彼女は、Hound :3-< ~後編~

「……なるほど。わかりました。」

 通信を切った男はふっと一息つく。

 相手は自分のパートナー。任務上はコード9と呼ばれており、男もそう呼んでいる。

 彼女に本当の名は無い。そんなものはとうに剥奪され、今の彼女が作られている。

 一応表で生きるための便宜上の名前はあるが、それも記号としてしか機能していない。

 それともう一つ、彼女には名前がある。

 “烏”――――彼女はごく少数の一部の上層部からそう評されていた。

 だが、その正体も、今椅子に深く腰掛けた男自身も、上層部は疎か組織でさえも、結局は亡霊に過ぎない。

 彼等は、ghost。その存在は、無い。

 組織名も、構成員も、存在しない。故に政府も認知しない。

 彼等の通る道には、工程も事実もその結果すらも残らない。だから何も起きてはいないのだ。

 仮に残る足跡が存在するのなら、それが真実となり彼等とは一切関係のない、“日本に起きた何かしらの記録”になるだけだ。

 実在した団体は、“実在していない”団体になるだけ。実在した人物は、“最初からいなかった”。実在した名称は、“架空”になるだけ。

 だから彼らが活動したという記録も存在しない。

 それを知っているのはごく数人だけになる。それもいつか柩へと消える。

「どうですか、首尾は」

 そう後ろから声をかけたのは、名前も知らない別の班の人間。と言ってもポジションは男と同じサポーターとバックアップのようだが。

「まだ何とも言えませんね。でも…………」

「でも?」

「彼女らしい、ユニークな判断です。」

「なるほど――となると、問題はその判断が凶と出るか吉と出るかといった感じでしょうか」

 その返答に、男は平然と答えた。

「いえ。凶はでませんよ。」

 すると、今度は後ろの男が苦笑した。

「そうですね。そんな事実は起こらない。」


 仮拠点に戻った彼女は玄関で立ち止まると大きく息を吸う。

 音が鳴らないようにゆっくりと肺を上下させると、靴を履いたまままっすぐ歩き小さな一部屋にある、ベランダに通ずる窓に近寄る。

 明かりも着けず、光源は窓からさす三日月のわずかな光。それでも彼女はゆっくりと窓に触れ、サッシを検める。

 それが済むとカーテンを閉め、光源を完全に断つ。そしてゆっくりと部屋の気配を探り床に手をつく。

(――――生き物の気配は無い。床にわずかに埃が積もっている――――)

 そこまで確認するとやっと彼女は電気をつけた。

 しかし、そこでコートを脱ぐわけでもなくベランダに向かう。

 ベランダに設置された洗濯機。彼女はそこに半身を突っ込むと未使用の洗濯槽に手を突っ込み黒い物体を手に取る。

 洗濯槽内部に設置された埃取りの黒いネットを取り外すと、黒い物体と共にコートのポケットに突っ込み、今度はその場でしゃがみこんだ。

 地面からわずかに浮いた洗濯機のそこに手を突っ込むと、また二つ、黒光りする延べ棒のような物体を取り出し、それを持つとそそくさと部屋に戻り窓を閉めた。

 そして部屋に戻った彼女はその足で玄関横のきれいなままのキッチンに向かうと、排水溝に手を突っ込み密閉容器を引き抜く。

 また部屋に戻った彼女は、忙しく床に新聞紙を広げると先ほどから取り出した品々をそこに並べ始めた。

 洗濯槽から取り出したのはグロック26という拳銃。ネットに入っていたのはその銃に使用する9ミリの弾丸。

 洗濯機の底から取り出した二つの延べ棒は弾倉と呼び弾倉にあたり、キッチンで取り出したのはそれらを整備するための点検セット。

 彼女は拳銃を手早く分解し点検、清掃すると逆の手順で素早く元に戻す。

 ネットから取り出した弾丸を二つのマガジンに込めると、片方を拳銃に差し込み一発目を装填し、安全装置をかけると願掛けのようにそれを眺める。

 それは女性の手のひらでも握りやすい、否、彼女には少し小さい玩具のような拳銃。装弾数は少ない上、あくまで護身用。メインウェポンのバックアップ程度の代物。

 しかし、それは拳銃である。

 それが、人を殺すために作られ時代を経て発展した姿であることに変わりはない。

 どうか今回も、これを使うことがないように――――――そう祈ると彼女はコートの下の、ジーンズと肌着の間にそれをねじ込んだ。

 床に残った点検セットを元の様に直すと、洗濯槽ネットの中に残った弾丸の数を数える。その後も全てが元あった通りになるまでテキパキと部屋を動き回ると、彼女は仮拠点を後にした。

 人通りの少ない住宅街から大通りへ。駅へ近づけば近づくほど人は増え街もにぎやかになり始める。

 家路を急ぐ会社員。携帯から目を離せない学生。井戸端会議に毒を潜めあう主婦たち。平日日の入り一時間後の駅前はいつも通りの喧騒で包まれていた。

 その合間を縫う彼女の目的は、そんなごく普通の日常生活ではない。

 任務は既に下された。あとは綿密に組まれたスケジュールに従って動くだけ。

 対象のルートはすでに掴んでいた。

 腕時計が示す時間に誤差は無く、このタイミングで駅前のバス停歩道を通らなければ、次の三十分以内に駅の反対口に直結しているマーケットで買い物を済ませて200メートル先の出口から出てくる。

