明治篇
1869年。明治2年。
江戸は東京と改められ、そこが日本の首都となった。
戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争も終わり、版籍奉還が行われ、蝦夷地は北海道と改められた。
日本はどんどん新しく変わって行った。
この頃春輔は、名を「伊藤博文」と改めた。
英語に堪能な事を買われて、外国事務局判事や大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿等、明治政府の様々な要職を歴任した。
博文は、兵庫県知事時代に
・君主政体
・兵馬の大権を朝廷に返上
・世界万国との通交
・国民に上下の別を無くし、「自在自由の権」を付与
・「世界万国の学術」の普及
・国際協調・攘夷の戒め
を主張した。
翌明治3年、博文は工部卿として、西洋諸国に対抗した機械化工業や鉄道整備、資本主義による国家の近代化政策、
欧米からお雇い外国人として、「少年よ、大志を抱け」の言葉で知られるウィリアム・クラーク博士等を招き、外国の知識を広く日本人に広める様にしたりした。
また、同じ大蔵省の福地源一郎や芳川顕正と共にアメリカへと渡り、そこで中央銀行について学び、帰国後には日本初の貨幣法である新貨条例も制定した。
明治4年になると、文明開化が進み、散髪脱刀令が発令され、男たちは髷を切り、ザンギリ頭となったが、別にこれは皆が髷を切らなければならないという訳では無く、あくまでも髪形は自由にして良いという布告であったし、脱刀令も別に刀は全て没収という事では無く、明治になってから新たに作られた身分、華族・士族が刀を差していなくても構わないという物であった。
文明開化では他にも、人々が洋服を着始めたり、新聞の出版が始まったり、牛鍋等の肉食文化や、牛乳の飲用、あんパン、洋風建築、ガス灯、人力車、電信、郵便制度等々次々と海外の文化を積極的に取り入れて行き、明治5年には鉄道が日本全国に開通し、富岡製糸場が開業し、福沢諭吉の「学問のすすめ」が大ベストセラーとなった。
また、明治6年1月1日からは暦をそれまでの太陰太陽暦から太陽暦へと改めた。
1871年(明治4年)には廃藩置県も定められた。
明治になってわずか5年程で日本はここまで大きく変わった。
明治4年、博文は木戸孝允、大久保利通らと共に、公家出身の外務卿・岩倉具視率いる「岩倉使節団」の一員として、アメリカやヨーロッパ諸国へと派遣された。
ドイツではかの鉄血宰相・ビスマルクとも会見しており、博文は彼から強い影響を受けたと言われている。
しかし、博文が提出した国是綱目は、当時政府の極秘裏の方針だった版籍奉還に触れていた為、大久保や岩倉の不興を買い、大久保とは大蔵省の権限を巡って対立していた。また、使節団がアメリカで不平等条約の改正交渉を始めた際、全権委任状を取る為に大久保と一時帰国したが、取得に5ヶ月もかかった上、交渉も中止された為、木戸孝允との関係まで悪化してしまった。
しかし、旅の中で次第に大久保や岩倉との仲は回復して行き、木戸とも後に和解し、明治6年に帰国してから、彼らの留守中に政治を行っていた西郷隆盛や板垣退助等が唱えた朝鮮に出兵し武力で開国させるという征韓論に共に強く反対し、結果的には西郷たち征韓派を政府から追放してしまった。これが「明治六年の政変」である。
その後博文は木戸とは疎遠になる代わりに政権の重鎮となった大久保や岩倉と連携し、更に親友の井上馨とも協力した。
ところが、1877年、木戸孝允が45歳で病死。
更に政府を去りながらも鹿児島で私学校という名目の巨大な反政府勢力を作った西郷隆盛が西南戦争を引き起こした。激しい戦いの末、大久保利通率いる政府軍に敗れ、西郷は自害した。
幼馴染みの親友だった西郷隆盛と大久保利通だったが、最後は敵対したまま、西郷が死に、そして翌年、大久保利通も暗殺されてしまった。
大久保亡き後、博文は内務卿を継承し、明治政府の中でも大きな指導者の1人になった。
明治14年、立憲体制を巡り、井上馨や、後に8代目内閣総理大臣となる大隈重信と会談するが、大隈とは意見が合わず対立した。博文は明治23年には国会を開くと約束したが、やがて大隈は政府を去った。明治十四年の政変である。
翌年、博文は、明治天皇より憲法調査の為にヨーロッパへ渡る事を命じられ、大勢の政治家を伴って渡航し、ベルリンやウィーンで各国の憲法を研究し、後の大日本帝国憲法の礎を築いて行った。
そして明治18年(1885年)、政府では内閣制度への移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが議論された。
候補として挙がったのは、太政大臣・三条実美と、大久保の死後、宰相として内閣制度を作った伊藤博文であった。
しかし、かたや三条実美は生粋の貴族の最高位、公爵。
かたや伊藤博文は元々貧しい農民の出で武士になったのは維新の直前で申し訳程度に伯爵の位が付いただけの男。その差は歴然だった。
誰もが三条が総理になると確信していた。
博文が諦めかけたその時だった。
盟友、井上馨がこう言った。
「これからの総理は外国電報が読めなければ駄目だ」
すると山県有朋がそれに続けた。
「それなら伊藤君より他にいないではないか」
流石の三条派も、これには反論出来なかった。
こうして、貧しい農家の少年だった利助は、44歳の時、日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文となったのであった。
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