蜘蛛のくらまし

かるま

the spider loves camouflage

 この日の朝、ぼくが目を覚ますと、頭の中には懐かしのバラードが流れていて、なぜだかひどく切なく、涙があふれてとまらなかった。

 とにかく、驚いた。なにか夢を視たせいだろうと思ったけれど、視たことさえ覚えがない。

 何となく、その曲をもう一度聴いてみようと思った。ベッドの中で、枕元の万能携帯スマートフォンから検索してみたが、自分の音楽コレクションには入っていなかった。古いドラマの主題歌として耳に残っているだけで、元々、好きも嫌いもない歌だ。

 早速、音楽配信サービスに接続アクセスしてその曲を買い、万能携帯のスピーカーから流してみた。

 印象的な、男声コーラスのイントロが始まった。

 また、いい歳の男がひとり、理由わけも分からずぼろぼろと泣く羽目になった。

 今度は、切ないというより、ただただ不思議で、自分はいよいよ情緒不安定なんだと思えてきて、軽くびんだった。

 これ以上、涙の理由は解明しそうになかったので、ベッドから抜け出して、脱衣室の洗面台までとぼとぼと歩いた。、いつものさえない顔を一応手入れしなければならない。洗面台の鏡に、目を赤く腫らした自分が現れて、ひげそり前のあごをでながら、ぼくは思わず苦笑いした。


       *


 スーツに着替え、地下鉄で八駅先にある、ぼくの勤め先に向かった。いうまでもなく、暦どおりの営業である。真夏のともなると、車内の空気も重くよどみ、乗客のひとたちは、だしがらのようにやつれて揺られていた。

 職場の中でも、同僚たちが次々と弱音を吐いて、気休めになぐさめ合うありさまだ。

かぁ……、きつい」隣のデスクの後輩が、積み上がった資料に挟まれて突っ伏した。「お国の『働き方改革』は終了したんですね」

「終了ですね」ぼくも、雪崩なだれそうな書類を腕で支えてパソコンのキーボードをたたきながら、病み具合をアピールする。「今朝、起きたらさ、なんでか知らないけど、脳内で懐メロ流しながら号泣してたの。キてるよね」

「キてますね」後輩は顔を上げて、力なく笑った。「そうだ、おれも号泣しよう。今ここで」

「いいよ」

「BGMは社歌で」

「すごくいいね。社内騒然」

 結局、この日も退社は十時を過ぎた。帰り際にマル秘書類をたくさんシュレッダー行きにしたので、気分は悪くなかったが、連日の残業で、心身ともに、くたくただった。

 地下鉄の最寄り駅から出ると、まだほてりの冷めない、ねっとりした空気を感じながら、すぐそばで煌々こうこうとしているスーパーへ、いつものようにふらふらと立ち寄った。二十四時間営業なので、こういう身にはありがたい。

 店内のいたるところで、宴会帰りと思しき、あるいはホームレスと思しき大人たちが、床に座って酒盛りをしているのを次々よけながら、売れ残りの半額そうざいと缶チューハイを買ってアパートへ帰った。ぼくは、ではない。

 部屋に戻ったら、もう何もする気力がなくて、出せないままのごみ袋や、届いたままの新聞や郵便物であちこちが散らかっていた。入っただけで気が滅入ると、会社とスーパーを行き来するだけ、それでいっぱいいっぱいの日々だ。

 テレビを点けて適当な番組を視ながら、ごみに囲まれてひとり、晩酌して、ひとしきり、今朝のことと、将来への漠然とした不安に思いふけった。あきらめに近い気持ちになった。

 シャワーを浴びようと浴室へ入り、湯を出そうとしたら、蛇口の真下あたりに、米粒大の虫かなにかがいるのに気づいた。屈んで顔を近づけてみると、うぐいす色の丸い体からか細い八本脚、間違いなく、蜘蛛くもだった。弱っているのか、休んでいるのか、微動だにせずじっとしていた。

 ぼくは「おお……」と思わず声をらした。個人的に、「蜘蛛を殺すとばちが当たる」というジンクスを信じている。誰に言われたわけではなくて、確か、実際そうなったことが、さいながら、過去にいくつかあったのだ。そのはずだった。

