彼女は、Hound :3-< ~前編~

「今回の任務は彼女の調査。結果如何での処分です。」

 そう言ったコード9の上司の男は一枚の写真を見せた。

 と言っても、それは写真というにはあまりに古び、朽ちていて紙切れと言った方が妥当である。

 その色彩も白黒の古いもので映っている人物もかろうじて確認できる程度である。

 写真を受け取ったコード9は訝しげに顔をしかめると、写真を返した。

「どうかしましたか?」

「いや……その写真の人。今じゃ結構年取ってるんじゃないの?」

「それが、標的の顔がわかるのはそれしかなくて――」

「情報の開示は?」

「それは今から話します。」

 男は足元からノートpcを取り出すと、データを呼び出す。

「彼女は二次大戦中、陸軍中野学校で養成を受けた元軍人です。太平洋戦争中は決まった部隊に編成されることはなく、アジアで広く諜報活動を展開していました。」

 ここまで読むとpcのデータファイルを一つ消す。

「ですが大戦が末期に入る頃、行方が分からなくなりました。」

「じゃあ、その写真は?」

 コード9は高校用のリュックから缶に入った飴を取り出すと、退屈しのぎに一つ口に放り込む。

「実は、彼女はその後スカウトされて我々の組織の前身にいたんです。」

「工作員だったの?」

「ええ。ですが、そこで問題が――――」

 男はまた一つデータを削除すると、また別のファイルを開き説明を再開する。

「彼女は中野学校後の部隊から消えた後、組織に入るまでの間は消息不明だったんですが先日別班がとらえた反乱分子の勢力からあることが分かりました。」

「――――彼女は元々その勢力にいた二重スパイだった可能性が浮上した、と」

「はい。彼女はそこで猟犬と呼ばれ、全盛期は組織内での工作員や反乱因子を始末する仕事を請け負っていたらしいです。」

「でも、こっちに入ってからなんの痕跡もなく辞めるまで続けてたって変じゃない?」

 二人の上は政府、つまりは国の下にある。

 大きな組織ではあるがその実態は世界中に張り巡らされた毛細血管のような網のもので面積としては大きくはない。

 ボロは、確実に見つかるものだ。

「はい。上もその点を理解したうえで彼女が勤務する前後二年から洗いなおしたそうですが、結果は白。」

「そこで、直接会って聞いてこいと」

「はい。…………いえ、話を聞くというよりは彼女の家などに侵入してそれらしき証拠を探るのが目的です。」

「わかってるよ。それぐらい。それで、その猟犬さんの消息は?まさか組織抜けてから首輪外したりはしてないでしょう?」

 男は機械的にデータを消すと、別のファイルを開いた。

「現在は、この街の幼稚園で教諭をしているそうです。年齢は83歳。ただ――――」

「ただ?」

「これ以上のことはわかっていなくて。観測班の事前調査でもつかめなかったそうです。」

 コード9は呆れた顔をして飴を噛み砕く。

「データとか残ってないの?」

「はい。毎月更新されているデータがこれだけなので。上も怪しいと睨んでいます。」

「あそっか。この組織前身からの退職者多いんだっけ。」

 コード9は合点がいたように背もたれに全身を預け、間近にある車の天井を見上げる。

「すみません。なので、ここからは我々が自力で何とかするしか。」

 男は困ったような声を上げるが、このわずかな声色を感じ取れるのは彼と長年付き合いのある人間だけ。実はコード9では半分もわからない。

「まあ、バックアップが受けられないわけでもないんだし気はそこまで重くないね。」

