伝記 伊藤博文

火田案山子

幕末篇

時は天保12年9月2日。

西暦で言うと1841年10月16日。

周防国すおうのくに 熊毛郡 束荷村つかりそん字野尻。

今で言う所の山口県 光市ひかりし 束荷字野尻の貧しい農家の林十蔵と妻・琴子の間に長男・利助りすけが産まれた。

やがてこの赤子が、日本の初代内閣総理大臣になるとは、まだ誰も予想していなかった。


この頃、海外ではアヘン戦争が勃発し、しん(中国)がイギリスに負けた事が日本にも知れ渡り、幕府はいずれ諸外国が日本に攻めて来るのではと考え、1842年に、1825年から定めていた異国船打払令を廃止した。鎖国は続けるが、日本に近づく異国船には、なるべく穏便に退去して貰う事にして、遭難した船に限り、飲料水や燃料の補給をするという薪水給与令しんすいきゅうよれいを出していた。


1846年。利助が5歳の頃、父が破産し、萩へと単身赴任した為、利助は母と共に母の実家へと移り住んだが、その3年後、父に呼び出され、萩に移住した。

8歳の利助は萩で久保五郎左衛門という男の塾・松下村塾に通った。

松下村塾は、1835年に長州藩士の玉木文之進たまきぶんのしんが開いた私塾であり、開校当時5歳だった彼の甥・大次郎も入塾していた。

その大次郎こそが、後に利助を始め、後世の日本に大きな影響を与える多くの人物に教えを授ける事になる吉田松陰、その人である。


松下村塾は玉木文之進から親戚の久保五郎左衛門へと継承された。

そこで利助が出会った同い年の少年が、栄太郎。後に吉田稔麿よしだとしまろと名を改め、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と共に吉田松陰門下の中でも特に優秀な松門四天王の1人と呼ばれる男である。

栄太郎はその頃から、目つきが鋭く、真面目で無駄口を叩かない少年だった。

利助は後に彼の事を「全く天下の奇才であった」と述べている。


家が貧しかった為、利助が12歳の頃に父・十蔵が長州藩蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が1854年に足軽の養子となった為に十蔵と利助父子も足軽となった。

14歳の頃、利助は伊藤家へと養子に入った。

そして1857年、16歳の時、利助は足軽として江戸湾警備の為相模へと派遣された。

そこに上司として赴任してきた長州藩士・来原良蔵くるはらりょうぞうの紹介で、当時27歳の吉田松陰が受け継いだ松下村塾に再入門した。


来原はかつて1851年、江戸に上って朱子学者・安積艮斎あさかごんさいに師事し、後に吉田松陰や桂小五郎(後の木戸孝允)らと交流し松陰の脱藩(真実は兵学を研究する為に江戸に留学したのだが)を支援した為に罰を受けた事のある男だった。

来原は1853年に萩へと戻ったが、その年に浦賀にマシュー・カルブレイス・ペリー提督率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を求めて来た。

来原は再び江戸へ戻り、その様子を視察。時が来る事に備えて砲術を学んだ。

利助は吉田松陰以上にこの来原良蔵を生涯師匠と仰いだという。


同じく黒船を見に来た吉田松陰は、それに衝撃を受け、師匠である思想家の佐久間象山の薦めもあって外国へ行き海外事情を知ろうと決心し、長崎に停泊中のロシア船に密航を企てるが同時期にヨーロッパで勃発したクリミア戦争の為にその船が予定より早く出航してしまった為に失敗。翌1854年に再びペリーが日米和親条約の締結の為に来航した際にも密航を試みたが、アメリカ兵に見つかり、密航を許可すれば幕府との交渉が失敗すると判断したアメリカによって船を追い出されてしまい仕方なく自首し幕府に捕まり、萩の野山獄に繋がれる事となった。そして1855年、出獄を許されたが、杉家への幽閉処分となって、その後1857年に杉家の敷地に叔父から受け継いだ松下村塾を開塾して、生徒を募ったのだった。


