彼女、ひまわり、そして青空。

かぷっと

第1話

「ねえ、まだ駄目なの」

「まだだよ、あともう少しだけ」

 私のまぶたにしっかりと覆いかぶさる幼なじみの手がある。

 彼は今朝私と顔を合わせるなり、連れて行きたい場所があるんだと裏の山奥へと手を引いていった。頂上に近づくと今度は、少しの間目を塞がせてと頼んできた。だからこうしてとうに成人した大の大人二人、垢抜けないもんぺと国民服で山道をよちよちと歩いている。

 正直な話、彼の思惑はすっかり分かっているのだ。彼の汗でびっしょりと濡れた手のひらもその原因の一つだが、なんと言っても幼なじみだ。だが私は寛大なので、相変わらず少し抜けた彼に付き合ってあげることにした。

「もういいよ」

 ゆっくりと目を開けるとそこはひまわり畑であった。見渡す限りのイエローの大海原が青天に冴えかえり、まるで西洋絵画の中にいるようだ。

 すごいとようやく声を漏らした私に、彼はようやくほっとした様子で言った。

「本当は、何本か植えて花束にするつもりだったんだけれど、君のことを考えながら種を蒔いていたらこんなになってしまって」

 一緒に来てくれますかと不安げな彼にただ微笑み、私はその手を取った。

 

 抜けるような青空の下、ひまわり畑が広がっていた。勝気な笑みを浮かべているが、どこか寂しげにも見える女がその前に立っている。この人は、誰だろうか。

 僕は細部までよく見るべくさらに顔を近づけ、そして油絵独特の臭いに顔をしかめた。県内のそれもアマチュアコンクールの作品のため卓越した技巧の作品というわけでもなく、画題もありきたりだ。だが強く惹かれる何かがある。

 他の作品を見ることも忘れ、そのひまわりと青空と女の絵に釘付けにされながら僕は一つの思いを強く抱いていた。どうしても彼女に、一目でもいいから会いたいと。

 見るほどに彼女の表情は物憂げさを増していく。なにがあなたをそんな顔にさせるのか、どうしてもそれを尋ねたかった。

 僕はなんとか主催に頼み込んで、この絵を描いた人の所在を知ることができた。勤め先の出版社のコネというやつだ。話によると随分と山奥に家があるらしく、道案内のために近隣の人が来てくれるらしい。待ち合わせの無人駅に来たのは人の良さそうな中年の女性だった。もんぺ姿で、なにやら大きな風呂敷をもっている。

「あの子の絵を見に来たんだってね」

 正確に言うと少し違ったがわざわざ訂正するほどのことでもなかったので、素直にそうですねと答えた。

「小さい頃絵が上手くてね。よく鳥やら花やら描いては先生に褒められていたよ」

「昔からの知り合いですか」

 女性は少し言葉に詰まってから、そうだねと困ったように笑った。ぎしぎしと油蝉の大合唱が騒々しい。

「実は私はあの子の、あなたが今から会いに行く絵描きの姉さんなんだ。今はもう嫁いでしまったから、あまり面倒は見てやれないんだけど」

 それから僕らは無言で足を動かし長い長い坂を登っていきようやく、あそこだよと指をさした。指の先には厩舎と物置小屋の間の子のような、粗末な家が建っている。

 ごめんください、と声をかけることもなく扉は開いた。思ったよりも若い丸眼鏡をかけた男性だった。

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」

 あいすくりんが崩れるように顔を綻ばせた彼はこのような寓居で申し訳ない、と私を中に迎え入れた。戸を締める直前にようやく女性に気がついたようでいつもご親切にどうも、とにっこりと笑った。

中で休んでいかれますかとも。女性は遠慮するよ、と手に持っていた風呂敷を彼に押しつけ帰っていってしまった。

「あの人は、いつも野菜を分けてくれる」

 有り難いことだ、と風呂敷から出したトマトにかじりつき、キュウリを僕に手渡した。ぽりぽりと瑞々しく爽やかな味がした。

薄桃の汁を存分に滴らせ、ようやくひと心地ついたのか彼はおもむろに言った。

「彼女に会いに来たのだろう」

 もう待っているから行こう、と手を引かれ僕らは山の頂上を目指した。

「彼女はね、とっても可愛らしいんだ。時折おっかないけど本当は優しい人でね」

 山の奥深くへ進む度にあたりは暗くなり、耳鳴りのように続いていた蝉の声もいつの間にか途絶えている。

「あの、まだかかりますか」

「うん、あともう少しだけ」

 そう言われれば仕方ないため、もうしばらく黙って手を引かれることにした。

 足を進める度に腐葉土の濃厚な匂いが立ち上る。そのうちどのくらいの時間を歩いたのかも、どちらからやってきたのかも分からなくなった。

「ここだ、ついたよ」

 嬉しそうに振り返った彼の向こうに広がっている景色に、僕は唖然とした。

雨ざらしで使い古したと思われるちいさな椅子に座り、彼は幸せそうに話しかける。 

「おまたせ、今日も本当に素敵だね。ああ、まだ彼を紹介してなかったね」

 彼はね、君に会いたくてわざわざこんなところまで来てくれたんだって。

紹介するよ、彼女が私の奥さん。

 彼は一面の焼け野原に、優しく微笑みかけた。

 

 戦後から丁度三十年経った年に、ある絵の展覧会が開かれた。百をゆうに超える展示作品のその全てが、ほとんど同じような絵なのだ。ありきたりな画題で、アマチュアに毛が生えた程度の絵。だが人を強く惹きつけるなにかがある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女、ひまわり、そして青空。 かぷっと @mojikaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