カラタチの木

増田朋美

カラタチの木

カラタチの木

富士の街から少し離れたところに、その建物はあった。本当にどこかに一般的にある、小さな家と大して変わらないくらいの規模の建物だけど、その建物をめがけて車を走らせる人もいるし、電車やバスを乗り継いでくる人もいる。そしてその建物へ入るのに、一寸躊躇する人も少なくない。でも中へ入ると、親切な先生が迎えてくれると、そこへ行く人々は口をそろえて言う。その先生だけしか信じられないという、若い女性も多い。でも、みんなそこへ行くのは必要だからであって、理由もなくそこへ行く人はまずいない。

影浦医院。これがその建物の名前だった。小さな看板が設置されている入口には、大きなカラタチの木が、客を出迎えるようになっていた。木は春になれば、白く美しい花をつける。そう、誰かの詩を借りて言えば、白い白い花が咲くのだ。

建物の中には、何人かの人が待っている。静かに本を読んでいる人もいれば、ほかの人としゃべったり、スマートフォンでゲームをしたりしている人もいる。時には、ここで待つのはつらいから、ほかの部屋で待たせてくれと、お願いする人もいる。そういう人がいるのが、この病院の違うところかもしれない。

診察室は、その隣の部屋である。特に医療器具などが置いてあるわけでも無い。大概の患者さんたちは、医師をしゃべって、其れでおしまいという人が多いからだ。医療器具を使わなければならないという人は、本当に少ない。

今日も、診察室に、患者が入ってきた。お願いしますとお辞儀をして、静かに椅子に座った。

「今日はどうしましたか?」

医師の影浦千代吉は、其れだけ言って、あとは患者が話すのを待つ。患者が、話しだす時まで、影浦は発言を強要しない。それをしたら、本当に言いたいことを隠してしまうことがある。信用して、話し出してくれるまで待つべきだと思っている。

「はい、生きがいがないんです。」

患者は、高校生くらいの若い女性だった。

「どういうことですか?」

影浦が聞くと、彼女はちょっとうつむいていった。

「だって私、勉強して、良い成績取るしかすることがないんですもの。家事だって家族がやっているし、ほかの事もみんなほかの人がやっている。」

「ははあなるほど。つまり家政婦でも雇っているのでしょうか?」

「はい、そういう訳ではありませんが、父も母も家事ができるから、私は勉強しかすることがないんですよ。」

そういう彼女の正確な年齢は、17歳であった。其れはカルテに書いてある。

「私、どうしても勉強が好きになれないの、先生。私はどうせ良い成績をとったとしても、それは私が喜ぶんじゃなくて、親が喜ぶことだから。それを学校の先生は親孝行だって言いますけどね、あたしにとっては、本当につまらないし、唯やらされているだけという感じしかしない。それよりあたしはもっと役に立つことをしたい。そうだな、例えば食べたり、なにか作ったり、そういう事に力を入れたいのだけど、うちの家族も先生も、そんな役に立たないということはやめて、すぐに勉強をしなさいとしか言わないんです。勉強なんて砂を噛むようなことより、もっと役に立つことをやりたいんですけど、やってはいけないのかしら。」

彼女の口調はとてもしっかりしていて、一般的な子供っぽい高校生という感じはしなかった。

「ねえ先生、私、間違っていると思う?だってさ、試験で何点とる事よりも、ご飯を作るとか、服を作るとか、そういうことをやった方がよいと思うのよね。それなのに、そういうことをやりたいというと、なんで怒られなければならないのかしら?先生、そのわけ知っている?」

影浦は静かにため息をついた。

「いいえ、そういうことは間違いではありません。それはいきていくうえで、とても必要なことですから、それをやりたいという気持ちは理解できます。でも、悲しいことに、この世界ではもう、そういうモノは二の次なんですよ。それよりも、どこの大学とか、どこの会社とか、そういう事に目が逝ってしまうんですよね。まあ、仕方ないことと言えば仕方ないですね。其れはもう、時代の流ですから。ものを大切にするとか、食べ物をどうのという事は、もう古くてかっこ悪い話なんですよ。でもですね、悲しいかな、そういうことができなくなってしまう、という人も結構いるんですよね。そういう人は、昔の人から見れば、なんていう贅沢な奴らだという事になるんでしょうが、もし、そういう衣食住にまつわることをやりたいのなら、そういう人たちを助けるような仕事に就いたらいかがですか?今は、そのための、準備期間なんだと思って、勉強をするようにしたらいい。」