 松下村塾では、ただ学問を教えるだけで無く、松陰が弟子と意見を交わしたり、登山や水泳等も行う「生きた学問」だったと伝えられている。


さて、16歳で松陰の松下村塾に入門した利助だったが、身分が低い貧しい家の出だった為、他の生徒と共に塾の中で座って授業を受ける事は出来なかった。

久保五郎左衛門の松下村塾からの学友・吉田稔麿の世話になりながら、外で立ったまま授業を聴き学ぶ毎日だった。

それでも利助は松陰の思想に感動し、やがて彼同様、尊王攘夷の思想に目覚める様になった。

塾で知り合った高杉晋作からは大層可愛がられていたという。

後に松陰の提案で名を『春輔しゅんすけ』と改めた。


翌1858年。幕府はアメリカと日米修好通商条約を結んだ。実際は反対意見が強かった上に、大の異人嫌いの孝明天皇もこれに反対したが、大老・井伊直弼が独断で条約を結んでしまったのだった。

松陰はこれを知ると大激怒。

他にも前水戸藩主・徳川斉昭や尾張藩主・徳川慶勝、後に15代将軍になる一橋慶喜等も大反発。


その頃春輔は、松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行。帰ってからは来原良蔵に従い長崎で勉学に励み1859年には来原の義兄である桂小五郎の従者となり、江戸屋敷に移り住み、そこで志道聞多しどうぶんた(後の井上馨いのうえかおる)と出会い意気投合した。


しかし、悲劇は起きた。

幕府の日米修好通商条約の強引な締結と、その後反対勢力を悉く処罰していった安政の大獄に激怒した吉田松陰は、老中・間部詮勝まなべあきかつの暗殺を企てたが、藩や友人、そして高杉晋作や久坂玄瑞、桂小五郎等の弟子たちにまで反対され、失望し、どんどん政府に不信を持っていき、ついには倒幕すら決意した為、危険人物として長州藩によって投獄されてしまい、そしてとうとう、安政の大獄により29歳の若さで斬首されてしまった。


松陰の死に春輔たち門下生は心から嘆いた。

しかし師の教えは永遠に彼らの胸に残った。

松陰は弟子たちにこんな言葉を残している。


草芥崛起そうもうくっき


「身分にとらわれる事無く、志がある物は立ち上がれ」という意味である。


松陰の遺骸は春輔が引き取った。

そして彼は、師の遺志を継ぐ為に桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨らと共に尊王攘夷運動を開始した。


まずは1862年。公武合体を主張する長州藩士・長井雅楽ながいうたの暗殺を計画(未遂に終わったが)。この後で恩師・来原良蔵が自害した。

同年、高杉晋作らと共に江戸品川のイギリス公使館を焼き討ちにした。


翌1863年、井上馨の誘いでイギリスに留学する事にした。この時一緒に留学した春輔と井上、山尾庸三、遠藤謹助、そして後に「日本鉄道の父」と呼ばれる井上勝の5人は「長州五傑(長州ファイブ)」と呼ばれた。

日本からイギリスまでの船旅は実に4ヶ月以上もかかり、春輔の荷物は間違いだらけの英語の辞書と寝間着だけだったという。

しかも途中で寄港した清の港で別船に乗り換えられた上に水兵同然の粗末な生活を強いられながら過ごした。

やっとの事でロンドンに到着した後、春輔たちは化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの家に住まわせて貰い、大学の法文学部へ入学。英語や礼儀作法の指導も受け、博物館、美術館、海軍施設、工場等を見学して見聞を広め、春輔は日本とイギリスとのあまりにも大きな国力の差を思い知り、やがて今まで考えていた尊王攘夷より、開国こそが日本の進むべき道なのだという考えに至った。


その頃日本では、久坂玄瑞が指揮する長州藩が下関を通過しようとした外国船に砲撃するという事件が起きた。

これに対し怒ったアメリカ、フランス、オランダは軍艦を下関に差し向け報復攻撃を行った。秀吉の朝鮮出兵以来の外国との戦争・下関戦争である。長州藩は砲台を壊され逃げ惑うばかりでとても戦いにはならなかった。


