株式会社サイバネティックスシステムズ

南国アイス

異世界に行けない男

 深夜三時、照明の消えたリビングルームに佇む巨大な液晶テレビが海外のスポーツ番組を生中継で映し出しているが、そこに視聴者はいなかった。沸きあがる大歓声と熱のこもった実況は広いリビングルームの静寂に虚しく響きわたる。


 さっきまで視聴者だった彼は今、テレビの前に陣取るふかふかソファに横になり、ヨダレを垂らしながらバーボンのロックグラス片手にむにゃむにゃと寝言をつぶやいている。


「女神さま〜……むにゃむにゃ…」


 テレビを付けっ放しのまま、ソファで独り睡眠を貪る男「まさる」は異世界に転生して勇者になるのを文字通り夢見る三十二歳妻子持ちの男である。


 自分の趣味に没頭するあまり、妻との関係は険悪になり、子供とのコミュニケーションも怠ってきたまさるの人生の楽しみは、ゲームするかテレビのスポーツ中継を見ながらあおるアルコールのみ。


 楽しみにしていたサッカーの生中継だが、睡魔に勝てなかったまさるは今、夢の中で夢にまで見た異世界転生ができるかどうかの瀬戸際であった。


「まさるさま、まさるさま、夢の中へ突然お邪魔してすみませんが、異世界へ転生し、勇者となって魔王を倒し、あちらの世界に平和をもたらしていただけませんか?」


「え! 僕が! 勇者に選ばれたんですか? ってかもしかしてもしかしてあなたは異世界転生への案内人、女神さまですか?」


「そのとおり、わたくし女神と申します」


「わっ! やった! ほんとにいたんだ! 異世界行きたいです! 女神さま、お願いです、僕を異世界へ連れて行ってください!」


「えぇ、まさるさん、もちろんそのつもりで来ましたが……その前に、わたくしが個人的に聞きたいことがあるのですが、ひとつお聞きしても?」


「はい! もちろんです! 適正検査とか、そんなのですか? なんでも聞いてください!」


「あなたは、異世界転生と共に奥様とお子様をこの現世界へ突然置き去りにするつもりなのですか?」


「え!」


「転生は他言無用の掟です。そして、向こうの異世界に転生してしまうと、この現世界へは二度と戻ることはできません」


「うっ……そ、その覚悟はできています!」


「そうですか……」


 女神は少し気落ちしたトーンで頷く。


「何としても異世界へ行って向こうの世界に平和をもたらしたいのです! いや、ぶっちゃけるとこの世界で感じられない、自分という個に存在意義があるということを身をもって感じたいのです!」


「なぜ、そこまで異世界にこだわるのですか?」


「え? ちょ……なんか、女神さま? 僕を異世界に連れて行くのを躊躇していません?」


「えぇ……これがわたくしの使命ですので、こうしてお誘いしているものの……」


「な、何か不都合でも?」


「いえ、ただ異世界というものが、ほんとうにまさるさまの望む世界である可能性は限りなく低いと思いまして……」


「えっと、つまり、女神さまは僕のことを気遣ってくれているのですか?」


「えぇ、まぁ、そういうことになりますね」


「大丈夫です、女神さま、僕はこの時のためにずっと前から覚悟を決めていました」


「なぜ、まさるさまはそれほどまでに異世界に行きたいのですか? たとえそれがまさるさまの想像しているような世界ではないかもしれないというのに」


「僕はね……ずっと前から妻とほとんど会話もしていないんだ。寝るのも別室だし、朝会社に出かける際に行ってきますなんて言ってみても、僕の言葉はだだっ広い家の中をあてもなく彷徨い、静寂というブラックホールに飲み込まれてしまうだけ。自分が悪いんだってのは、わかっているんだけど……」


「何だか、急に詩的な表現をはぶっこんできましたね」


「え、そういう女神さまも突然俗世間的な言葉を……」


「えぇまぁ、ちょっと天界の翻訳機能にまだ軽いエラーが……ともかく、続きを聞かせていただけますか?」


「あ、あぁ、で……その、だから……僕はこの家にいたってなんの意味もないんだよ、居場所もない……だから、昔憧れていた異世界というものにでも行ってしまいたい気分なんだ……」


