第8話

 木々の葉先が黄色や赤に染まり始めるころ、百合香のお腹はだいぶ大きくなった。穏やかな表情でお腹を撫でる拓巳と百合香はすっかり親の顔だ。僕も時々触らせてもらって新しい命の成長と感動をおすそわけしてもらってる。


 茉莉のことは吹っ切れたわけではない。多分それは一生かけてもできることではないとわかって、諦めというか、もやもやした感情も含めていつの間にか受け入れてしまった。


 来週の土曜日は例の水族館の最後の営業の日だった。年々街の人口が減ってきたこともあってか来客数は減り、ついに閉館が決まってしまったのだ。その土曜日は偶然なのか運命なのか、茉莉の命日だ。

 水族館には行く茉莉と出会え前からよく行った思い出の場所だから。帰りにあの喫茶店にも行く。久々にあの卵サンドが食べたいから。


 それはもう閉館を聞いた時から決めていたことだがそこに茉莉を連れていくかどうか少し悩んでいた。


 土曜の朝、仏壇に目をやる。そこには変わらず笑う二人の写真がある。自然と手が伸び、カバンの中に骨壷を入れてブレスレットを自分の左腕に着けた。悩んでいた割には案外すんなり準備が終わってしまい、心の中で苦笑してしまった。まぁいいか、久々の水族館、これで最後のデートにしよう。


 最終日だからか水族館はなかなかに混んでいた。いざなくなることが決まったらもったいないとか、残念だと言って最後の見物に来る。なくなる理由は僕らがいつもあるからと言って見向きもしなかったせいだということに気づいている人は一体何人いるんだろう。


 クラゲの水槽の前に小さな女の子がいた。ガラスの壁に柔らかそうな小さな手をついてにこにこ楽しそうに眺めている。


「ママ。丸くて白くてお月さまみたいだね。かわいいねぇ。」


 海に浮かぶ無数の月。あの子は大人になってクラゲを漢字で「海月」と書くことを知った時、今日の自分の言葉を思い出すだろうか。今の気持ちを思い出して心踊らせて欲しいと、名前も知らない子供の無垢なままの成長を祈った。


 まり、イルカショー始まるからもう行くわよ。


 そう言って子供の手を引く母親の声は聞こえないフリをした。


 自販機で缶コーヒーを買ってベンチに座る。この中に茉莉と一緒にみたクラゲは一体何匹いるんだろう。そんな哲学的な妄想に耽けようとしたとき、ポケットの中の携帯が震えて現実に引き戻された。取り出して確認すると拓巳からメールが来ていた。


『さっき行ってきた定期検診でお腹の子供の性別がわかったよ。女の子だって。』


 それは赤ちゃんの性別の報告だった。女の子か。拓巳はきっとデレデレだろうな。小さい頃はパパと結婚するなんて言われて喜んで、思春期にパパくさいって言われてへこんで、大人になったら結婚は認めん!っていう典型的な娘大好きパパになるに違いない。一喜一憂する拓巳を百合香が宥める、そんな幸せな家族の風景が簡単に想像できる。それは僕が一年前まで茉莉と共に見れると思っていた風景だった。


 コーヒーを飲みきってベンチから立ち上がる。水族館を一通り回りながら、ここにいる魚たちは明日からどこへ行くのだろうと思った。近くの水族館に引き取られるのかな。


 人間の都合で連れてこられて人間の都合でまた違うところへ連れていかれる。人間なら自分の意思で抵抗したりもできるが、魚は言うことを聞くしかない。たとえいまから殺されるとなっても言葉も発せずただ受け入れるしかないのだ。


 それを「哀れ」だなんて思うのはただの人間のエゴでしかない。


 水族館を後にしようと外に出た時、なんだか場違いな、真っ赤な口紅の女性とすれ違った。あの人はきっともっと薄い色の口紅の方が似合うはずだ。そっくりな顔の娘はいつもピンク色の口紅だったから。


 喫茶店の扉を開けるとカランコロンという心地よい音が響いた。相変わらずこの店は昼時を外れたらとても静かだ。


「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。」


 もう一年以上来ていない僕のことをマスターはしっかり覚えていてくれた。今日は茉莉がいないことにもきっと気づいているのだろう。卵サンドとコーヒーを頼み、窓の外から海を眺める。どうしてか今日は時間の進みが遅い。いつもここへ来る時はもうこんな時間なのかと少し残念な気持ちがあったし、卵サンドが来るまでの時間もあっという間だったはずなのに。