 ただの虫ならシャワーで排水口に流しただろうが、蜘蛛なら何とか逃がしたい。ぼくは、下着を着直すと、適当な新聞の折り込みチラシを取ってきて、蜘蛛の足元に差し向けた。反対方向へ逃げ出した蜘蛛を先回りするように待ち構えたら、うまくチラシに乗ってくれたので、あわてて浴室から出て玄関を開け、外の廊下へそれを置いた。

 やがて、蜘蛛はチラシを離れて、思惑通り、薄暗い廊下の先へそそくさと去って行った。

 これで、満足。

 少し気持ちが持ち直したところで、ぼくは早々にシャワーを浴び、歯磨きをしてベッドへ潜りこんだ。。終わりの見えないクレーム対応と報告書づくりが待っている。


       *


 気がつくと、ぼくは、家一件並みの大きさをしたプラネタリウムの、一面平らな床の上に、ぼんやりと立っていた。床はじんわり白く光り、膝の高さほどのファンシーな球がいくつか転がっている。中央の投影機からドーム型の天井に鮮やかな天の川が映し出され、オルゴールの音楽がたちこめていた。

 背後から、不意に、「もしもし、」と声をかけられて、思わず振り返ったところ、真正面に、床の明かりに照らされて大きな物体が待ち構えていたので、ぎょっとした。

「――先ほどは、本当にありがとうございました」

 大小二つの球体を前後にくっつけたような、背丈一メートルくらいのが、いくつもの細長い脚を折り曲げて立っていて、二本の腕(?)と牙をこちらへ向け、しゃべっていた。

「お風呂場で助けていただいた、蜘蛛です」

 と、は名乗った。黒いガラスのような大小八つの玉が牙の上にはまっていて、こちらを捉えている。どうやらそれが、目らしかった。

「えっ、」ぼくは、固まったままで聞き返した。「蜘蛛?」

「そうです」うぐいす色のからだから、少年のような高い声を出して、蜘蛛は答えた。「わたしが原寸大だとやりとりしづらいと思いまして、あなたに尺を合わせました」

「尺を合わせた?」

「ここは、あなたの夢の中なのです」蜘蛛が、短い両腕を広げて言った。

「夢の中」

「そうです。イメージの世界ですから、姿形を自由にとれるのです」

 蜘蛛から、まあまあ、とその辺の球に腰掛けるよう片腕で促された。おずおず間近の一つに座ると、適度な弾力があって、ぷるぷる揺すられる。まるでバランスボールのようだ。

「おとぎ話のように、ひとがたの方が良かったでしょうか?」

「いや、別に、どっちでも……」

 うまく頭が回らなかったが、ひとまずぼくは、話を飲みこんだ。「あの、わざわざ、お礼に?」

「はい。われわれ蜘蛛を生かしてくださると言うだけで、大感謝に値します。心より、お礼申し上げます。このご恩を、ぜひともお返ししたく。……あ、粗茶ですが、どうぞ」

「はあ、」

 いつの間にか、隣の球の上に、湯みとようかんを載せた盆があった。したことの割にいちいち仰々ぎょうぎょうしいので、むずがゆい。「いや、それほどのことじゃ……」

「もっとも、わたしが何をしても、言っても、あなたはほとんど覚えていられないでしょう。その点はお許しください。、実現したことなのです。恩返しは、必ずいたしますので……」

「ええと……、そうか、夢の中だから、忘れちゃうんだ」

「はい。そうなのです」

 身振り手振りをつけて、蜘蛛は言った。

「実は、われわれは、毎夜、無数の仲間と交信をしながら、この世のありとあらゆるものを、ばらばらな情報にし、しあい、そしてするという、重要な営みをしております。そして、その作業途中の様子が、夢となって視られるのです。あくまでも一時的な作業なので、完成した記憶には、夢のことはほとんど残りません。それを夢視る存在は『忘れた』と知覚するわけです」

「ん、ん?」

 急に難しい説明をされたので、返答に困った。蜘蛛は、両腕でこちらを制して、

「ああ、分かりにくくてすみません。――つまり、この世は、のです。そして、作り直しているのがわれわれ蜘蛛です」

「この世が? 毎日?」

 話がとっぴ過ぎ、馬鹿馬鹿しくて、ぼくは半笑いで首を傾げた。

「……昨日もおとついもその前も、ぼくはそのへんの会社員だったよ。お客様からのせいを浴びる仕事。あと、アパートで一人暮らし。猫の写真撮りが趣味。彼女なし。そういうぼくも、毎日作り直されてるって?」