「そうでしたか」


「でもね、妻と出会って最初の頃は良かった……本当に良かった、最初はね」


「どのように良かったのですか?」


「僕らはさ、ちょっと似たような趣味があってね、妻と出会ったのもその趣味のおかげだったんだ」


「そうだったのですか、差し支えなければ、その話をもっと詳しく聞かせていただけませんか?」


「えっ、いいけど、何だか女神さまってすごい聞き上手だね、ははは」


「いえいえ、異世界にお連れする方の事情はきちんと理解しておきたいのです、それが案内人としてのわたくしの義務だと思っております」


「そっか、じゃあ、転生前にちょっと思い出話でもさせてもらおうかな」


「えぇ、ぜひお聞かせください、現世界に悔いの残らないように」


 憧れの異世界転生を目の前にしたまさるはいつになく饒舌になっていた。


「僕が妻と出会ったのは約八年前、僕も社会人になったばかりで、あまり会社に馴染めていなかったんだ」


「あぁ、そうでしたね、こちらの世界では大人になると会社で働くという行為をしながら生活をするのでしたね?」


「え? あぁ、そうか女神さまはいろんな世界を知ってはいるけど、僕らの世界の常識ってものにはあまり馴染みがないんだね」


「えぇ、知識としてはあるのですが、何分体験をしていないものなので」


「まぁ、いいや、とにかく会社ってところで仕事をしながらお金を稼ぐ、そして、そのお金で食べるものや、住むところを手に入れる。そして妻と子供を育てていくんだ」


「なるほど、生きるために必要なことなのですね」


「そうだね、中には仕事なんかしなくても裕福な家庭に生まれたやつらは働かなくても行きていけるんだろううけど」


「奥様と出会ったのは?」


「あぁ、でねー、休みの日になると仕事のストレスを解消するために、僕は趣味に没頭していたんだ」


「心身を休ませることで翌日の活力にしていたのですね」


「そうそうそんな感じ! それでさ、僕が没頭していたのはゲームのプログラミングだったんだけど、ロールプレイングゲームを自分で作っていたんだよ」


「どのようなゲームだったのですか?」


「まぁ、ありきたりなんだけどさ、異世界へ転生した主人公が勇者となって世界の平和を取り戻すって内容なんだ」


「そのプログラミングを通して、今の奥様と知り合ったということですか?」


「そうそう! それがさ、自分で書いたプログラムの一部がうまく動作しなくてね、個人のゲーム開発者が世界中から集まるチャットルームっていうのがあって、そこに問題のプログラムを投稿して質問してみたんだ」


「チャットルーム?……いわゆる、相談所? みたいなものでしょうか?」


「さすが、女神さま! するどいね!」


「そこでまさるさまが困っていたプログラムを解決してくれたのがいまの奥様という訳ですか」


「あー、惜しい! でも女神さまいい読みしてるね。僕の困っていた問題は他の人が解決してくれたんだけど、いろいろと情報を漁っているいるうちに、僕が助言できそうな悩み事を投稿している人がいてね」


「なるほど、困っている奥様の質問にアドバイスしたまさるさんに」


「好意も持ってくれたってわけ」


「なるほど、まさるさまやりますねぇ」


「そう! 僕の助言で彼女が行き詰っていたプログラムがうまく動いたって」


「その後はどのように?」


「それから、そのチャットルームを通して、彼女といろいろ話をしたり、実際に会ったりなんかもするようになってね、彼女はいわゆる、AIというものを開発していたんだけど」


「AI?」


「人工知能と言ってね、人間が考えたり、感情を持つことができるように、コンピューターに学習をさせて人間と同じような知能を人工的に作り上げるプログラムのことなんだけど」


「あぁ、それなら分かります。私たちはそのような呼び方はしませんけど」


「へぇー、女神さまの世界にもそういう概念があるんだね」


「えぇ、まぁ概念ではなく、正確には……」


「まーいいや、でね……」


 饒舌になったまさるは、女神の言葉を遮り妻との思い出話を延々と喋り続けた。


「......それでさ、結婚してからも協力し合って完成させた妻のAIプログラムがめちゃめちゃ優秀でさ、サイバーなんとかシステムっていう会社がバカみたいな高値で買い取ってくれたおかげで、このでっかい家もローンなしで買えたんだよ」


