lost world,last word

Chiroru.

第1話

 薄く瞼を開く。何もない、無機質なだけのはずの光に包まれている。ここは――。誰に問うでもなく零れ落ちた言葉は、くもぐった声に掬い取られた。


「オコタエシカネマス。ドコでもある。故に。何処でもナイ」

 声は次第に明瞭さを増し、耳元で囁いた。

「此処はどこで、どこへ行きたいですか」

…―そうだな。「海…」海がいい。




 頬を風が撫でた。





「では、あなたがいるのは『海』、です」


 潮の匂いが鼻先を掠める。目を開くと、浅瀬だった。柔らかく波が打ち寄せる。足の先に力を込めると、指の股に砂が潜った。

「ここは言の葉の世界…コトバに強く縛られている、とでも言いましょうか」

 背後の声に振り返る。人物は空と海の挟間、夕日が溶け込む水平線を眺めていた。


「君は何者なんだ」「ナニモノ、とは」

「君の存在だよ」

 自分とは異なる性質の者だと、直感が叫んでいた。「ワタシは―何者でもありません」けれどどこか、自分に近しい存在だとも感じていた。


「案内役として作り上げられた人格、この世界にのみ出現できる媒体、こちらとあちらの繋ぎ目。どれでもある。故に、境界線上の存在―…全てに属し、何者にもなりきる事の出来ない」皮肉気味に淡々と微笑む。


「それがワタシです」

 少女は向こうに霞む森を指差した。「狩りに行きましょう。お腹が空いたでしょう?」

 そう言われてみれば、少しばかり空腹を感じないでもない。「狩り…魚は」

「その『海』に生体反応は確認できません」

 



「こんな剣で狩れるのか」腰に頼りなくぶら下がった代物を鞘から抜き、木々を縫う背中に問う。

「あなた次第で」先ほどの言葉が重なる。ここは言の葉の世界―…。少し開けた所に出た。木漏れ日が差し込んでいる。少女は声を潜めた。「さあ。どうぞ」


 日溜りに獣が姿を現した。

 


 血に草木が染まる。荒々しく肩で息をつき、獣は操られる様に突進を繰り返す。



「言葉足らずです。あなたは」


 視界の端で、少女が木陰に滲んだ。

 柄まで深々と突き立てる。生命の匂いに噎せ返る。歯茎の間から贖罪は地に堕ちた。






「……食べられるんだろうな」

 血を抜き、適当に切り分け、串焼きの要領で火にかざしていく。少女はわざとらしく首を傾げた。

「…―、これはいい肉だ」大丈夫、と唱え、十分火が通っただろう一本を手に取る。――おいしい。少女にも促したが受け取らなかった。

「しかし便利なもんだな」「否。不便です」「…今のは変な魂胆があって言ったんじゃ」

 少女は言葉を言葉で遮った。

「何故。あなたとワタシがここに居るのか」

 じっと陽炎を見つめる。「御伽噺ですが、」

 

 月が傾く。風が凪いだ。


「神はその昔、創造の神を創った。同時に破壊の神が生まれた。二神は常に表裏一体、諸刃の刃は万物の源。しかし決して、一つには交ざれない。どちらでもある。と同時に、どちらにもは成れないのです」

 

 辺りを闇が覆った。瞳の奥の炎が妖しく揺れる。少女は上弦の曜を見上げた。

「閉じ込められたのです。あなたはここから出たくないと願ったから。入口は閉ざされ帰る手立てを見失いました……ここは以前、架空世界でした。今やその名を思い出せる者はいませんが。摂理を失い、秩序の暴走したここでは、言葉しか頼る術は在りません。次第に、その力の及ぶ所はより強固に。


…―嗚呼、天が割れ始めている」

 


 暗闇を裂き、光が零れ始めた。

「どうして」聞かなくても分かっていた。

「風穴が開いたのです。交わる筈のないワタシ達が、今、こうして…言葉以上のもので繋がろうとしている。この世界の理に反しようとしている」少女は己自身だと。

「これで、やっと戻れますね」「君は…?」

「―そもそもの役目は、旅人を迎え入れ、無事帰すこと。他の方は既に帰還されました。これで最期の仕事です。晴れてワタシは自由の身となる、ここから解き放たれる」



 少女はうっとりと目を細めた。




「夜が逝く。朝日の産声が聞こえますね。幕開けと終焉の境にいま、立っている」


 宙の欠片が乱反射して降り注ぐ。


「この世界は消える。この世界―ワタシを認める唯一の存在となったあなたが、世界を描く詞(ことば)が去る。破壊と創造の均衡が崩れる」

 




 少女は煌めきの向こうで微笑した。


「しかし、破滅ではありません。」



 煌めきのこちら側で、言葉は光に溶けた。




「       」

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