「そうです」

 蜘蛛があっさり言い切って、体を上下に揺すった。うなずきのつもりらしかった。「によって、今までずっとそうだった、としているだけなのです」

「はあ……、」

 今度は、話は分かったが、反応に困る。「そういきなり言われてもね。真に受けられないよ。じゃあさ、もしそうなら……、ぼくは、本当はどこの誰なの」

 蜘蛛いわく、「あなたは、あなたです。ただし、毎日、境遇とか、趣味こうとか、性格など、少しずつ情報が入れ替わるというか、変わってきます。――言うなれば、です」

」ぼくはたまらず噴き出した。

「どの日のあなたも、本当です」

「親は? 友達は? 彼女は?」

「それも、同じ人物ですが、日替わりです」

「え、もあるんだ」

「そういう日替わりではありません」

「あそう」ぼくは少し黙ってから、「……そうだ、漫画の連載は? ほら、『名探偵コバン』とか、『ダブルピース』とか」

「全て、日替わりでした」さも残念そうな言い方だ。「漫画やアニメ、ドラマなどは、明日になれば、大筋は一緒ですが、枝葉は変わっていきます。たとえに出た『名探偵コバン』でしたら、純金小判は元々裏工作に使うもので、はたく枚数が半分だったんですよ」

「そんな馬鹿な」

 ぼくはだんだん、むきになってきた。「だってさ、そんなところまで全部、その、毎日微妙に作り替えるなんて、膨大すぎるでしょ、やることが。すごい労力の無駄じゃない? 何のために、そんなことする必要がある?」

「われわれ蜘蛛は、その理由を知りません」蜘蛛は淡々と応じた。「ただ、いつからか存在し、そういう能力があり、そうしているだけです。りんが大地へ落ちるように、がいが新たないのちをつなぐように、蜘蛛がこの世を作り直す。この世にある自然な『機序メカニズム』の一つなのです」

「メカニズム」そのことばを反すうする。「……よく分からん」

「仲間内での話ですが、われわれの営みには、この世にできた『ほころび』をなくす効果があるといわれています。――しかし、実を言えば、最近、『ほころび』はむしろ、ひどくなる一方です」

「ほころび?」何のことを言っているのだろう、と思った。地球温暖化とか、核拡散とか、真面目な話だろうか。いずれにせよ、「それは、そんな、世の中の設定を全部コントロールしようとするからじゃないの?」

「おっしゃる通りです」

 蜘蛛がまた、ゆっくりうなずいた。「作業量に対して人手、言うなれば蜘蛛手くもでが足りないのです。どういうわけか、われわれの仲間は、急激に数を減らしています。それで、この世の情報のが間に合わず、できあがりの品質が低下しているのです。……ぶっちゃけ、今日だって、この世は、至るところでつじつまが合っていません。ひどいもんでしたよ」