 なにせ相手は老人だ。油断しなければまず死ぬことは無い。

 警戒すべきは、その動向と周囲。経験のある手練れた老人程、身の回りにありとあらゆる罠を仕掛け、のんびりベンチに座っていても目の前の人間を殺せるようにする。

 身体の衰えとその技術の卓越さは反比例だ。

 経験から来るとっさの判断と頭の切れこそ厄介ではあるが、それをどうにもできないコード9ではない。

「調査の方は難航すると考えられます。期間は二週間ですし、少々危険な仕事になると思われますが、失敗は許されません。よろしくお願いします。」

 その考えに釘を刺すように上司は言い放つ。

 そういわれると途端にこの仕事の厄介さが浮き彫りになったのだ。

 工作員は、ときに自分の命より情報を優先して守り、それに触れようとすることさえできないようにする。それは己が命を犠牲にしてもだ。

 相手がその情報を誰に伝える必要もなく、己だけが知っていればいいのならなおさらその難度は跳ね上がる。

 そう考えたコード9はひょっとしなくても、この任務は自分がいつもやっているような潜入・調査・破壊工作・暗殺より格段に難しいことを理解した。

「わかってる。私は、政府のマスターキー。言われたとおりの形になるのが仕事。今回もそれだけ。」

 でも、そんな問題は彼女にとっては非常に些末である。

 言われたことをやるだけ。指示されたとおりにこなすだけ。

 彼女にはそれだけ。そうする技術スキルがあるのだから。

「じゃあ、今回もよろしくね。」

「はい。よろしくお願いします。」

 コード9――――陶子は車を降りた。

 詰襟を羽織り、リュックを背負うと路肩のガードレールを跨ぎ歩道に入る。

 道を行けば高校に向かう大通りにつながりそこからは一本道だ。イヤホンを耳につけ、音楽プレイヤーで都会の雨音を流しながら、眠そうに歩く。別に眠くは無いが。

 現在時刻は八時十五分。学校までは後五分ほどで到着する。

 頭の中は今回の任務のことで埋まっている。

 どういう算段で進めていこうか。対象には接触するべきか。周辺人物には?

 とにかくわからないことだらけだった。

 今わかっていることは、彼女が“危険”であるということだけである。

「…………どうしたもんかな」

「おーーっはっよーーーー!!!!」

 順当な算段を組み立てつつも、詰を考案できないでいると快活な声と共に背後から一人の少女が飛び出した。

 陶子は気づいていたが、振り向くのは不自然であるという判断の元声をかけられるまで知らないふりをしていた。

「おはよう加奈子。」

 陶子はイヤホンを外し、横に並んだ自転車に乗る少女を見る。

 生き物のようにうねる濡烏の長髪は腰まで伸び、端正な顔立ちは日本人形のように美しいが不気味な白さではなく、透けるような美しい肌を持っている。

「陶子今日は早いね!早起き?」

 しかし、その実態は見た目に反して快活、活発な少女である。

 その御姿を一目見た日本男児は一言『大和撫子』と言うだろうが、話声や動きを見た日本男児は『それがいい』と言う。

 要は美少女だ。そして陶子の高校での数少ない話し相手である。

「送ってもらった。」

「あーあのかっこいいお父さん?」

「うん。」

 加奈子は陶子の上司を見たことがある。その時とっさに父親と言いくるめた結果今でもそういうことになっている。

 ちなみに、上司自身もそういう解釈を加奈子にされていることは知っている。彼女の前で一度会うことになってしまったことがあるが、その時の彼の対応はあまり笑うことの無い陶子ですら吹いてしまったほどだった。

