番外編 歴史を感じる一杯のコーヒー


とある日曜日の昼下がり。


私は急にコーヒーが飲みたくなって、喫茶「ベコニア」に衝動的に来てしまった。もう自分で入れたインスタントコーヒーは味気なく感じてしまうくらいに、水樹くんの淹れたコーヒーが身体に馴染んでいる。すでにランチタイムも終わった頃だし、席も空いているだろう。


そう思って、水樹くんに何の連絡も入れずに訪れたのだ。



「来るなら連絡してくれれば良かったのに」


「ごめんね。何だか急に飲みたくなっちゃって」



水樹くんはそう言いながらも、いつもの特等席に通してくれた。




晴れて恋人になることができて1ヶ月が経つ。


私たちの距離は以前とさほど変わっていない。


相変わらず私は喫茶「ベコニア」に週2回のペースで通い、今日みたいに衝動的に休日に訪れている。お互い仕事の都合でデートの回数も数えるほど重ねてはいない。変わったことといえば一緒に夜ご飯を食べたり、会わない日は電話をしていることくらいだ。


あんなに仕事で精一杯だった日々が急に充実した毎日に様変わりして、会社の人からも「最近何かあった?」と言われることもしばしば。そんなに分かりやすいだろうか私は。彼氏ができたなんて言った暁にはしばらく弄られるだろうと予想して、まだ誰にも言っていない。もちろん家族にも。



「ホットコーヒーお願いします」


「了解」



バックスペースに一度姿を消していく彼の背中を見送る。ああ、好きだなあ。声にせずに胸の中にしまった言葉たちは今にも隠せないくらいに身体中から溢れだしそう。まさに脳内お花畑状態の私は、自分が思っている以上に舞い上がっているに違いない。


その時


「ーーお嬢さんはよくここに?」



すぐ横から声が聞こえた。ふっと声の聞こえた方へ首を動かすと、隣の席にご老人が座っていた。ご老人とは言っても、白シャツに茶色のベストを身にまとってループタイを下げているとてもオシャレな服装のおじいさん。髭も綺麗に整えられ、紳士的な雰囲気を醸し出していた。



「はい。週に2回くらいですけど」


「珍しいですな。君みたいな若い女性が喫茶店だなんて」


「そうですか?私、すごくここのコーヒーが好きで」



物腰柔らかそうなおじいさんは「そうかい」と言って微笑んでくれた。この人も常連客なのだろう、雰囲気がとてもこの喫茶店とも馴染んでいる。



「遅くなってごめんね。お待た、せ・・・」


「ん?どうしたの?」


コーヒーを手に持ち、私の前に現れた水樹くんはピタリとそのまま立ち止まっていた。どうしたんだろうと声をかけるも、その視線は私から隣のおじいさんへと向けられている。そして彼は衝撃の言葉を投げかけた。



「・・・おじいちゃん」


「おぉ水樹、やっぱりここの空気はいいの」


「オジイチャン・・・?」



「お爺ちゃん」その言葉に私も一旦動きを止めた。水樹と隣のご老人の顔を交互に見る。急に冷や汗をかいてきた。あれ、もしかしてもしかするとしれない。ご老人は1人楽しそうに笑っている。その笑顔はどこかで見覚えがある表情だった。



「何でいるの?」


「何でって、ここは私の店じゃろう。まだまだ水樹に渡したつもりはないぞ」



まさか。


助けを求めるように彼の名を呼ぶ。



「み、水樹くん・・・」


「紹介するよ。僕の祖父でこの店のマスター」


「桐山総二郎です。よろしく、お嬢さん」



まさか、ここで会いたかった水樹くんのおじいさんに会えるとは思っていなかった。隣に座っていた人がまさにそのひとだったなんて、ドッキリを仕掛けられていた気分になる。何か失礼なことを言ってしまってなかっただろうかと内心ビクビクしている私は勢いよく頭を下げた。