(――――来たっ)

 今回は運がこちらに味方したようだ。駅から小柄なシルエットの人間が出てきて歩道を歩く姿を彼女は認めた。

 外見はいたって中肉中背。

 年の割に、と言うより実年齢よりはるかに若く見える振る舞いは、振る舞いだけでなく、しっかりとした足取りや姿勢、踏み出した足にかかる荷重の分け方まで“普通の老人”ではなかった。

 そんなただならぬ人間のはずなのに、漂わせる雰囲気は昼夜変わらず温和で人の好さそうな老婆なのだから油断ができない。彼女は革の手袋をした手のひらをきつく結ぶと、駅から帰路に向かう多くの人並みを隔てて、その老婆の尾行を開始した。

 それから数分の間、老婆は気づく気配を見せず、順調に尾行は進行している。

 彼女は何度もルートを変え、必ず老婆との間に複数人挟み、常に50メートル前後を意識して歩く。

 その間にも自分が尾行されていないかを常に警戒し、気配を探り続ける。

 油断はしていないが、やはり拳銃を持ってくる必要はなかったかもしれない――ふと、そういう考えが頭をよぎる。

 海外ならともかく、ここは日本だ。

 もちろん治安の悪い場所はある。だが、現在尾行をしている場所は比較的安全と示されている。

 規約とはいえ、過剰に警戒心を煽り立てるのも自然体を是とする尾行に向かないのではないかと、彼女は考えた。

 それは、今回の“老婆の正確な所在を確認する”という目的とかみ合わせてもだ。

 考え事をしていた彼女は駅から大きく離れ、街灯がなくなり人もぐっと少なくなったことに気が付いた。

 老婆との間にいた人だかりが消え、その距離は明確に遠く感じる。

 闇の中でもはっきりとその姿がとらえられるのは、鍛えられた夜目のおかげか、それとも単純に月明かりがよく通るからか。

 しかし、その時、闇から伸びた手に彼女の意識は奪われ、老婆を見失うことになる。

 目を凝らさなければわからないような細い路地に、抵抗するすべもなく、まるで体がそう望むかのように吸い込まれそのまま壁に見えない手によって押さえつけられる。

 辛うじて確認できるのは小さくは無いが、女性的な肉感のある白い手。

「尾行の警戒はしていても、前を歩く人間への警戒はしてなかったみたいだな。」

 その手の持ち主と思われる声は彼女にそう語りかけた。

 中性的な子供の様に聞こえなくもない。

「………………」

 確かに自分より前を歩く人間は、後ろを歩く人間ほど警戒はしていない。しかし見ていなかったわけではない。

 この子供の方が自分より上手だったということか。

 彼女は逸る気持ちを抑えて、黙り込む。どうせ目的があるなら自ずから提示されるはずだ。交渉はその後でも遅くない。

「しっかり教育はされているようだ。でも、専門家じゃない。」

 子供は試すように確信をついている。

 彼女は尾行の専門じゃない。訓練を受けているだけだ。

 そんな立場の人間が、今回の任務に割り振られたことは本人にとっても疑問だったが、それをわざわざ上の人間に問うほど図太い神経を持ち合わせている訳でもない。

「専門はオペレーターだな。」

「…………」

「少し焦りが見えたぞ。」

 一方子供の方はすぐに結論を出したようだ。

 表情や体に出していないはずの動揺も覚られている。どうやら左腕で抑えている肩のわずかな筋肉の動きから読み取っているようだ。

 あとわずかにでも右手が動かせたなら、拳銃を取り出せる。しかしその右手は背中に押さえつけられ、少しでも動かせば方に激痛が走る。そういう風に固められいる。

「少し、調べさせてもらう。」

「――ッ!」

 ボディーチェックの為だろうか、右手の拘束がほんの一瞬緩む。

 ともかくチャンスだった。

 上半身の筋肉を総動員させ体を勢いよく捻り子供を引き剥がし、同時に右手をコートの下に滑り込ませる。

 最小限の動きで拳銃を取り出し――――

「悪くない動きだけど、やっぱり実践慣れしていない。」

 その首にはきりともアイスピックともとれる針の切っ先が当てられていた。

 彼女の拳銃は取り出し、構える寸前。今になって思えば腰撃ちのように構えればわずかに勝っていたかもしれない。

 これが彼女と、彼女の眼前に佇む子供――否、詰襟の高校生との経験の差とでもいうのであろうか。

(――――いや)

 彼女のそんな考えは冷静になりつつある頭によってすぐに否定される。

 手に持った小さな拳銃の銃口は地面を向いている。たとえ一瞬の判断で腰に据えて引き金を引いたとしてもそれよりずっと速く、この高校生の錐が喉を貫いているだろう。

「そもそも武器に頼ろうとした時点で、結果は変わらなかった。私はわざと右手の拘束を緩めた。そのあとどういう行動を取るかぐらいは予想できている。」

 高校生は空いた左手で、撫でるように銃身を掴むとゆっくりと彼女から引き取る。

 経験も、何もかもを彼女を凌駕していた。

「それじゃあ、いろいろと質問に答えてもらおうか。」

 そこまで言うと、 その少女は初めて笑顔を見せた。



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Ghosts : -)(現代日本を舞台にスパイ少女が頑張る) 紅夢 @unknown735

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