「ふーん。あっそうだ!陶子はもう職業体験決めた?」

「職業体験?」

「もー水曜までに決めて名簿に書くよう言われてたじゃん!」

「あーそんなのあったね…………」

 高校二年生の職業体験プログラム。一週間自分が選択した職業の補佐的立ち位置で、仕事に対する理解を深める。

 たしかそんな話だったはず。

 陶子にとって仕事というものは、もうやっているものであってこれから目指したり憧れたりする対象ではない。

 任務の性質上なにかの職場に新任研修もしくはアルバイト的な立ち位置で着くことこそあるものの、それ以上ではない。

 そういった関係上、経験のある工作員は意外にもいろんなことができたりするらしい。

 そういう経験になるものを選ぶのが推奨されると上司も行っていたが。

「………………いや」

「ん?どしたの?」

「加奈子、職業体験の枠にこの近くの幼稚園ってあったっけ?」

「あーそういえばあったような――――でもどうして?幼稚園って柄じゃないよね」

「んーーなんとなくかな。そういうのもありかなって」

「そっかぁ。じゃあ枠空いてたらいっしょにやろ!!」

 加奈子はそう言うと肩を寄せてきた。そうでなくとも彼女のパーソナルスペースは狭い。

「別にいいよ。加奈子はやりたいのやりなよ。」

「私も特にやりたいことないし。子供好きだし幼稚園にする~」

「まあ、いいけどさ。」

「じゃっ、自転車おいてくるねー」

 そう言うと加奈子はそそくさと走り去っていった。

 情報によればその幼稚園には例の“猟犬”がいる。

 加奈子の安全どうこうより、加奈子に邪魔されることだけはどうにか回避しなければならない。

「…………そのためならば」

 陶子は「嫌われることも計画に含める」という旨の言葉を飲み込んだ。

 彼女は異様に耳がいい。そのくせ近くにいると聞き返すことが多い。

 相手も幼稚園教諭である以上下手に動くことは無いはずだ。やはり問題は計画の詰めの部分。

「……………一応、報告しておくか。」

 陶子は携帯を取り出すと今日の上司の電話番号に掛けた。



 高校の授業は陶子にとって新鮮なものが多く、意外にも退屈はしない。

 科学や物理といった分野は応用だけを知っていたりするせいで既存の知識と混同したりもするが、それでも新しいことを学ぶことはたのしい。

 唯一と言うか、退屈に感じるものがあるとすれば世界史と政治・経済だろうか。

 自分が知っている部分と照らし合わせても面白くは感じない。

 要は解釈の問題なのだろう。養成所で出会った先生もよく言っていた。

「世界は膨大な物語で、そこに生きている私たちが勝手にいろんな見方をしているだけなの」だと。

 それに10割同意する気はないが、それも見方の一つなのだと言われればわかる気もする。

 そんな学生生活も時間と共にできている。六限になり廊下が肌寒くなれば、窓を通して暖かな日差しだけをとりこむ教室が相対的に暖かくなり、机に突っ伏したり妙に俯いたりする生徒が増える。

 今日の六限はホームルーム。来週の職業体験プログラムが決まっている生徒は自習。そうでない生徒はメンバーを募り空いた枠に応募できるよう担任教師と話をする。

 陶子が応募を考えた幼稚園教諭補佐という枠は最大で三人。加奈子以外に応募したのは同じクラスのよく知らない男子生徒だった。

 まあクラス全員の名前なんぞ憶えていないのだが。

「加奈子、知ってる?」

「東君ね。あんまり話したことは無いけどけっこうおとなしい感じの子だった気がする。」

「相変わらず交友関係が広いね。」

「人の名前を覚えるのが得意なだけだよ」

 と言うのは詭弁である。この高校において、というよりはこの大きくはない街において彼女ほどの事情通はいないであろう。

 特別誰かと話しているところを見ることは無いが、挨拶程度の世間話を一日のうちに多くの人間と交わし、そこから小さな町のコミュニティを司る。それだけだが、情報を知ってる人間と知らない人間では生きやすさが段違いなのだということを彼女は体現している。

