そういうわけで、と僕は云う。

沖合なせ

そういうわけで、と僕は云う。


     プロローグ


 乾いた音は、教室のドアが開け放たれた音だった。

 そこには、スカートの裾を握って俯く彼女がいた。


「あの、──くん」


 僕の名前が呼ばれる。

 その瞬間、誰かがヒュゥッと口笛を吹く。それは、合図だった。いっせいに、僕を囃し立てる声が、クラスに蔓延していく。

 僕は顔を真っ赤に染め上げた。羞恥心が胸の奥で燃え上がった。そしてそれを持て余した僕は、恥ずかしそうに俯く彼女へとぶつけるのだ。


「わざわざ学校内で、クラスまで来ないでよ。勘違いされるじゃん」


 思慮の浅い僕が、ナイフみたいな言葉を吐き出した。彼女がワンピースを、一層強く握り締める。

 その頃の僕は彼女よりずっと幼稚で、思慮に欠けて、いつも周りの目を気にしていた。そのくせ一番大切なことは見落としていた。

 だからこれは、その罰だったのだ。

 彼女はか細く「ごめんなさい」と残して僕を背にする。僕はすぐさま、その後ろ姿から視線を切る。

 それから二週間後のことだった。──彼女が転校したと聞いたのは。


     1


 空はまだ、深い焦げ茶色だった。まるで焼き焦げたパンだ。そんな空の下を歩いていく。ネックウォーマーに口元を埋めながら。

 辺りはまだ、まっさらな静寂を保っていた。僕の足音だけが静かについてくる。そんなしじまの中を歩いていく。白い息を吐きながら。

 こういう静かな朝は、たいていセンチメンタルな気分になる。無性に泣きたい気分になる。ひどく懐かしい思い出が脳裏を揺さぶる。そんな脳裏のイメージを、首を振って打ち消した。嫌なことから目を背けて、今日も今日とて登校路を進む。

 それは小麦畑を過ぎて、全然青に変わらない信号も越えて、まだまだ先を目指そうとした時だった。見つけたのだ、このど田舎には似つかわしくないそれを。人間ドミノのように人が人の後ろに立って、さらに人、人、人