確かに、衣食住不自由であるというような人は、今の時代は極めて少ない。だから、そういう事は軽視されてしまう。でも、食べられないという言う人は、少なからずいる。

「そう言う人っているんですか?食べ物を食べられない人。そういう人に、ご飯を作ってあげられる仕事というものもあるんですか?」

彼女は影浦に聞いた。

「ええ、いますよ。例えば、あたしは痩せたいんだって言って、ご飯を食べない人もいます。ご飯なんて、ただの太るものだとしか考えていないのでしょう。そういう人に、ご飯の楽しさを伝えてあげられたら、その人たちは、きっと回復するでしょうね。僕たちは、そういう事をやってくれる人が欲しいなと思います。服を作ることもそう。ものを大切にすることを教えてあげたい人は、この病院に何人も来てますよ。そういうことを伝授できるのなら、素晴らしいと思いませんか?」

影浦はにこやかに答えた。

「でもそういう仕事というのはね、今の世の中ですと、高学力でないといけないんですよ。そういう資格を取るための、専門的な勉強が必要で、それを得るには大学に行くのが最短ルートだからです。だから、勉強するのは、その職業につくための足がかりだと考えたらどうでしょうか。どっちにしろ、大学に入るまでしか、本当に必要ではありませんから。其れは、今だけすればいいんだと割り切って、勉強をしてくれれば、それでいいんです。」

彼女の表情が変わった。にこやかな笑顔になった。そうしてくれれば、影浦も安心だ。

「そうか、そうすればいいのね。有難う先生。少し楽になりました。私、これから、食べ物のよさとか、服を作ることの大切さとか、そういうことを教えていく仕事に就きたいって思っています。それをするために、勉強が必要なのなら、それは今だけの事だと思って割り切ることにします。」

彼女がそういうことを言ってくれたので、影浦はよかったと思った。彼女は大丈夫だ。ちょっと悩んでいることが大きすぎて、ここへ相談に来たのだろう。ほんの少し悩んでいるだけだ。早めにここへ来てくれてよかったと、影浦はちょっと安心する。こういう風に、一寸した悩みでも、解決すべき人がいてくれれば、影浦の患者も大幅に減ると思う。

「わかりました、もう、そうやって決断ができているんですから、お薬は必要ないでしょう。診察代だけ払ってくれれば其れで大丈夫です。あとは、大人のいう事に振り回されず、あなたの個性を大事にして生きて行ってください。」

影浦はそういって、診察室のドアを開けた。ありがとうございます、と彼女は明るく言って、診察室を出て行った。


次の人が、診察室へ入ってきた。

「はいドウゾ、こんにちは。」

實を言うと、影浦はこの女性が苦手だった。彼女はずいぶん太った女性だったが、目は小さくて、なんだかおどおどした雰囲気で、いつも下を向いている、小さな子供のような雰囲気があった。

「どうですか、まだまだ外へ出られるようにはなりませんか?」

「はい。まだ家の中にずっといるままです。」

と、影浦が聞くと、彼女はそう答えた。

「あたしは、まだ先生以外の人が信じられなくて。外へ出たら、また、こいつはバカだといわれるような気がしてならないのです。」

「はあ、そうですか。ではなぜあなたは、バカだと思われなければならないのですか?その理由を話して下さい。」

影浦は彼女に聞いた。

「だってあたし、仕事もしてないし、出来る事と言ったら、家事しかないし、毎日毎日家族には働けはたらけと罵られて、働かない奴は出ていけとそう言われるんです。」

と、答える彼女。

「はい、そうですか。それは誰が言うんですか?お父様?お母様?それともほかの家族の方ですか?」

「ええ、祖父が言うんです。あと私の周りに住んでいるお年寄りが、みんなそういうんです。」

という彼女。実はこういうモノは、妄想とか、幻聴という名前が付くものであった。でも、影浦はそういうことは言わないようにしている。それを言うと患者さんのほうで、より困難なものになってしまうようなこともある。

「じゃあですね、そういう事を言った人の名前を、フルネームで言ってみてください。例えば、隣の家の佐藤信夫さんとか、そういう風に。」

と、影浦は彼女に言った。ここでのポイントは、具体的なフルネームを挙げさせること。それがしっかり言えれば事実として、こちらも理解できるが、そうでないときは、彼女が勝手にそう言うことを言っている可能性が高い。

