彼女の離婚の理由

山藍摺

彼女の離婚の理由

――今日も、会話は繰り返される。




「おかえりなさい」


「ただいま」




 ただ、それだけを繰り返す。ただ、それだけで良かった。


 ――毎日、変わらないやりとり。




「いってらっしゃい」


「いってくる」




 ――毎日、繰り返す。


 それが、当たり前になったのはいつからか。


 それが、特別でなくなったのはいつからか。


 いつからか特別は当たり前になり、いつからか特別は熱い感情を伴わずに、いつからか平坦に、淡白になっていった。


 ……いつから、だったのだろう。それはもう、誰にもわからない。


 彼女は旦那と婚姻して三年を迎える。


 彼女と彼女の旦那は、ともに共働きであった。彼女自身は勤務時間がだいたい決まっていて、朝が早く夜が遅い勤務体系であった。彼女の旦那は勤務体系がかなり不規則であり、時間の都合上どうしても二人はかなりすれ違うことになった。


 そのことは、二人は結婚前からわかっていた。わかって結婚していた。


 お互い、わかっていたのだ。結婚前に話し合い、お互いに納得しあった。決して妥協ではなく、ひとえに共働きでないと家計をやりくりできなかったからだった。


 だからこそ、彼女は彼女なりにその生活を満足していた。


 きっと、彼女の旦那だってそうだと、彼女は当たり前のように思っていた。


 けれども、当たり前というのはいつまでも当たり前とは限らない。代わり映えのしない当たり前の日常といったものは、いつかは崩れるときが来るからこそ、かけがえのないもの。


 だからこそ、失うまでは誰も気付かない。誰も、それを失ってはじめて大切さに気付くのだ。






★★★★★★★★★






 その日は月末だった。


 世間様の月末の例に漏れず、彼女もいつものように残業だった。月末の日は、彼女はいつにもまして仕事からの帰りが遅かった。


 彼女は帰宅してから、まず掃除洗濯ご飯の準備にとりかかる。


 彼女は手抜きはしない。仕事が不規則がちな旦那のためにも、きちんとした食生活をといつも心がけていた。


 その日も、いつものようにスーパーの惣菜ではなく、手作りの料理が並んだ。


「いただきます」




 今夜は旦那の帰宅は深夜十二時をまわる。日付変更線をまわるのは当たり前。対して彼女は朝六時に家を出る。


 彼女はひとり夕御飯を終えて、旦那の分をラップにかけて冷蔵庫に入れた。


 ――彼女は最初は旦那の帰宅時間にあわせて、旦那とともに食事をともにとっていた。


 けれども彼女は不規則な食事、規則的な就労時間を経ている間に、それが原因で体調を崩した。


 以来、二人揃って食事をとることが無理なときは、別々に食事をとることが習慣づいた。


 そのかわり、帰宅予定時間の前後には起きて、おかえりなさいの熱烈な接吻を雨のように降らすのだけれども。


 彼女は、そんな変わらない日常が過ぎていく日々がとてもいとおしかった。




「お疲れさまっ! おかえりなさい!」




 引き戸のドアが開く。彼女の旦那が帰宅した。旦那に飛び付こうとした彼女は、旦那に止められた。




「え、どうしたの?」




 彼女は訝しみ、首をかしげつつ、口を尖らして不満を訴えた。


 どんなに疲れていても、接吻の一回もしくは熱い抱擁をして、彼女たち夫婦は互いに伴侶成分を補うのを日課にしていた。


 ――なのに、何で。


 そう顔に書いて固まる彼女をちらっと見て眉をひそめ、旦那はあからさまに「はあああ」と溜め息をこれ見よがしに吐いた。




「疲れているんだ」




 ただ一言を告げて、旦那は彼女を一瞥もせずに脱衣所へと足を向けた。




「…………」




 固まった彼女が衝撃から抜けて、ふらふらと動き出したとき、寝室から旦那のイビキが聞こえてきていた。


 いつもなら寝ていても必ず気付いて抱き締めてくるのに、寝室に戻った彼女にも気付きもせず、旦那は彼女に背を向けて眠りについていた。


 彼女は眠れぬ夜を悶々と過ごし、結果目の下に大きなクマを拵えてしまった。それでも彼女は、染み付いた習慣から、身体が睡眠不足からふらふらとしていても、朝の支度をするために動き出した。