……要するに行列だった。

 歩いている人を見かけるのすら珍しい、この田舎に行列だ。僕が興味を抱くのは自然なことだった。


「あの、これは何の行列で……

「お、君いいところに来た!」


 質問が遮られる。声をかけた、頭のてっぺんのはげたおじさんが、目を輝かせて僕の手を握る。僕は思わず後ずさる。

 それにも構わず、彼は言葉を続けた。


「制服ってことは、これから学校? それなら、テープ持ってない? テープ。使うでしょ、学校で」

「テープ。……あぁ」


 思い当たる節があったから、鞄の中を探してみる。内ポケットの中を探した後、筆箱を開けようとしたところで、探し物の行方を思い出した。


「あると思ったけど、そういえば昨日、学校に置いてきたんでした」


 両手を開いてから、上げる。持ってないというジェスチャーだ。


「そんなこと言わずに頼むよ」

「そう言われても、ないものはないんです。……ちなみに、なにに使うんです?」


 すると今度は、おじさんが鞄の中身をあさり始める。そして、一枚の紙を手に取った。


「これこれ、このチケット。ほら」


 テープとチケットの関連性に首をひねりながら、渡された青色のそれを眺めた。


『あなたが今一番欲しいもの、差し上げます。⚪︎月×日の朝七時に⚪︎⚪︎⚪︎町の×××広場にてお待ちしております』


 そんないかにも胡散臭い文句は、思わず眉が寄っていく程だ。


「何ですか、これ」

「君、知らないの? ネットで有名な"欲しいものチケット"の噂」

「"欲しいものチケット"……」


 聞き慣れない単語を、口に馴染ませようと、繰り返す。

 そんな僕を見ながら、おじさんの顔が下を向いた。そのせいで、彼の顔が翳る。


「決して手に入らないものへ強い願いを込めた、そんな悲惨な人のもとにだけ届く、……のだとか何だとか」


 すぐにおじさんは顔を上げる。顔の翳りが嘘のように消えてなくなる。

 僕は今度は、気になるフレーズを繰り返すことにした。


「悲惨な人のもとに……」

「うん。でもほら、これ見て」


 彼が指差す。その先に注意を向けると、そのチケットはどうやら少し、破れているようだった。


「注意事項にさ、破損や紛失の場合は対処しないって書いてあるんだよ。これぐらい大丈夫だとは思うけど、やっぱり不安になってちゃって」


 そう言って下を向くおじさん。あるいはここが都会だったら、近くのコンビニに買いに行って万事めでたしといくのだろうが、目の前には生憎の田舎町が広がっていた。それも毎朝こうして、何十分もかけて登校しなければいけないような田舎町だ。

 数十分かけて買いに行っても、間に合うか分からない。

 そういうわけで、何か方法はないのか、と頭を悩ませていた時だ。僕に突然、ある妙案が浮かんできたのだ。

 一度周りを見回した僕は、おもむろにノートを取り出して、そこに一言だけ殴り書く。そうして、

「必ずテープを持ってきますから」と一言だけ残す。おじさんの制止も聞き流して、僕は走り出した。同時に、先ほど殴り書いたノートのページを高く掲げる。


「誰か、テープを持っている方いませんか? テープです! どなたでも構いません、テープをお借りできませんか?」


 名付けて「これだけたくさん人がいるのだから、一人くらいはテープを持っているだろう作戦」だ。なんてアホみたいなことを考えながら、ノートに踊る『テープ』の文字と一緒に、列に沿って走っていく。

 そしてついに、その時が来た。


「あ、あの! テープなら持ってますよ」


 目がすっぽり隠れてしまいそうな、長い前髪をした男の子が、小さな声で呟いた。蚊の羽音だけでも掻き消えてしまいそうな、か細い声で。けれど、それを聞き逃す僕ではなかった。

 例のノートを下げて、彼の方へ近づいていく。


「本当ですか?」

「ほ、本当です。……ただその代わり、条件があります。ずっと列に並んでいたせいで、喉が渇いちゃって。なのでその、なんでもいいので、

「はい、わかりました!」


 最後まで言葉を聞く前に、僕はまた走り始めた。要するに、飲み物を貰ってこればいいのだ。

 ノートの次のページに、今度は『飲み物』の三文字を刻む。


「どんな飲み物でも構いません。オレンジジュース、ミックスジュース、お水でも。譲っていただけませんか?」


 すると今度は、比較的早く声が上がる。


「よぅ、兄ちゃん。持ってるぜ、水。まだ口もつけてないやつ」


 そうやって新品の水を取り出し、白い歯を見せたのは、サングラスをかけて前髪を上げた二十歳くらいの男性だった。

「助かります、ありがとうございます!」とそのペットボトルに手を伸ばすと、彼は僕の手が届かない高さにまでそれを持ち上げるのだ。


「っと、待った。ただであげるわけじゃないんだ。交換だよ、交換。……兄ちゃん、ティッシュ持ってないか?」


 またこの流れか。薄々気づいてはいたけど、わらしべ長者かよ! 僕は! いや、正確にはまだ何も交換してないけど。

 そんなツッコミが頭に浮かんで、直後、すぐに消えた。


「あ、いや、ティッシュ? ティッシュですか?」

「う、うん」

「ティッシュなら普通に持ってますよ! ほら!」

「う、うん。……なんでそんなにいきなり、テンション上がったの?」

「そんなこといいですから、早く!」

「う、うん……」


 府に落ちないと眉を潜めつつも、彼は受け取ったティッシュで鼻を噛む。花粉症のようで、持参したティッシュが切れて困っていたところだったらしい。そのままポケットティッシュを渡して、代わりにもらった水をあの男の子のところへ届けに行く。

