短編集

福舞 新

玉葱


「ただいまー……」

誰もいない暗い部屋に向かって声をかける。もちろん返事はない。

 私は玄関のドアを閉め、持っていた仕事用の鞄を置き、晩ごはんの材料が入ったレジ袋を持ってキッチンに向かった。私はシンクの前に立ち、晩ごはんを作ろうとする。だが、やる気が起きない。少し立ち尽くしてボーッとしたあと、材料を冷蔵庫にしまいキッチンをあとにしてリビングに向かった。

 テーブルの前に片膝を立てて座りテレビをつけ、さっき買ってきたビールをいい音を鳴らしながら開けて一口、二口と飲む。ビールが乾いた喉を潤して、身体中に染み渡る。テレビではお笑い芸人のナンバーワンを決める大会が放送されており、よく名前を聞く芸人たちが出ている。

 でも、旨くない、つまらない。

テーブルの上には、朝、私が身だしなみを整えるために使った丸い鏡が一つだけポツンと置いてある。そこには、実年齢より老けて見えるふくれっ面な顔が映っていた。

私はこんなに不細工だったか?そう思った私は半分以上残ったビールをテーブルに置き、両頬をつまみ、無理やり口角を上げて顔を笑わせてみた。

だが、どうにもバカみたい。なぜ、面白くもないのに笑わないといけないのだろう。むしろ最近、心の底から笑ったり、泣いたり、怒ったりなどと感情を出したことはあるだろうか?

就職してからそんなこと一回もないだろう。さしずめ、今の私は作業をこなす一台のロボットだ。

 私は深いため息をついてテレビを消し、カーペットの上に横たわった。

 天井のLEDの光がまぶしい。


 明日、実家に帰る


 だから本当は今から急いで着替えなどの準備をしなくちゃいけない。そのために仕事を早退したというのに、からだが動こうとしない。

 そういえば、実家に帰るのはいつぶりだろうか?たしか、大学を卒業したときに少しの間だけ実家で暮らしていたからおそらく二年ぶりになるだろう。

 実家に帰ったらおそらく地元の友人にも会えるし楽しいだろうな。同窓会のときに地元で働いていると言っていた、あの初恋の人にも会えるかも知れない。

 そう私の心に言い聞かす。

 でも、心は未だ乾いたままだ。

 実家のすぐ傍には母方の婆ちゃんが住んでいた。

 爺ちゃんは私が生まれる前に癌で無くなったらしく、会ったことは一度もない。写真は見たことがあるが、そこまでイケメンでは無かった。でも、婆ちゃんは私が遊びに来るといつも爺ちゃんの惚気話をしていたから、それだけすばらしい男性だったのだろう。婆ちゃんは料理が上手で、正月やお盆、お彼岸などに遊びに行ったときはいつもおいしい料理を作ってくれた。


そのとき、ふと昔のことを思い出した。


 高校二年生のあの寒い雪の日、私は進路のことで両親と喧嘩して家出をした。家出をしたといっても私は婆ちゃんの家に行っただけだった。婆ちゃんは何も聞かずにただ私を迎え入れてくれ、両親が来てもうまく誤魔化してくれた。

 私は婆ちゃんに勧められてこたつに入った。寒いからだが暖まる。

 「晩ごはんにしようか」

 婆ちゃんはそう言って立ち上がる。

 私は「いらない」と軽く突っぱねるが、婆ちゃんは「ちゃんと食べないと大きくなれないよ」と言ってそのまま台所に向かった。このとき私は既に婆ちゃんの身長を追い抜いていたのに。

 数十分経って婆ちゃんがお盆を持って戻ってきた。

 そのお盆にはご飯、味噌汁、肉じゃが、ひじきの煮物といういたってシンプルかつ、少し古くさい料理が並んでいた。

 そのとき食べた味は今でも覚えている。いつもと変わらない婆ちゃんの味、だけどなぜか心の底まで暖かくなるようなおいしい味。

 私は食べながら涙を流していた。

 「美味しいかい?」

 婆ちゃんが隣で優しい微笑みをしながら聞いてくる。

 「うん、美味しい」

 私は婆ちゃんに答えた。

 婆ちゃんは、「そりゃ良かった」と言って隣で同じ料理を食べた。


 食べ終わって、食器を一緒に洗っているとき、婆ちゃんが言った。

 「今日は泊まっていきなさい」

 私は婆ちゃんの方を振り向いた。

 「何があったかは聞かないけど、明日は仲直りするんだよ。そして、もし、また喧嘩になったら私の家に来なさい。また晩ごはん作って待ってるから」

 そう言ってくれた。

 私はその日、婆ちゃんの言葉に甘えて一日泊まらせてもらった。

 まあ、結局次の日の朝、大粒の涙を垂らした両親が婆ちゃんの家にやって来て、私と婆ちゃん二人とも怒られたのだが。でもそのお陰なのか、進路のことは「私の好きなようにしていい」と言われて、無事、第一志望の大学に行くことができた。


 それで今、ブラック企業で働くことになったなんてまさにお笑い草だなぁと私は頭のなかで思った。


 味噌汁


 あの味噌汁をもう一度作りたい。

 そう思った私は体を起こし、キッチンに向かった。

 先程しまったばかりの材料を出し、包丁とまな板を並べた。

 具材はいたってシンプル、わかめ、豆腐、そして大量の玉葱、これだけである。

 お湯に煮干しを入れて出汁をとっている間に、私は具材を切り始めた。

 豆腐はさいの目で細かく切る。スッスッと包丁が通る。豆腐を器に移し、次はたくさんの玉葱を切る。


ザクリ


ザクリ


 玉葱がいい音を鳴らしながら切れていく。鼻にツンと刺激を感じる。

ザクリ


ザクリ


 ふいに、目の縁から涙が溢れる。

 そういえば、婆ちゃんが言っていた。

「泣きたくても泣けないとき、自分の感情がうまく出せないときは玉葱を切ればいいんだよ。そうすれば、玉葱が泣かせてくれる」


ザクリ


ザクリ


 涙が止まらない

 玉葱を切る手の甲に涙が滴り落ちる。


ザクリ


ザクリ


 ボロボロと大粒の涙が流れている

 もはや視界が歪んで前は何も見えない。

 私はいったん包丁をおいて、手を洗い、目を押さえた。


 婆ちゃんが料理を作っているときの後ろ姿が思い浮かぶ。

 グツグツ煮えている鍋、その横で玉葱を切っている婆ちゃん。


 そんな婆ちゃんの姿が脳内に写し出される。


 ありがとう


 なぜかその言葉が出てくる。

 なぜかは分からないが自然とその言葉が。



 ありがとう婆ちゃん


 でも、あなたはもういない

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