「つじつまが、合ってない」

 少し、この日の暮らしぶりを振り返ってみたが、思い当たる節はなかった。「……何のことだか、さっぱりだ。例えば?」

「そう。それで良いのです」

 蜘蛛はそう返して、ぼくの問いには答えなかった。

「わたしの話を、安心しました。そのこそ、われわれが今、あなた方を作り直すとき、必死に編み出して、守っているものなのです」

 そして、深いため息のあと、あっけらかんとこぼした。

「まあ、それも、もう限界でしょうけどね」


 お茶とようかんを頂戴した後で、蜘蛛が切りだした。

「――さて、そろそろ、今夜のをはじめなくてはなりません」

「あそう」ぼくは、なにか釈然としないまま、湯飲みを盆にそっと置いた。「その……、何だっけ、ぼくを、するんだっけ?」

「はい」蜘蛛はぼくの顔をのぞき込むように、前半身を傾けた。「恐ろしくは、ないですか?」

「どんなもんか、想像つかないからなあ……。何とも言えないね」ぼくは立ち上がった。「案外、、されたいのかもしれない」

「そうですか。もし、無意識にそう思うなら、それも『機序メカニズム』の一部なのかもしれませんね」

 蜘蛛は姿勢を正し、片腕をこちらへ差し出した。

「ここで、お別れです。――改めて、あなたの今回の行いは、われわれにとって、非常に尊いことです。ありがとうございました」

「まあ、その、どういたしまして……」

 腕の先端が膨らんでいて、手に見えなくもなかったので、ぼくはそこをそっとつまんで、一応「握手」をした。

「これからも、どうか蜘蛛に優しくあってくださることを願っています」

「もちろん、ぼくは蜘蛛を殺さないけど……、どうせ、それも日替わりなんでしょ?」

 ぼくの指摘に、蜘蛛は体を左右に揺らし、初めて笑い声を上げた。そして、

「われわれは、『機序メカニズム』に、願っています。それが全てです」と答えた。

 何となく分かったような、少しはぐらかされたような気持ちになった。

 床の明かりが、少しずつ強くなり、見えるもの全てが白みはじめた。そしてすぐに、光がまばゆいほど輝いたので、ぼくは目をつむった。

「ここからは、あなたの夢に続きます」蜘蛛の声が聞こえた。「どうぞ、良い夢を」


       *


 目が慣れてきたのか、光が和らいだのかして、ぼくは自然にまぶたを開けた。

 もう、そこに、巨大な蜘蛛の姿はなかった。

 辺りを見回すと、紅葉で色づいた木々に囲まれた、レンガ舗装の大きな広場にいることがわかった。秋も終わりに近いのか、枯れ葉が次々と風に舞い、広場に敷きつめんばかりに積もっては、あちこちで小さく巻き上がっていた。枝だけになった木もちらほらとあった。

 空は晴れわたり、冷たく澄んだ空気をとおって、太陽が、肌と視界をぴったりとあたためている。人の姿はない。

「――■■■■くん、」

 遠くから、落ち葉のざわめきを縫うように、ぼくを呼ぶ声が届いた。声がしたほう、広場の向こう側に目をこらすと、いつの間にか、ベンチに誰かが腰かけて、手を振っていた。

「こっち、こっち」

 向こうが立ち上がった。それに続くように、ぼくの中でその声が、記憶のどこかに結びついて、予感とともにふくらむのを感じた。ぼくは、数歩、足をそちらへ進めた。体の重みと窮屈さで、自分がコートを着ているのに気づく。