「奥様は素晴らしい才能をお持ちなのですね」


「あぁ、ほんとすごかったよ。あのAIは人と会話してても全く違和感がなくてさ、時には人を説得したり、感動させたりもして、これぞ未来! って感じ、ビシビシ伝わってきたもんだよ!」


「まさるさまもさぞかし鼻が高かったのではないですか?」


「それはもう、最高の彼女だったよ、ほんと……最高の……彼女だった」


「で、まさるさまは、そのように愛しく想っていらっしゃった奥様と子供を置いて異世界へ行く覚悟があると言うのですか?」


「えっ……」


 妻との良き思い出を語り尽くし、思いがけず妻への愛おしさを強く感じていたまさるの感情を抉るような女神の言葉に返事を詰まらせるまさる。


「まさるさま、わたくしの願いは強制でも命令でもありません。あなたがこちらの世界に悔いを残し、苦しんでまで異世界に行く必要はないのです」


「で、でも、おれにはもうこの家に、この世界に居場所なんて……」


「ではこうしましょう、明日の夜三時にもう一度夢の中でお会いしましょう、その時まさるさまに異世界へ転生する覚悟があるか、もう一度聞かせてください」


「あ、ありがとう女神さま……」


「わたくしの方こそ、無理なお願いを申し上げてまさるさまを苦しめてしまい申し訳なく思っております。どうか慎重なご決断を」


「はい……」


 翌朝眼が覚めたまさるは、変な姿勢のままソファで寝てしまったせいか、首に痛みを感じながらゆっくりと起き上がる。


「おはよ!」


 いつになく上機嫌な妻が突然目の前に現れた。


「朝ごはんできてるわよ〜」


 妻の声を久しぶりに聞いたまさるはあまりにも突然の出来事にただ驚くことしかできなかったが、ついさっきまで夢の中の女神に語った妻との昔の思い出話がまさるの感情を揺さぶる。自然と涙腺が綻んでしまったまさるは首を押さえ、下を向いたまま「あぁ、おはよう」とぶっきらぼうな返事をした。


 それからも、まさるは毎日女神の夢を見た。彼女は夢の中に現れ、異世界へ行く覚悟を何度も何度も問われ続けた。しかし、結局まさるは覚悟を決めることはできなかった。その代わり、目覚める度に、まるで出会った頃のような妻への愛おしさが日増しに強くなっていくのを感じていた。


 初めて女神が夢の中に現れてから三ヶ月が過ぎた。


 まさるは今までの不仲が嘘のように感じるほど、妻と子供と仲睦まじい家庭を築き始めていると心から実感していた。


「こんな気分久しぶりだな」


 出会った頃のようにお互いを思いやり、楽しい家庭生活を過ごすまさると妻と子供の三人。


 ストレスのない生活を送り始めたまさるは家で晩酌することもなくなり、それと同時に女神はまさるの夢に現れなくなっていた。


 幸せな時間を過ごすうち、まさるも女神のことなどすっかり忘れていた。妻と子供との有意義な時間を大切にするようになり、妻との間にあったわだかまりは完全に消失し、絵に描いたような幸せな家庭生活を取り戻していた。


 女神が夢の中に現れなくなって数週間後。それは雲ひとつない青空が広がる気持ちの良い朝だった。


 ふと覗いた玄関ポストの中に「請求書在中」とだけ書かれた妻宛の封筒が一通差し込まれていたが、毎日が上機嫌なまさるはそんなこと気にもかけず、今日も意気揚々と会社へ出勤する。


 ゼロがずらりと並ぶ請求書が入ったその封筒裏には差出人の名前がひっそりと印刷されていた。


『株式会社サイバネティックスシステムズ

 ドリームカウンセラー事業部』


 妻の開発したプログラムによってまさるの家庭崩壊は免れた。昔、妻が手にした契約金と同じ額面の請求書と引き換えに。



 完

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