 ――台所の冷蔵庫の中にあった旦那の晩御飯は手つかずだった。


 朝のいってらっしゃいの接吻+抱擁も、なかった。彼女は、表現し難い不安に襲われて催促ができなかった。






★★★★★★★★★★






 旦那との接吻や抱擁が、当人から拒否されはじめて数週間が経過した。


 はじめて拒否されたあの日にできた彼女の目の下のクマは、すっかりその場所に定住してしまった。いまだって、ゴミ出しをする彼女の目の下でその存在を声高に主張していた。すっかり、化粧では隠しきれなくなっていた。




 ――「こんにちは」




 そんな時だった。


 旦那の姉、つまり義理の姉が妊娠したと、彼女に電話の連絡が来たのは。




「おめでとうございます!」




 先月から、月のモノが来ていなかったという。なので産婦人科をたずねてみれば――おめでた、二ヶ月目であったという話であった。




「ハネムーンベビーなの」




 義姉は今月結婚したばかり、先日ハネムーンにいったばかりであった。だからそれは計算はあわない。計算あわないと思わず突っ込みかけたが、彼女は電話の向こうの幸せ全開オーラを前にして突っ込めなかった。


 義姉の二ヶ月という言葉を信じるならば、できちゃった婚、のようだ。昨今は婚前交渉などよくある話。けれども義姉の場合は、おめでたを知ったのは結婚の後、しかも婚前交渉での授かりではないといっている。ならばこの場合はできちゃったとはいわないのか。


 つくづく強かな人だなと彼女は思いながら相槌をうち、話をあわせた。黒い後ろめたい噂の枚挙に暇がない義姉のことだ。虚偽だったにしろ、真実だったにしろ、義姉がハネムーンベビーといえばそうなのだ。




「とにかく! 羨ましい〜! 旦那ちゃんに今夜おねだりしよっかなぁー」




 義姉の策略の真偽はさておき、彼女は素直に喜んだ。真偽への疑問や突っ込みはあるにしろ、そんな灰色な気持ちよりも羨ましさ、そして姪っ子か甥っ子ができることが嬉しかった。彼女はその職種についてしまうくらい、大のつく子供好きだった。


 うかれ鼻唄を歌いながら、早速ことほぎのメールを送り、赤飯を炊いて義姉をたずねることにした。


 彼女はこのとき、旦那からの拒否行動や自身の睡眠不足などの体調不良をすっかりさっぱり忘れてしまっていた。






★★★★★★★★★






「げほ、げほっ」




 義姉の妊娠発覚から数週間が経過したある日、彼女は仕事を休んだ。


 なんだか体調がおかしかったのだ。数週間前から彼女の全身を倦怠感が襲い、止まることのない咳が続いていた。


 続いていた睡眠不足からくる風邪だと、すぐよくなるだろうと楽観していたのがいけなかった。ついに彼女は高熱を出してしまったのだ。




「立てない……匍匐前進しかできないなんて……た、くしぃ……呼ばなきゃ……」




 タクシーを呼び、ほうほうのていでかかりつけの内科を受診し、くだされた診断は――原因不明。


 睡眠不足や、度重なる心労からきた肉体的影響が原因だと考えられなくもない、首をかしげる医師に診断された。なんともはっきりしない、曖昧な診断に彼女も首をかしげたのだった。


 ――結局その日は熱冷ましの頓服薬等を処方され、彼女は帰宅した。どこか腑に落ちなかったけれど、彼女を十数年来診てきた医師がそういうのだからそうなのだと。






★★★★★★★★★






「――あら、痩せたの?」


 いつのまにか、そんな言葉が会う人会う人の決まり文句になっていた。


 謎の高熱をだしたあの日から数ヶ月、彼女は目を見張るスピードで体調を崩していった。下り坂を転がるボールのように、それはあっという間であった。


 ――彼女を蝕む症状は、原因が不明の謎の全身の湿疹、原因が不明の謎の震えなどなど。頭痛も、腰痛も、筋肉痛も、全身が痛みを襲う。痛くない場所はないくらいだった。


 病院を変えても、どこもかしこも原因が不明ではっきりせず、曖昧なストレスによる疑いありという首をかしげながらの診断だった。




「何で、何で?」




 しかし今は繁忙期ではないし、仕事面は順調でストレスなどない。




「まさか」




 旦那の拒否行動か。それが一端なのは間違いないが、旦那の拒否行動の開始時期と体調悪化の時期とが微妙にあわない。旦那の拒否行動からの精神的ストレスが主な原因ならば、あの日に大きく体調を崩し始めているはずだ。それだけ彼女が受けた衝撃は大きかった。それが主な原因だとしたら、違和感が拭えないのだ。