「は、橋本奈央です。よろしくお願いします」


「礼儀正しい良い子じゃないか、水樹」


「知ってる」



恋人のおじいさんに会うという突然の状況に緊張してからか、声が硬くなる。そんな私を見かねてか「そんなに緊張せんで良い」と声を掛けてくれた。



「どれ、私もコーヒーが淹れたくなってきた。水樹、お前がここに座れ」


「え・・・」



「今日は、私が営業する」とそそくさとカウンターの奥へ移動してしまった。それに気づいた他の常連客が「マスターだ!」とざわざわしている。


半ばホールへ押し出されるように出てきた水樹くんは私のコーヒーをいまだに手に持ったまま、隣の席へ座る。肩と肩がぶつかりそうで少しドキドキした。



「ごめんね。マスター、言い出すといつもこんな感じで」


「大丈夫。ちょっと驚いたけれど」


「僕も来るなんて全然知らなくて。それも奈央の横にわざと座るなんて」



ということは、私のことを最初から知っていたんだ。まだ会ったこともないし、水樹くんもわざわざおじいさんに話していないとのこと。彼曰く、雰囲気とか私の席をずっとチラチラと見ていたからバレたのかもしれないと話していた。


それでも確信を持って、私に声をかけてくるなんて、想像以上にマスターはすごい人に違いない。



「流石にひやっとしたよ。何か失礼なことはしなかった?」


「全然。とっても紳士的な人で優しかったよ」



なら良いけど、と水樹くんはため息をつく。こうやって2人カウンターに並んで座るのも、恋人になってから変わったことである。今まではずっとカウンター越しだっから。やはり隣に並んでみると、体つきや肩幅が男の人そのもの。まだこの距離の近さに慣れていない。



「そう?」


「あと少し水樹くんに似てる気がする」


「それは言われたことないな」



笑うとき目元がくしゃってするところや、物腰柔らかいところとか、どこどなく似ている気がする。きっと水樹くんが歳を重ねたら、今のマスターのような素敵な人になっているかもしれない。まぁ水樹くんならば禿げたってヨボヨボになったって格好良いだろうけれど。



「僕もじゃあ歳をとったらあんな風になるのかな」


「どうだろう。できれば歳はとりたくないけれどね」



そう言いながら水樹くんが淹れてくれたコーヒーを頂く。少し時間が経ってしまったけれど、まだ香ばしい匂いが昇っている。そっと最初の一口を口に運ぶ。


ゴクリと喉を通るのと同時に、体全体が良い感じに力が抜けていく。



「美味しい・・・好き・・・」


「ありがとう。僕も奈央が好きだよ」


「んぐっ・・・ちょっと、」



コーヒーが好きだよみたいにナチュラルに言ってくるもんだから思わず吹き出しそうになってしまった。


いきなり、それにこんな公然の場でどうした水樹くん。今まで2人でいる時でさえ好きの大安売りはしなかったのに。正気かという目で彼のその綺麗な瞳とあわせる。



「で?奈央は?」


「え、なにが?」


「好きなのはコーヒーだけなの?」


「・・・・・すき」



絞り出すようになんとか「好き」という二文字を述べる。ああ、顔が熱い。体の右側も熱い。横からクスクスと面白そうに笑う声が聞こえてくる。絶対この状況を楽しんでいるに違いない。


ああ、とある小説家がこの前喫茶店で「水樹は意外と意地悪から気をつけて」と忠告していたのはこういうことだったのか。



「あまり聞こえなかったけど。まあ、いいか。また今度言ってもらおう」


「・・・お手柔らかにお願いします」



でも以前と比べてかなり距離が縮まっているからこその言動で、それはそれで嬉しいのも事実である。由希くんに言ったら笑われそうだけれど。



「お嬢さん、コーヒーのおかわりはいかがですか?」


「いい香り・・・!お願いします!」


「そういえば、ずっとマスターの淹れたコーヒー飲んでみたいって言ってたもんね」



ちょうど手元にコーヒーがなくなる頃に、マスターは姿を現した。淹れたてのコーヒーを手に持って。


念願のマスターのコーヒーが飲めるなんて。前は会うために喫茶店に行ったこともあったな、何て数ヶ月前のことを思い出す。分かりやすく喜んだ私を横目に水樹くんは眉を下げて笑う。


水樹くんが「僕もコーヒー」と言うと、マスターは「自分の分は自分で淹れなさい」と拒否。水樹くんは肩を落として、だるそうにしながらも席を立って行ってしまった。



「良い香り・・・ありがとうございます」



マスターはコトリと私の目の前にホットコーヒーを置く。立ち上ってくる香りを吸い込むだけで、幸せでこの身が包まれる。水樹くんとはまた違う特別な何かを感じるこのコーヒー。