 その途中でふと見上げた空には、ずいぶん高くなった太陽が僕を見つめていた。そのあまりの高さが心に引っ掛かったけれど、首を振って彼の元まで急ぐ。

 やがて彼の姿を見つけて、一層スピードを上げた。



「持ってきましたよー、飲み物」


 そうやって、水を抱えてやってきた僕に、男の子は目を丸めた。


「あ、ありがとうございます。本当に持ってきてくれるなんて」


「いえいえ。さ、さ。早く飲んじゃってください」と、蓋を開けて手渡すと、彼は恐縮しながらそれに口をつける。その時だった。

 開いたスペースを詰めようと後ろから歩き始めた女性が、道端の石ころに躓いて、前につんのめる。その先には、ちょうど水を飲む男の子がいるわけで、結果どうなったかなど、言うまでもなかった。

 女性が頭から水をかぶって、派手に転ぶ。ぐっしょりと濡れて、シャツが肌に張り付く。


 数秒の間、気まずい静寂が流れた。嫌な汗が額を伝う。

「くしゅん!」とくしゃみが聞こえた。言うまでもなく女性のくしゃみだった。それが合図になる。男の子が、女性を介抱し始める合図に。けれどどうやら、ハンカチを持ってないようだ。何もできずにおろおろと右往左往している。

 そんな中、僕はまだ動けずにいた。それは別に、目の前で突然人が転んだことに、驚いたからではない。自分のもらってきた水のせいで。と罪悪感に浸っていたわけでも。

 ただ、迷っていただけなのだ。右ポケットに入っているハンカチを取り出すか、取り出さまいかについて。

 結局、決断を下す前に。一番恐れていた質問が僕を襲った。


「あ、あの、たびたび申し訳ないんですけど、ハンカチとかティッシュ、持ってませんか?」


 長い前髪の奥から、ダークブラウンの瞳が二つも僕を見つめていた。なんだかその瞳に試されているような気がしてくる。

 ポケットティッシュなら水と交換してしまったが、ハンカチならば手元にある。右ポケットに入っている。あるにはあるけれど……


「やっぱり持ってないですよね。無理言ってすいませんでした」


 僕の沈黙を否定と捉えた彼が、女性の方へと向き直る。視線が僕から外れる。

 天邪鬼な僕は。

 いつも大切なことばかり見落とす僕は。

 その言葉を聞いてやっと、「今」が「過去」よりも大切なことを思い出した。もう二度と、大事なことは見落とすまいと決めていたのに。


「いや、持ってます、ハンカチ! これ使ってください」


 ついに僕はハンカチを取り出した。白色の布が、わずかな風に煽られる。

 彼が女性を拭く間、僕はただ、彼女が風邪をひかないことを願っていた。


     2


「おまたせしました、持ってきましたよ。テープ」


 相変わらず頭頂部のはげたおじさんを見つけて、テープを掲げる。


「君はあの時の……。本当に持ってきてくれるとは!」


 おじさんが感極まったとばかりに口元を押さえた。そして直後、すぐにその手を取っ払うと、疑問を口にした。


「だけど、どうしてここまでしてくれるの? 今日初めて出会った、しかもこんなにやつれたおじさんに」


 首を傾げながら、斜めった口でそう問う。

 それに、あぁそうか、と僕は得心した。

 側から見れば、確かに僕の行動ほど不可解なものはないのだ。通りかかっただけの学生が、二つ返事どころか、自分から進んでテープを借りに行ったのだから。

 不思議そうに頭をひねるおじさんへ、僕は笑ってみせる。


「初めてチケットを見せてもらった時、それが送られるのは悲惨な人だって言いましたよね? おじさんも、チケットを送られているのに。だから、頑張らなくちゃって思ったんです」

「僕が困っていたから、助けたってこと?」

「簡単に言えば、そういうことです」


 けれど、簡略化すれば、その分だけ言葉は正確性を失う。僕は困っている人を誰でも救うような、ヒーローごっこに憧れたことはない。そんなことに遅刻をかけようとは思わない。ただ、決して手に入らないものをいつまでも願う、そんな報われない気持ちに同情して、テープを借りに行ったのだ。

 それでも大まかに見れば、おじさんが困っていたから助けたというのも、間違いではないのだ。だから、そう答えておいた。

 彼は僕の回答に納得の行ってないようで、未だに首を捻っている。

 そんな姿を見つめながら、僕はとりあえず回想に入ることにした。

 結局あの後、割にすぐ水を拭き終えた。僕はぐしょぐしょになったハンカチとテープを受け取ると、「残りわずかだから返さなくていい」との言葉に甘えて、彼らに別れを告げる。そしてそのまま、おじさんの所まで戻ってきたと言う次第だった。