 ――なら、なぜ。


 体調が不調になってからかなりの月日が経過した。彼女は最早薬づけであった。湿疹の塗り薬が突如肌にあわなくなり、治りかけていた肌が悪化した。彼女は完治など諦めた。


 そんな時だった。




「――あんた、それどうしたんだよ?!」




 久々にあった同級生は、彼女を見て途端に顔を血相を変えた。


 問答無用で、さらに無言で焦る同級生に神社へ連れていかれた。地元では有名な厄除けに強いと評判の神社であった。


 そして、同級生は宮司に彼女を紹介した。


 宮司は、同級生の親類であった。同級生に似た面差しの初老の宮司は、彼女を見てすぐさまに厄払いを、とやはり問答無用で厄払いをした。


 ――なんやかんやと、体調の悪い彼女は流されるままに厄払いを受けた。既に抵抗したりする気力も体力も精神も無かった。




「どうだろう、体は軽くないかね?」




 いざ祓われたあと、彼女は体が軽いのを感じた。あんなにあった倦怠感も、吐き気も、何もなかった。心なしか湿疹も落ち着いているような。




「何で?」


「それは――……、君、多分……吸われていたようだね」




 不思議だと首をかしげる彼女に、宮司は説明をした――いわく、彼女は運命やら気力やら体力やらを吸われていたらしい。




「そんな話……」




 なんともオカルトで、非現実的な話ではあったが、どことなくふにおちる話ではあった。違う医師が皆匙を投げた体調不良は、そんな突拍子もない話でないと納得がいかないのだ、極端なところ。




「でも、何に?」




 彼女は気になった。吸われたと仮定して。もし、そうだとしたら――いったい、何に?




「……君、聞いても後悔はしないかい?」




 宮司は、少し言いにくそうに話を切り出した。




「何ですか。知りたいです!」




 彼女は知りたかった。ここしばらく彼女を苦しめていたかもしれない、そんな可能性を、その原因を。医師が診きれなかった、しかし門外漢の宮司にわかるそれを。




「君、身内に妊婦さんはいるかい?」




 宮司はぽつ、ぽつと、彼女の様子を見ながら語り始めた。




「感じるのだよ……」




 宮司には、彼女の後ろに――感じたのだという。何かがいる、と。強く強く彼女を吸っている何かが。


 いきなりホラーな展開になったため、彼女は隣にいる同級生の手を強く握った。同級生は彼女を安心させるかのように、強く、強く握り返した。


 彼女は、この世に生まれようとしている何かの、栄養源みたいな扱いになっていた……らしい。それはあまりにも強く、彼女から吸いとった。なぜ、吸いとるのか、なぜ、彼女なのか、それは、何者なのか――それはわからないと宮司は真剣に語る。しかし、彼女が強い生命力を持っているのは確か。だから、なのかもしれないと宮司は締めくくり、彼女にひとつの厄除け守りと破魔矢を渡した。










「あなたも、気付いたから、連れてきてくれたの?」


 神社からの帰り道、彼女は同級生に問うた。同級生は頷いたことで肯定した。




「なんか、いたから」




 彼女は同級生に何が、とは怖くて聞けなかった。


 彼女は、厄除け守りと破魔矢が入った白い手提げの紙袋を持つ手に力を込めた。


 ――彼女の頭の中で、宮司の言葉が繰り返し繰り返し流れていた。




『君、身内に妊婦さんはいるかい?』




 彼女の身内にいる妊婦、それは義姉しかいなかった。




「まさか」




 笑って済ましたかった、しかし笑えなかった。だって、彼女が体調を崩し始めた頃と――義姉が妊娠したのは合致するのだから。


 背にうすら寒さと流れる冷たい汗を感じ、彼女は――暦上は秋だけれど、暑い秋と言われていた――暑いのに震えてしまった。










 そのあと、彼女は離婚した。彼女の体調を顧みなかった旦那にようやく愛想をつかしたのもあるが、姑に体の弱い子も望めなさそうな女は要らないといわれたのも一理ある。


 けれども、それもいくつか理由のひとつかもしれない。


 彼女が別れた理由、それは――




『君、身内に妊婦さんはいるかい?』




 義姉の腹の子と縁を切る、それが大きかったり――するのだ。


 腹の子が成長するにつれ、比例し体調を崩していた。


 別れてから、彼女は体調が戻り、全快したという――











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