第7話
「コーヒー間違って2つ買っちゃったんです。よかったらひとつもらって頂けませんか。」
缶コーヒーを差し出しながら自販機で間違って2つ買うなんてことあるか、とか茹でダコみたいに真っ赤な顔になっていないか、とかいろんなことが頭をぐるぐる巡って彼女がコーヒーを受け取ってくれるまでのほんの5秒くらいがものすごく長く感じた。
「ありがとうございます。せっかくなのでいただきますね。」
暗い茶色の髪にピンク色の唇をした少しあどけない顔の女性がにこりと笑って白い腕をのばし僕の手からコーヒーを受け取る。爪は短く切りそろえられているのにその指は細く長く、綺麗だった。平静を装いながらも僕は内心めちゃくちゃ喜んでいた。いい大人のくせに初恋の女の子と初めて話せた時のように心が弾んだ。
ここは水族館のクラゲコーナーの前にあるベンチ。高校生のころから僕が休日によく来るお気に入りの場所だ。16歳のときに付き合っていた女の子とデートに来た時に見つけた。残念ながらその子とは数ヶ月で別れてしまったが高校生の恋愛なんてそんなものだろうと、特に引きずることも無くここへ来ていた。大学に進学した際に地元を離れてめっきり来なくなってしまっていたが就職してこの街に戻ってきたからはまたよく来るようになった。
ゆらゆらと揺れるクラゲを見ているとわずわらしい人間関係や無駄に手間の多い書類仕事で疲れ切った心が癒されていく。クラゲをずっと見てて楽しい?なんて聞かれるのがいやなのでここに来る時はいつも一人で来ることにしている。
いつからかはわからないが僕が座っている横にいる女性が大体いつも同じ人であることに気がついた。気づいてしまってから勝手に親近感、みたいなものが湧いて見かけるたびに心の中でこんにちは、と挨拶していた。それがだんだんとこの人と話してみたいという気持ちに変わって今日ついに勇気をだして話しかけてみた。
「よく、ここにいますよね。僕何度か見かけたことがあって…」
このタイミングを逃したらもう話しかけられないぞ、がんばれ、と自分を鼓舞しながら必死に震える声で話しかける。こんな時、拓巳なら何も臆することなく話しかけられるんだろうなと今ごろ恋人といちゃついてるであろう幼なじみを羨ましく思った。
突然話しかけて自分の隣に座る、下手をしたら不審者の男にも彼女は優しく返事をしてくれた。
「こうやってクラゲを見ていると疲れた心が癒される気がするんです。」
僕と同じことを考えている。もしかしたら彼女とならこの癒しの時間を共有できるのではと勝手に運命のようなものを感じていた。
「よかったら、また声をかけてもいいですか。僕、立花悠といいます。」
今度は声は震えなかった。
「ぜひ。私は白石茉莉と申します。」
勇気を出したこの日からベンチの前で会うとお互い自然と声をかけるようになった。話すようになって何度目かの日に茉莉がクラゲをじっと見つめながら僕に言った。
「クラゲの水槽ってすごく工夫されててお世話をする飼育員さんもすごく大変らしいよ。クラゲは泳ぐのが下手くそで、見た目通りゆらゆら漂って生きているから普通の水槽で飼育したら笠に空気の泡が入ってぐちゃぐちゃの形になったり、フィルターに吸い込まれて消えちゃったりするんだって。綺麗で繊細な生き物をわざわざ捕まえて見世物にして、このクラゲたちもどうせ流されるなら広い海で自由に流されたかったよね。こんな狭い箱に閉じ込められないで。」
淡々とそう話す茉莉の横顔は白くて美しくて何かを憎んでいるような感じがした。実際には表情は変わっていないはずなのに。
その横顔を見ながら狭い箱、その言葉を繰り返す。人がつくった小さな海の箱、そのなかで上手に泳ぐことも出来ずに漂うこのクラゲたちはいま何を思っているのだろう。そんなこと考えたこともなかった。
きっとこの時もう茉莉の後ろにはなにか暗い影があると気づいていたのに恋心に隠して見ないふりをしていた。
「この水族館の向かいにおしゃれな喫茶店があるんだけど行ったことある?私まだなくて、よかったら一緒に行かない?」
茉莉は一瞬俯いて顔を上げ僕に笑顔でそういった。
喫茶店に入ると口髭をたくわえたマスターが笑顔でいらっしゃいませと言ってくれた。昼食時は過ぎているからか僕ら以外にお客さんはいなかった。
おしゃれなところだね、と茉莉は喜んでメニューを見ていた。僕は卵サンドを頼み、まだ朝から何も食べていない腹を満たした。程よく形が残っていておいしい。
小さな口で可愛らしく頬張る茉莉にさっき見た影はもうなかった。この時、小動物のような可愛らしさに時折見せる暗いなにかを合わせ持った目の前にいる女性を守りたいと心から思った。
2人とも食べ終え、食後のコーヒーを堪能しながら僕の心臓はドキドキ言っていた。きっとカフェインのせいだ、そう思って2回目の勇気を振り絞った。
「茉莉さん、よかったら僕と付き合って貰えませんか。」
声が大きかったかもしれない。きっとマスターは気づいているだろうが何も見てない聞こえない振りで皺のよった男らしい綺麗な手で白い皿をふいていた。
「私でよかったら。」
茉莉がそう答えてくれた。心の中でガッツポーズだ。帰ったら拓巳と百合香に報告しなければ。
ずっと海に潜っていたようなひどい息苦しさを感じて目を覚ます。随分と昔の夢を見た。僕が告白したあの時茉莉はどんな顔をしていたかな。たしか笑顔だったはずだ。でもどうしてか白い靄がかかったように思い出せなかった。
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