 マスターがトレンチに注文の品を乗せて運んでくる。テーブルに置いて、いつもならそのままごゆっくり、と一声かけてカウンターに戻るはずなのに今日は違った。


「茉莉さん、亡くなられたそうですね。」


 マスターが知っていることは驚きだった。新聞のお悔やみ欄で見たのだろうか。


「きっと命日の今日、いらっしゃって頂けると思っていました。私は高尚なことを言える立場ではありませんが、あなたは前を向いてこれからも生きていかなければなりませんよ。」


 それだけ言うとマスターはカウンターの方へ戻っていった。僕はこの時マスターが声をかけてくれた理由はただの励ましだと思っていた。

 会計をして、いつもの道を歩きながら海へ向かう。


 海に着いた時、ビニールのようなものが落ちていることに気づき、そこに向かって歩いていた。それはビニールなんかじゃない、砂浜に打ち上げられたクラゲだった。人を刺す気力も波に戻る気力もなくなり息絶えてしまったのだろう。


 この時やっと僕は今日、この海で茉莉と共に沈もうとしていたことに気がついた。水族館が閉館するから、久々に卵サンドが食べたかったから、そんなのは言い訳でしかなく、ただ茉莉との思い出をたどってこの約束の海で最後を迎えようとしていたのだ。自身ですら気づいていなかった気持ちをマスターは見抜いていた。さすが年長者にはかなわないな、そう思いながらふふっと小さく笑ってしまった。


 しゃがみこんでクラゲを見つめる。今日見た水槽の中にいたクラゲは一年前もいたのだろうか。きっとみんな違うのだろう。誰かがいなくなっても似たような形の代わりが追加される。外から見たら昨日と同じ景色のまま。きっと海の中でも一人いなくなれば一人産まれる、そんなふうにうまく巡るようにできている。


 時々起きる「想定外」の出来事もいつの間にかなかったことにされてしまう。人間が海の箱を作ったように、この世界は神様が作った小さな箱の中なんだから。


 両手でクラゲを掬いあげて海にそっと浮かべる。昼間の海に白い月が浮かんで、いつの間にか波にさらわれて沈んでしまった。


 沈むクラゲを見ながら、どうして君は死んでしまったんだ、どうして僕はもっと寄り添ってあげられなかったんだ、そんな感情が溢れて涙が止まらなくなってしまった。茉莉の話を聞く時間は沢山あったはずなのに正面から受け止めるのが怖くて見て見ぬふりをしてしまっていた。


 もしかしたら茉莉は水族館の魚たちを自分と重ねてみていたのではないだろうか。社会という箱の中に閉じ込められて、生きる意味も見当たらず、死なないように定期的に「愛」を偽ったエサを与えられて生かさている。そんな悪趣味な世界に嫌気がさしてしまったんだろう。


 茉莉、一緒に沈もうか。カバンから出した骨壷を抱え、一緒にはしゃいだ誕生日のように靴を脱いで冷たい海に足を入れる。またポケットの携帯が震えた。


『百合香と相談して決めたんだけど、子供の名前は悠につけてほしい。』


 涙で霞む視界の中、拓巳のメールを読む。頭の中で優しいマスターの声が響いた。



 立っていることが出来ずに崩れ落ちるように浅い海底に膝をつく。その時手からこぼれおちた骨壷の蓋が開いてしまった。灰がキラキラと天の川のように光って、流れて、海に溶けていく。


 ごめん茉莉、ごめん。僕はまだ生きていたい。


 顔をあげ、涙を拭うと雲ひとつない青空と空を反射して輝く海が混じり合ってどこまでも遠く、青い世界が広がっていた。


 どうして残酷なこの世界はこんなにも美しいのだろう。神様は本当に悪趣味だ。


 僕は今日も茉莉のいない青い箱の中でで 生きていく。君と海を漂う来世に夢を見ながら。ゆっくりと左手を空にかざすと、青い世界に小さなクラゲが優しく光った。


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水葬 椿木るり @ruri_tubaki

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