「はい。私の祖父と、私の家の近所に住んでいるお年寄り全員がそういっています。」

と、彼女は答えた。

「質問を変えましょう。いつ言われたんですか?」

「ええ、こないだの、親戚のお葬式で言われました。払いの膳で集まった時に、みんなが大きな声で私の事を罵ったのです。それから毎日毎日、だめだめだと同じことをいわれるようになりました。」

という彼女に、これはおそらく彼女は妄想の症状があり、それに幻聴が伴っているということを確信した。そこでもう一度質問する。

「じゃあ、、その人物は、ちゃんと口を動かして、あなたの事をバカとおっしゃったのでしょうか?」

もし、これを私ははっきり見たという表現をすれば、完全に病名が付く。そうなると、社会的に扱われ方が変わってしまう。できれば影浦は、彼女をそういう風にさせてしまいたくなかった。

「いや、声は聞こえていますが、話している顔は見ていません。私は、隣の部屋でその人たちが話しているのを立ち聞きしていただけの事です。」

と、彼女は答えた。そうなると、彼女は前述したところまでは言っていないな、と影浦は思った。なのでそのような事実はなかったと確認することができれば、彼女はまだ何とかなる可能性があった。

よし、ちょっと切り出してみよう、と思いきってこういう。

「じゃあですね、次の診察までに、お母様か誰かにお願いをして、あなたの事を悪く言った人物の名前をすべてノートに書きだして、僕に見せてください。できれば、その人物の関係、例えばお父さんのお母さんという様に、そういう血縁関係も書きだしてきて下さい。」

「はい、わかりました。その通りにいたします。」

と、答える彼女。彼女はもともと素直なタイプのようだ。影浦の指示に何も反抗することなく従ったのだから。

「じゃあ、とりあえず、薬は出さないで置きますから、僕が言った宿題、必ずやってきてくださいませね。」

という、影浦に、彼女ははいと返答した。

できる限り、薬というものは使いたくなかった。例えば風邪薬と違って、精神の薬というものは、完璧によくしてくれるようなものはないし、余り良い結果をもたらしてくれるものでもない。確かに落ち着かせてはくれるが、今度は寝たまま動かなくなってしまったとか、そういう弊害はよく聞く。それに、容姿も劇的に変わってしまう。特に女性には、そういうことはなるべくさせたくない。だから、薬を使うような場合は、よほど症状が重篤な場合に限って与えるようにしている。


次の患者は、またわかい女性であった。一見すると、どこにでもいる若い女性のように見えるのだが、少しどこか違っていた。

「先生、あたし、人付き合いするのはやめようと思います。パソコンの中の人たちとだけ、付き合おうと思います。」

彼女は、確か、友人が一人もいないという理由で、ここにやって来たのだった。その時は、まだ正常と異常のほうを揺れ動いている印象の女性だったが、今日は異常のほうが強くなっているように見える。

「もう、人生も終わりだし、あたしは友達を持つ必要もありません。だからもう外へは出ないようにします。」

「何かあったんですか?」

と、影浦はまず、そう考えるようになったきっかけを聞いてみることにした。

「はい、親戚で葬儀があったんです。」

という彼女。そういう訳で冠婚葬祭は精神障碍者にとって、ダメージの大きな行事になるらしい。とりあえず、真偽を聞くのは後にして、まず、彼女の話を聞くことにした。

「本来、家の中にいるというと、親戚は、はたらいていない奴は、悪人だからすぐに殺すようにといいますから、私は、近くのホテルに泊まって、避難したいと言いました。でも、父は何かあるかも知れないからと反対しました。最近は事件が多くて、一人で泊まるのは危ないからというのが、その理由だそうです。私は、原稿を書く以外何もしないといいましたが、もしもの事があったら困るからという理由で、私の事を受け入れてはくれませんでした。私は、こういうことがあると、どうしても、働いていない人は悪いという話を、家族は親戚にしたがるから、その現場を見たくないので、それを伝えたかっただけなんですが、どうしてもわかってもらえないので、私は、怒って示すしかできませんでした。それを見て父と母は、私を押さえつけて止めようとするから、私は大声を立てて暴れるしか方法がないのです。」