「さ、それよりも、チケットを直しましょうよ」

「え、あ、あぁ。それもそうだね」


 おじさんがチケットを取り出す。その間に僕はテープを切り取る。

 テープを手に入れるためにかけた労力とは裏原に、チケットの傷を治すのは一瞬だった。

「はい、できた」と言うおじさんの言葉通り、チケットは“どこも破れてませんよ”と澄ました顔を作っている。破れていることも、まずバレないだろう。僕らは、顔を見合わせた。やることは決まっている。

 冬の空に、パンと乾いた音が響く。

 それは、ハイタッチの音だった。


     3


「それにしても、学校はいいの?」


 腕時計を確認して、心配そうにおじさんが尋ねる。それに、笑みを浮かべて答えた。


「どっちにしろ、もう遅刻です。それなら、チケットがちゃんと受理されるか、見届けたいですけど、ダメですか?」


 乗り掛かった船だ。それにもう、遅刻も学校も、どうでも良くなっていた。

 結局、おじさんが首を横に振るはずもなく、僕らはもう数十分間を一緒に過ごすことに決めたのだった。

 そしてそれ以降、おじさんは学校のことを追求しようともしない。必然的に、静寂が僕らを包み込む。

 それを打ち消すべく口を開いた。


「聞いても、大丈夫ですか?」


 明らかに言葉足らずな質問。首をひねるおじさん。

 だから、補足する。


「チケットで何と交換してもらうのか、聞いてもいいですか?」


 チケットの説明をしてくれた時の、あの翳った顔が脳裏にちらつく。もしかするとこの質問は、おじさんの地雷を踏み抜くかもしれない。

 けれど、聞いてみたくなったのだ。


「うさぎのぬいぐるみがね、欲しいだ……」


 どこか遠くを見定めるような虚な目で、彼が話し始めた。

 どうやらその話は、五年前のある日から始まるらしい。



 それは、どこの家庭にでも一度はあるような、些細な親子喧嘩だった。きっかけも、ぬいぐるみを買って欲しい買ってやらない、みたいな些細なことだった。

 結局父親は、ぬいぐるみを買わないことにする。娘に我慢を覚えさせたかったのだ。

 次の日の朝も、機嫌の悪いままの娘は、父親と話そうとしなかった。父親もムキになって話しかけようとしない。

 そのまま一言も交わさずに、娘は小学校へと出て行った。

「どうせ些細な親子喧嘩だ、気にすることもない」そう自分に言い聞かせて、父親も会社へと向かう。

 その日は仕事の調子も良く、机の上に山積みだったファイルがどんどん片付いていく。これは早めに帰宅できそうだ、と上機嫌になっていた昼過ぎのことだった。

 突然、私用の携帯が震える。

 宛名の名前を確認してから、電話を取る。

 珍しく焦った妻の声が、耳元で聞こえた。

──それは、特別珍しい話ではなかった。例えば、どこかのローカルチャンネルが夕飯前に放送していそうな、そんな話だった。


「学校から、──ちゃんが車に轢かれたって連絡が……」

 それは、娘の名前だった。


 病院に着くとすでに、小さな顔には白い布が被せられていた。

 布をどかせるまでもなかった。

 その小さな体が誰のものか、わからないはずもなかった。



 思ったよりもハードな話に、思わず頬の肉が引き攣る。

 おじさんの話はエピローグを迎えようとしていた。


「数年後、ふとあのうさぎのぬいぐるみを買おうと思い至ったんだ。娘のためというより、自分のために。そうすれば娘が死んで以来胸に住み着いたままの、行き場のない喪失感に決着がつくよな気がしてね。けれどとっくの昔にぬいぐるみの販売は終了していて、通販サイトも探し尽くしたけど見つからなかった。後から知ったけど、販売された母数が、ずいぶん少なかったらしくてさ」


