博文篇

日清戦争後、博文は陸奥宗光や井上馨らと共に日露協商論や満韓交換論を唱えて、ロシアとの不戦を主張したが、反対派からは「恐露病」と罵倒され、さらに自ら単身ロシアへ行き、満韓交換論を持ちかけるが、拒否されてしまい、逆に山県有朋たちが提案していて、博文たちが反対していた日英同盟の方が締結されてしまった。(ロシアとイギリスは敵対していた)


1900年の義和団事変を機にロシアは大軍を派遣し満州を占領して、そのまま朝鮮にも影響を強めていた。

ロシアが満州から撤兵しない為、日本政府はついに1904年、日露戦争を仕掛けた。


日本は日英同盟を後ろ盾にイギリスやアメリカ等から巨額の戦費を募った。

日露戦争の経費は実に約17億円にも上り、当時の数年分の国家予算に等しかった。

その内8億円近くを外債に頼んで、他は国内で募集した国債や増税によって賄われた。

一方でロシアは、当時国内で専制政治に対する反対運動が高まっており、十分な戦力を発揮できなかった。

日本陸軍は1905年、激戦で多大な損害を出しながらも、ロシアの海軍基地を占領し、海戦でもロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が日本海で撃ち破り、戦局は日本の優勢だった。

しかし、経済的にも軍事的にも戦争継続が困難と感じた日本政府の要請を受けた博文はその後すぐにアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に和平の仲介を頼んだ。

そしてアメリカのポーツマスで、小村寿太郎外相とロシアのヴィッテ氏によってポーツマス条約が結ばれ、日露戦争は終結し、ロシアは日本に韓国における日本の支配権の全面的承認、南樺太の割譲、沿海州の漁業権等を約束した。

なお、この時博文は小村寿太郎に「君が無事帰国したら、私が必ず出迎えに行く」と励ましたそうだ。

博文は戦後の後処理に奔走した。


明治38年、日本と韓国が結んだ第二次日韓協約により韓国統監府が設立され、博文は初代統監に就任した。この時博文65歳。これで日本は実質的に朝鮮の統治権を掌握したのだった。

韓国ではこれに反対して激しく日本に抵抗したが、日本は軍隊を送ってこれを鎮圧。

博文は国際協調を重視し、大陸への進行を急ぐ山県有朋たち陸軍軍閥としばしば対立した。

博文は韓国民の素養を認め、韓国の国力・自治力が高まる事を期待して韓国での教育にも力を注いだ。

当初は韓国併合に反対していた博文ではあったが、やがて朝鮮内で独立運動が盛んになると考えを変えて、韓国併合へと手の平を返して、韓国政府に軍部の廃止を促した。

そうした事が原因で博文は次第に韓国人に恨まれる様になっていき、韓国で石を投げられて負傷した事もあった。


明治42年(1909年)10月26日。ロシアの蔵相ココツェフ伯爵と満州・朝鮮問題について話し合う為中国ハルビン市に訪れた博文。

歓迎会でのスピーチで博文は「戦争が国家の利益になる事は無い」と語った。

そして、ハルビン駅に行った直後だった。


6発の銃声が鳴り響いた。


博文は、拳銃で撃たれた。


「3発当たった! 相手は誰だ!」


その時博文はそう叫んだという。

下手人は朝鮮の独立運動家・安重根という男だった。

安はただちにロシア官憲に逮捕された。

彼はその時ロシア語で「コレヤ!ウラー! コレヤ!ウラー! コレヤ!ウラー!(韓国万歳)」と大声で叫びながら連行された。

博文は、すぐに列車内に運び込まれ、同行の主治医に止血を試みられた。

博文は少しブランデーを口にして、満身創痍の状態で、犯人は誰だ?と聞いた。

それが朝鮮人だと知ると彼は「そうか……馬鹿な奴だ……」とだけ言った。

そして、「俺は……もう…駄目だ……他に…撃たれた奴は…いるか?」と聞き、同行していた官僚の森槐南もりかいなんも撃たれた(軽傷で済んだが)事を聞くと言った。


「森も……やられたか……」


それが、伊藤博文の最後の言葉だった。

医師の尽力も空しく、約30分後。


伊藤博文は、68年の人生に、幕を下ろしました。




                 完




「我々に歴史は無い。我々の歴史は、今ここから始まるのだ(伊藤博文が残した言葉の1つ)」


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伝記 伊藤博文 火田案山子 @CUDAKI

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