 この事件をきっかけに高杉晋作は身分を問わず国を守る志のある者を集めて「奇兵隊」を結成した。その中には後に3代目内閣総理大臣になる山県有朋もいた。

 その直後、薩摩藩主・島津久光と会津藩主・松平容保まつだいらかたもりが手を組んで、尊王攘夷派の公卿・三条実美さんじょうさねとみと長州藩を孝明天皇の許可の元、京都から追放した「八月十八日の政変」が起き、これに対し長州藩は久坂玄瑞や22歳の若き家老・国司信濃くにししなのらを筆頭に京都に攻め込もうとした。高杉晋作はこれを止めようとしたが失敗してしまう。なお、この年に当時の14代将軍・徳川家茂とくがわいえもちの行列に向かって高杉が「いよっ!征夷大将軍!」と叫んだと言われている。


翌1864年。下関戦争の勃発が近い事を知った春輔と井上は2人だけで急ぎ日本へと戻った。しかし2人の奔走も空しく、戦争は止められなかった。

同年、京都に火を放ち、松平容保を暗殺し、三条実美を京都に呼び戻し、攘夷派の勢力を回復する事を目論んだ吉田稔麿たち尊王攘夷派の志士たちが新選組に襲撃され討ち死にした池田屋事件が起きた事を機についに国司信濃や久坂玄瑞たち長州藩は、武力によって自分たちの無罪を訴えようと御所に押し寄せたが、西郷隆盛率いる薩摩藩と松平容保率いる会津藩に向かい撃たれ敗退。久坂玄瑞は25歳で自害した。これが「禁門の変」である。

高杉はこの責任を取って脱藩したものの、結局は藩に捕らわれて投獄されてしまった。


春輔と井上は下関戦争の和平交渉の通訳係を任されるが、各国は幕府に賠償金を請求してきた。しかし春輔の必死の交渉で、何とか長州藩は賠償金の支払いを免れた。

更に長州藩は下関戦争と禁門の変で大きな痛手を負った為、幕府への恭順を掲げる俗論派と攘夷を掲げる正義派に分かれ対立してしまった。

もはや春輔は幕府の味方でも攘夷の味方でも無かったが、井上がある日俗論派の襲撃で重症を負ってからしばらく行方をくらませた。井上は瀕死の重傷を負ったが、芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐に入れていた為に命拾いした。中西君尾は、祇園一の美貌だったと伝えられている。


同年、幕府は禁門の変で長州藩を退けたのを機に、このまま一気に長州を討たんと大軍を差し向けた。これに対し長州は既に禁門の変で久坂玄瑞等の優秀な人材を多く失っていた為一戦も交える事無く降伏。国司信濃は23歳の若さで切腹させられた。これが第一次長州戦争である。


これに対し春輔はクーデターを計画していた高杉の元へと誰よりも早く馳せ参じ、奇兵隊の一支隊である「力士隊」を率いて挙兵した。

後に春輔は「私の人生において、唯一誇れる事があるとすれば、あの時高杉さんの元に一番に駆け付けた事だろう」と述べている。

その後、奇兵隊はどんどん勢力を増していき、ついには俗論派を倒し正義派が藩政を握った。

その後、春輔は長崎に渡って武器の買い付けを担当した。


それから先は特に目立った活躍はせず、高杉たち長州藩が幕府軍を打ち負かした第二次長州戦争にも、大政奉還後、王政復古の大号令を受けて明治政府を樹立した薩摩、長州、土佐等の新政府軍と旧幕府軍が戦った一連の内戦、所謂「戊辰戦争」にも春輔は参加せずに暇を持て余していたという。

なお、高杉晋作は1867年、結核を患い吉田松陰と同じ29歳の若さでこの世を去った。高杉はこんな辞世の句を残している。


おもしろき こともなき世を おもしろく


新時代の為に戦った高杉晋作だったが、彼が新しい日本の姿を見る事は終ぞ無かった。


「春輔……日本を…頼んだぜ……」

「…………はいっ‼」

 



そうして1868年、日本は新たな時代「明治」を迎えた。

春輔27歳の事であった。









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