 こと陶子の世界にもそういったことを生業としている人間もいるが、こちらは生きずらそうという認識しかない。

「まあ、問題を起こさなければそれで構わないけど。」

「いい子だよ。多分」

「………………」

「ん?どしたの?」

「いや。前から思ってたんだけど、その同い年にも年下みたいな扱いをするのは何かの癖なの?」

「あーそっか、失礼だよね」

「いや、失礼かどうかは知らない。」

 加奈子は恥ずかしそうに長いもみあげを細長い指でいじりだす。

「気を付けるようにしてるんだけど……年の離れた妹とか親戚がいるせいかな」

 そう小さく言うとはにかむようにうつむきがちに陶子を見る。

「まあ、それを嫌がる奴にだけ気をかけるようにすればいいんじゃない」

「そ、そうかな」

 加奈子に年の離れた家族が多いことは知っていた。 

 その影響か、やたらと世話を焼きたがるという面もおおよその察しがついていたが、最早それは甘やかしに近いのではと陶子はぼんやりと考えた。

 それにこの容姿だ。この本人が悪い癖と自覚している部分も男女共に人気があるのは風の噂に疎い陶子でも知っている。

 それ故に、その為に、彼女が陶子を見る目が時折姉に憧れる妹のようになっていることを陶子は知らない。

「で、その何某君はどこに?」

「東君だよ。役割分担決めないとね。」

 陶子にそんなつもりはなかったのだが、加奈子はそう言うと「えーっと」とあたりを見渡し、東を見つける。

 役割分担と言われて思い出したが、確か記録とレポート、それと班長だっただろうか。この場合は班長が一番楽なのは陶子にとって謎だが、こういったことは何度かあった。

 要は舵取り。重要なのは舵を握る人間ではなく、帆や動力なのだろう。

 手招きされた何某君――――東君は二人と反対に位置する教室の前列からおずおずと向かってきた。彼に浴びせられた恨み妬みの視線は決して少なくはないだろう。

「こ、こんにちは…………」

 そして近くから借りた空いた椅子に座ると。二人から少し距離を置く。

「役割分担どうする?東君何かやりたいものある?」

「い、いや僕は二人が選んだあとでいいよ。」

「そう?まあどれも同じようなもんだよね」

「う、うん」

 交渉の訓練で最低ランクを叩きだしたことのある陶子でも、訓練を受けていた成果か東が圧されているとわかる。

 それぐらい、東は噛み噛みだった。

「じゃあどうする?陶子」

「うーんじゃあ……記録係で」

「あら意外」

「そうか?」

「だって絶対班長って言うと思ったから」

 陶子は「あーしまった」という言葉を飲み込んだ。記録係を選んだのは単純に写真を撮る係だからだ。電子媒体に情報を記録するのはあまり乗り気ではなかったが、任務にあたる上で猟犬とその他情報を写真に収められるなら、それもありかという判断だ。

 しかし、学生生活上の陶子は基本やらなくていいことはやらない主義。この手のことは真っ先に楽な役職を選ぶはず。

「うん、まあ。たまにはね…………」

「そっかぁ。じゃあ私がレポートやるね!というわけで東君、班長お願いできる?」

「う、うん。よろしく、二人とも。」

 東はおずおずとしたたいどのまま、二人に会釈をする。

 度胸がないように見える兎ほど、何をするかわからない。これは養成所で先生に捕虜の扱いについて教わった時の話だが、彼もそれに当てはめることができるのだろうか、と陶子はひそかにぼんやりとその立ち居振る舞いを観察した。

 東はことが決定したことをいいことに、刺す視線を回避するように元の席に戻っていく。とはいえ、元の席でも後ろの男子生徒につつかれ楽しそうに話しかけられていた。

「彼は、何かスポーツでもしているのか?」

「うーん……聞いたことないけど、柔道部の人と仲がいいね。どうして?」

「いや、なんとなく」

 陶子はそう誤魔化したが、実際は東の肉体が見た目以上に鍛えられていることと、足運びと姿勢がきれいなことを見抜き、何らかの武芸に秀でている可能性を予測していた。 

「でも確かに……意外と東君力持ちだし、体もがっしりしてるよね」

「まあ、そうだね」

 この程度は加奈子にもわかるらしい。彼女の場合は人づてに聞くこともあるだろう。

「ほら、あの後ろにいる友達も確か柔道部だよ。」 

「ああ、そう」

「あれ、もう興味なくしたの?」

「いや。元から無いけど」

「もう、相変わらずだね」

 陶子が他人にそっけないのはいつものことである。それは基本的に加奈子にも。

 ただ他の人間のように見え透いた下心や、警戒心がないだけで加奈子も人間である以上、彼女も用心の範疇に常にいる。

 そんな世間話と言うか、暇潰しで時間を潰せばホームルームはすぐに終わる。

 校門で加奈子と別れると陶子はイヤホンを左耳に着け、クリップに付いた小さなマイクを詰襟の襟に付ける。

 ポケットの通信機の周波数を合わせる。

「こちらコード9」

「――――何かわかりましたか」

 上司はコールに素早く反応した。

「いや。何か分かったというよりは、どうにかする手段が少し特殊になるかもしれない。」

 陶子はことの顛末を話す。



 

 



 

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