と、長々と語る彼女に、影浦は、たぶん父か母のいずれかが、彼女の主張をわかったと一言言ってくれれば、また違うんだろうなと思った。

「では、どうしてあなたは、そんな大声を立てて暴れる必要があるのでしょうか。もし、お父様やお母様にお願いしたいことがあるのなら、口で言えば通じることだと思うんですがね。」

「いいえ!うちの人たちは!絶対に口で言ってもわかってくれません!其れは本当の事です!」

影浦が聞くと、彼女は即答した。

「じゃあ、そう暴れだして、お父様やお母様は、どう反応されていましたか?」

「ええ、バカヤローとか死んでしまえと私に怒鳴りました。」

と、答えるが、多分、実の親が子供に死んでしまえということばは、まず使わないだろう。

「そうですか。それをなぜ、あなたに言ったのだと思いますか?」

影浦がそう聞くと、

「はい、私の事が嫌いだからです。私が、思い通りの子供じゃなくて、いい子じゃないから、嫌いだからです。だから理解しようとしないで、頭ごなしにそういうことを言うんです。」

と、彼女は答えた。

「それを言うのは、やっぱり、私の事を嫌いだからです。あたしは、この二人に、愛されていないからです。あの二人は、あたしのことを、必要だと思っていないから。もうこんな病気になって、あたしのことを要らない人間だと思っているんです。」

と、いう事は、彼女は病識はあるという事だろうか。それを考えれば、まだ望みはあると影浦は思った。

「じゃあ、あなたはどうすれば、愛してもらえると思いますか?」

と、質問すると、彼女は、

「はい、具体的な成果を出すことです!」

と、彼女は答えた。

「其れは何ですか。」

と、影浦が聞くと、

「はい、試験でいい点を取ることです。よい大学へ行って、御金をたくさん稼いで、それをお礼として両親に返すのが一番正しい生き方です。それができるのは、医療と介護と福祉の仕事で、自分を犠牲にして、他人のために働くのだから、世間的にも素晴らしいという評価が得られて、お父さんもお母さんも鼻が高いし、苦労しないで幸せな人生が送れるんです。そのためには、国公立の大学に行くことが一番大切で、お父さんやお母さんにお金を使わせないことが、一番正しい生き方です。」

と、ロボットみたいな口調で彼女は言うのだった。

「ちょっと待って。それは誰が言った言葉なんですか?」

影浦が聞くと、

「はい、学校の先生がそういいました。自分を捨てて、家族のために働くのが一番偉くて、正しくて、自分のために、自分を向上させるために生きるのが、一番悪くて、最低な生き方だと、言っていました。」

と答える。

「其れは正しいと思いますか?」

「はい、思います。それが正しい生き方です。だって、大体の人はそうやって生きています。みんながみんな、そういう生き方をしているから、日本は戦争を起こさないで平和に生きていけるんです。」

そう言う彼女に、影浦は、

「その最後の文書を口にしたのは誰ですか?」

と聞いた。

「学校の先生です。進路指導の。」

と、即答する彼女に、影浦は、人生にはそういう人ばかりではないと、伝えようと思ったが、今の彼女には其れは無理だなあと思った。其れよりも、そういう人生ではない人に彼女をあわせることが、彼女の一番の治療なのではないかと思った。幸い、そのための武器も影浦は持っていた。直接、あなたは間違っていると言ったら、それはあまりにも可哀そうだ。

「じゃあ、正しい生き方をしている人たちに会ってみますか。このグループの中に、以前、医療関係の仕事についていた人もいますから。来週の火曜日に、この病院で、患者同士で話し合うグループがあるから、それに来てみてください。そうすれば、正しい生き方をしている人達の現状が、理解できると思います。」

「わかりました。」

彼女は素直に応じた。影浦は、彼女にも、薬は使わないことにした。其れよりも、そういう場を提供してやることが、一番だと思った。自分には、話を聞いてやるしかできないだろう。でも、患者さんたちはそういう事をしてくれる人などいない、という事が大前提である。だから、そうしてやらなければならない。でも、出来る事はそれしかない。そう思いながら、今日も影浦は、彼女たちの話を聞いている。

今日も、影浦医院の前に立っているカラタチの木が、往来する患者さんたちを見つめている。木は、彼女たちを応援してやるかのように、まるい実を付けた枝を鳴らした。

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カラタチの木 増田朋美 @masubuchi4996

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