ひとくち口に含む。


私は目を見開かせた。


何て奥深い味がするのだろうと。


コーヒーに目覚めてまだ数ヶ月の私が語るのも何だが、さすが何十年とコーヒーを淹れてきたお方だ。まさにコーヒーの歴史の深さをも表現するようなその風味を感じる。


水樹くんの淹れたコーヒーとはまた違う。彼のコーヒーは奥深さを感じるというより、包み込んで守ってくれるような安心感を感じる。




「貴女は本当にコーヒーがお好きなようで」


「はい。マスターのコーヒーもとても美味しいです」


「そうかそうか。ありがとう」



マスターは今日は朝起きた時に「コーヒーを淹れたい」と思い立ち、本当に気まぐれに喫茶「ベゴニア」を訪れたらしい。私もさっき急にコーヒーが飲みたくなって訪れたことを伝えると、嬉しそうに笑ってこう言った。「何か縁があるのかもしれないね」と。そうだとしたら私も嬉しい。



「水樹は小さい頃から変わった子でね。友達とも遊びに行かずにずっと此処にいたんだ。両親は仕事が忙しくて、私も店があるから、遊びに連れて行ってやることもなかなかできなくて」



マスターが語る水樹くんの過去の話に私は耳を傾ける。


両親が仕事が忙しくて祖父母と毎日過ごしていたことは、前にも聞いたことがある。ずっと学校帰りや休みの日はずっと喫茶店で過ごしていたことを。そこでこの仕事に魅力を感じたことも。



「物分かりも良い子供だった。寂しい思いをさせていたと思う。でもとても優しい子なんだ」


マスターは柔らかく微笑んだ。


その目を見たら分かってしまう。たとえどんなに寂しい思いをさせていたとしても、水樹くんを愛していることを。大切に思っていることを。



「奈央さん・・・水樹をよろしく頼んだよ」


「もちろんです。少々役不足かもしれませんが」


「心配ないよ。だって最近の水樹はそっくりだからね」



「妻に恋をした昔の私に」と告げたマスター。


私は軽く頭を下げた。総二郎さんが言っていたように水樹くんが優しいことなんて十分すぎるほどに知っている。水樹くんが大切に思われているように、水樹くんが私を大切に思ってくれていることも知っているのだ。


お互い目を合わせて笑っていると、自分で淹れたコーヒーとカップケーキを2つお皿にのせた水樹くんが戻ってきた。マスターの仲良さげな雰囲気を見て「何の話をしていたの?」と聞いてきたから、私は「秘密の話」とはぐらかす。



「それでは奈央さん、ごゆっくり」


「ふふ、ありがとうございます」



水樹くんはクスクスと笑って何処かへ行ってしまったマスターを見て、不服そうにしながらも隣の席に腰を下ろす。「素敵な人だね」と声を掛けると、水樹くんは何も返さずにコーヒーを飲み始めた。


マスターのコーヒーも飲めたし、こうして水樹くんとゆっくり過ごせるし、今日は良い日だな私はとても気分が良い。



「総二郎さんって格好良いし優しいし、本当にジェントルマンって感じ」


それに水樹くんを頼まれてしまった。マスターはああ言っているけれど私じゃ役不足だと不安にもなるが、きっと私達ならば大丈夫だろう。



「奈央、」


「どうしたの?」


「マスターの淹れたコーヒーと僕が淹れたコーヒー、どっちが美味しい?」



マスターを褒めちぎるあまり、不貞腐れたような表情の水樹くんが難しい質問を投げかける。これは一種の嫉妬に近いものだろうか。思わず「ふふ」と笑みを零してしまった。


「それは決められない質問だなぁ」


少し意地悪な気持ちでそう返してみた。彼は「ふーん」と返すだけ。彼の子供らしい部分が垣間見えたような気がして、またふふっと笑みがこぼれる。


「でも私の好きな人は水樹くんだけだよ」


この時、不意をつかれたように水樹くんは驚いた顔をしてそっぽを向いてしまった。


意外と照れたら顔や耳が赤くなってしまうことを私は知っている。




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喫茶「ベコニア」の奇跡 岩瀬 @iwase-m

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