」

 ボクはハナと手をつないで、参拝客が休憩している本殿横から森の中に入って行った。

そこでボクはハナの左手の薬指に指輪をはめた。

「ボクと結婚してください」

ハナは指輪の感触を確かめながら、凄く嬉しそうな顔で微笑み、ボクの目を見つめて言った。

「はい! ところでどうしたの? この指輪」

「ドイツから君と一緒に帰ることが決まった時、エヴァさんに君とのことを相談したら、ボクらへのはなむけとして、エヴァさんがルディにもらった婚約指輪を買った同じ宝飾店でハナの婚約指輪にしなさいって買ってくれたんだ。ありがたく頂いて、今日君へのサプライズ・プレゼントにしたってわけさ」

「じゃあ、国際宅配便の中に別のボックスが入って狭苦しかったけど、中身はこの指輪だったのね!」

「そういうことさ」

 人間同士になったボクとハナは、両腕をお互いの背中に回して抱き合い、思いっきり熱い口づけを交わした。            

 

蓮と華は夢心地で不思議な空間世界から抜け出して、ふと気づくと電車の中に戻っていた。

 二人はしばらくボケッとしていたが、何だかお互いが急に凄く親しくなったような感じがして、お互いを盗み見た。

「何処か外国に行っていたような感じがするわ」

 華の目を見つめて蓮が頷いた。

「そう。ボクが竜神様にお願いしたのは、君と二人だけの外国旅行。願いを叶えてもらったんや」

 二人は微笑み合い、蓮は向かいに座っている華に手を伸ばして、華の手をそっと握った。

近江今津駅から二十分ほどで電車は湖西線と北陸本線がつながる近江塩津の駅に滑り込んだ。

「同じホームで北陸線に乗り換えや。冬場やったら、かなりの雪が積もるで。ボクのこの辺くらいまでかな」

 蓮は胸のあたりを指し示した。

二人は北陸線がさらに琵琶湖線につながる米原に向かって、今度も進行方向の右手に湖を見る隣り合わせの席に座った。発車した電車は徐々にスピードを上げ、移り行く風景の合間に時折見える琵琶湖の湖面が光っていた。

 

米原駅から琵琶湖線に入ると、城と地元キャラ『ひこにゃん』で有名な彦根を過ぎ、織田信長ゆかりの城で石垣が残る安土城跡、日本で数多くの西洋建築を手がけたアメリカ人建築家ウィリアム・ヴォーリズが最初宣教師兼英語教師として赴任した近江八幡、『東海道中膝栗毛』の宿場町・草津を経て山科駅に至る。

「もう少しで四時間も経つんやなあ。地元やけど、ホンマに小旅行した気がするわ」

華が蓮を見つめながら言った。

「ホンマやなあ、華ちゃん。さあ弁当食べよか」

二人は北陸線の米原駅構内で停車三分の間に買った駅弁を頬張った。普通は塩焼きにするが、珍しく一夜干しにした琵琶湖産の鮎がご飯に載り、里芋の煮つけや卵焼きの入った駅弁だ。

「この鮎美味しい!」と華が言う。蓮は「うまいなあ」と応える。

 弁当を平らげた二人は、電車の心地よい揺れに眠気を催し、互いにもたれ合って眠ってしまった。

 どれくらい経ったのか、華は目覚め、蓮の身体の温もりが自分の身体を包んでいるのに気付き、はっと身体を反らせた。

「よう寝てたな。寝顔、可愛かったで」

 蓮の言葉は心地よく華の胸に響いた。華は黙って、蓮と手を握り合った。

電車は『忠臣蔵』の大石内蔵助が討ち入り前に家族と隠棲した山科に着き、今度は湖西線に乗り換えて最終目的地の比叡山坂本駅に向かった。

午前十一時二十八分。電車は駅に予定通り到着。朝に出発した一駅先のおごと温泉駅から逆回りの所要時間四時間七分の二人だけの旅が終わった。

「この駅で降りたら琵琶湖一周しても百九十円ちゅうこっちゃ」

「何でそうなるん?」

「ちょっと待ってや」そう言って蓮はバッグからメモ帖を取り出し、ページをめくった。

「あった、あった。この前駅員さんに聞いてみたんや。あのな、大都市近郊区間相互発着制度ちゅう長ったらしい名前の制度があってな、大都市近郊区間内だけを普通乗車券か回数乗車券で利用したら実際に乗る経路にかかわらず、一番安うなる経路で計算した運賃で乗ることが出来るという制度なんやて。例えば、僕らが乗った今日の場合やと、おごと温泉駅から上りの次の駅・比叡山坂本駅までの切符やったら、おごと温泉から比叡山坂本まで一駅だけ乗っておしまいにするか、あるいは僕らみたいにわざわざ反対側の下りに乗って琵琶湖を一周してから同じ比叡山坂本駅まで戻って来るか、どちらで目的の駅に行くのかは乗った人しだいというのを認めましょうということや。ただなあ、滋賀県が観光客向けのPRで作った『琵琶湖環状線』て言うたら、一本でぐるっと回れる直通電車があると誤解される恐れがあるんで、JRはそういう表現を使わんらしい」

「そうなんや。けど、そんなことはどうでもええわ。わたしは今日半日、蓮と二人だけで小旅行を楽しめたんがすごく嬉しい!」

 蓮は飛び上がらんばかりの華をプラットホームの陰でタイムリーに抱き上げて、チュッと唇を合わせた。甘酸っぱい青春の香りがほんの一瞬互いの口に広がった。華は抱き上げられたままうっとり蓮と目を合わせていた。

 二人だけの時間が過ぎ、改札口の手前で華が言った。

「ほら、さっき電車の中で福井県に叔父さんがいるって言ってたよね」

「うん。そうや」

「今度わたしを福井県に連れてって」

「でも、運賃百九十円では無理やで」

「そらそうやろな」

二人は笑いながら手をつないで乗客が行き交う駅舎を出て行った。

                              完

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