 風の向こうに立っていたのは、

 丈長のスカートにフード付きのジャケットを着込んだ女性、

 だった。

 長い髪をした顔の半分からは、青い大きな無機物の結晶がいくつも突き出し、

 腰後ろから、うろこのある太い尻尾が地面まで垂れて、揺れている。

 そして、ゆっくりと背中から、透明なガラスの翼を片方だけ広げ、ネオンの骨組みをでたらめに光らせながら、羽ばたくように伸ばすのだった。

 全てを視たぼくは、一瞬、ことばを失った。

 けれど、

 ほんの一瞬で、

 自分が何に絶句したのか、もう思い出せなくなっていた。

「ああ、」

 は、まぎれもなく、だ。

 ぼくはそう、呼んで、彼女に駆け寄った。自分の中にふくらんだものが、切なさをはらんで、のどの奥から、熱く、融けだしていくのがわかった。

 せんせいは、顔の半分で微笑んで、

「ごめんね。待った?」

 といてきた。機械で補正されたような、へいたんな声だった。それも、気にならなかった。

「待ってたのは、せんせいの方でしょ」

 微笑み返そうとしたけれど、喋るほど、泣きそうになってきて、そんな顔を見せたくなくて、とっさにぼくは、せんせいを抱きしめた。

「わあお」

 せんせいは、ぼくを笑って受け止めて、撫でた。金属の音と硬い感触が、それでも、優しく背中をった。「どうしたの、こんなに」

「せんせい」ぼくは、せんせいを抱きしめたまま、彼女にほおずりした。「……そうだったね。ぼくにも、ちゃんと、愛するひとがいたんだね」

 そのとき、空高くから、辺り一帯に降り注ぐように、

 あの、懐かしいバラードが、男声コーラスのイントロを皮切りに、流れはじめた。

 やがて、ピアノの伴奏に続けて、女性ボーカルが滑らかに歌いだす。

 それを聴いたとき、ぼくは、

 この日の朝の目覚めが、いったい何だったのかを悟った。

「せんせい」彼女と、額と額を合わせて、ぼくは言った。「ぼく、きっと、せんせいのこと、忘れてしまうよ」

「うん?」せんせいが、くすぐったがる。「連れ出してくれないの? このから」

「……」

 彼女の唐突なことばが、記憶の彼方とつながって、ぼくの言うべき答えが、自然と口をついて出た。

「連れて行けないよ。もうすぐ、が来るんだ」

「そうなの。さみしいね」せんせいは、にこやかなまま。「でも、が消えないなら、きっと、また、いのちは巡るよ」

「そうだね」ぼくは間近で彼女を見つめた。「生まれ変わっても、また会えるんだね」

「認めてあげる。――わたしにとって、きみは、この世で一番の

「ぼくなんかには、もったいないお言葉。これからもずっと、あなたの翼を守りましょう」

「うれしい。もうすぐわたしが、するとしても……」

 女性ボーカルが、バラードのサビを歌い上げる。

 しなやかな風で、吹雪のように枯れ葉が舞い散る。

 その風のひとつひとつが、ぼくのからだを吹き抜けるとき、

 なにかが、少しずつ、ぼくからのを感じた。

 なにか大切なことを忘れ、なにか大切なものを捨てて、なにか大切なひとを失うような、ひとつひとつの痛みとともに、ぼくのからだをつくる無数のが、一斉に風で飛ばされていくような、そんな感覚。

「ああ、」

 ぼくは立っていられなくなり、せんせいにすがるようにして膝からくずおれた。足の感覚はすでになかった。両腕も、黒く細い骨格が、ばたばたとを散らしながら、融けるように消えていくところだった。

 もはや、頭と胴体だけになったぼくのを、ひざまずいたせんせいが抱きとめてくれた。

「もうじき、朝が来るね」せんせいがささやいた。

「せんせい」

 彼女の胸の中で、ぼくは確かに彼女の鼓動を聴き、においを嗅ぎ、ほのかな体温を感じた。それで幸せだった。崩れかけた軽いからだが、あたたかいものでいっぱいに満たされて、自然と涙があふれ出た。

「せんせい、大好きです」ぼくはそう告げて、まぶたを閉じた。

「わたしも、大好きだよ」

 せんせいはぼくの頭を撫でて、額にキスをした。「ずうっと、ここで、待ってるよ」

 バラードの大サビが響き渡る中、彼女に抱かれたぼくのからだは、ほとんどが風に融けだして、ぼくの意識が舞いあがるのを最後に、完全に解き放たれた。

 ぼくの意識は、

 空へのぼり、

 そこにいた

 そこにあった

 全てのものが、となって飛び散り、羽ばたき、枯れ葉の中へまぎれていくのを

 そして、そのまますうっと、白い無に塗りつぶされながら、ひと言だけを思った。


(この曲は……、おおげさじゃないかな)


       *


 この日の朝、ぼくが目を覚ますと、頭の中には懐かしのバラードが流れていて、なぜだかひどく切なく、涙があふれてとまらなかった。

 とにかく、驚いた。なにか夢を視たせいだろうと思ったけれど、視たことさえ覚えがない。

 何となく、その曲をもう一度聴いてみようと思った。

「カレクサ、……」

 ベットの中から、サイドテーブルに置いてある筒型の万能拡声器スマートスピーカーを呼び出して、その曲をかけるよう指図した。古いドラマの主題歌として耳に残っているだけで、元々、好きも嫌いもない歌だ。

「再生します」と、すぐにカレクサから正確な曲名が繰り返された。そのあとで、「なお、この曲は、クモさんからのギフトです」

「え?」カレクサがそんな補足をしたのは初めてだったので、また驚いた。「カレクサ、もう一回言って」

「すみません、よく分かりません」認識不能時にお決まりのメッセージを返して、カレクサはさっさと曲を流しはじめた。

 印象的な、山下達郎のコーラスで、イントロがはじまる。

 ピアノの伴奏に続けて、竹内まりやが滑らかに歌いだす。

 それが、心のなかにまで降り注いできたとき、

 まるで、この世に優しい終末がおとずれたような、切なくて幸せな気持ちで満たされた。

 そして、あたたかい涙が、再びこぼれ落ちてくるのだった。

 結局、ただただ不思議に感じるだけで、涙の理由は分からなかった。

 ぼくは、仕方なくベッドから抜け出して、をよけながら、散らかりきった洗面台までとぼとぼと歩いた。、いつものさえない顔を一応手入れしなければならない。

 洗面台の鏡に、目を赤く腫らした自分が現れた。を、ひげそり前のあごのあたりでかきながら、ぼくはもうしばらくだけ、竹内まりやの歌に聴き入った。



 せかいが終わるけどきみは編んでいてほんとの愛とくらましのゆめを


(終)

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