 そのあとは僕も知っている様に、“欲しいものチケット”が届き、一縷の望みをかけてこの田舎まで足を伸ばしたようだ。

 話を聞き終えた今だからこそ、わかることがあった。


「なら、初めに言ってた、“悲惨な人”って……」

「うん。今この列に並んでいるのは、忘れられない不幸に出会って、それを乗り越えるために届かない望みをかけてきた、そんな“悲惨な人”だよ」


 僕も含めて、とおじさんは付け加える。

 長い前髪の少年も、水に濡れたあの女性も、サングラスをかけた二十歳くらいの男性も、それから目の前に立つおじさんも。みんな、届かない望みを願い続けている。

 それほどやりきれない事実はなかった。


「こんなにたくさんの人が……」


 吐いた言葉が、白く濁る。

 冬の寒気が肌を襲う。

 思考が、いつかの放課後に迷い込む。

 僕もずっと、あの日の放課後に戻りたいと願い続けている。決して手の届かない、あの日の放課後に──


     4


「そろそろじゃないですか?」


 前の方を覗いて、隣のおじさんにそう告げた。

 そのまま目を凝らして見続ける。

 どうやら、屋根の備え付けられたカウンターが置いてあるだけのようだ。その奥には男性と女性が一人ずつ立っている。


「どんな感じでチケット交換してるか、見える?」


 おじさんは目が悪いようで、どれだけ目を細めても、目つきが悪くなるだけらしい。

 彼の要望に沿って、奥を凝視し続ける。


「先頭の人が、男性の方にチケットを差し出す。それから二言三言、会話を交わす。そして女性がカウンターの奥から取り出した何かを受け取る。大体こんな感じみたいですね」


 それから僕らは、いかにチケットの破れが見えないように交換するかを話し合う。あぁだのこうだのを言い合っているうちに、おじさんの番がやってくる。

 いよいよだった。

 隣で固唾を飲む音が聞こえた。

 直後「お願いします!」という声と共に、おじさんがチケットを出した。破れた箇所を親指で上手く隠しながら。その瞬間、僕は男性がチケットを受け取ると確信した。

 どうやっても彼の角度からでは、チケットの破れは見えないからだ。

 男性がおじさんのチケットを一瞥した。けれど、受けろうとしない。

 張り詰めた糸のような空気が、あたりを包み込む。

 僕は自分の心臓が高鳴るのがわかった。

 男性は、まだなんのアクションも起こさない。

 ゴクリと隣で、また固唾を飲む音がした。

 男性が、ようやく動き出す。



「……これは、受け取れません」



 静かに、そして重々しくそう告げられた。

 おじさんが、目を見開く。


「な、何故ですか」

「理由は、ご存知でしょう?」

「そ、それは……」


 冷たい視線で、おじさんを見据える男性。

 その冷たさに、おじさんがたじろいだ。


「このチケットは特別なんです。少しでも破れてしまえば、その効力を失ってしまう。……テープでくっつけたり、手で隠したりしても、失った効力は戻ってこないんです」


 男性が畳み掛ける。たじろいだおじさんが、その勢いに負けて後ずさる。

 そんな状況を前にして、僕は静かに拳を握った。最後の望みを頼りここまできたおじさんに、この仕打ちはあんまりだ。

 そう思ったから、口を開く。


「……その言い方はないんじゃないですか?」


 突然横から口を出した僕に、当事者の二人がこちらを見た。

 さっきまでおじさんに詰め寄っていた男性が、目を丸くする。


「ここにいる人はみんな、悲惨な人ばかりだって聞きました。決して届かない望みを願い続ける人たちだって。……驚きました。こんなに多くの人が、苦しんでいることに」


 僕にも多分、その苦しみなら分かる。忘れたくても忘れられなくて、目を閉じればいつでも、昔の光景が浮かんでくる、そんな苦しみが。

 きっと、どうしても忘れられないあの瞬間から、ずっと時間が止まっているのだ。

 そしてそんな過去と決着をつけるには、その“昔”と向き合わなければいけない。


「彼らをそんな苦しみから救う──そのために、こうやって“欲しいもの”を渡してるんじゃないんですか? その“欲しいもの”が直接救いにつながらなくても、過去と向き合うきっかけにはなるかもしれないから」


 例えば、僕にとってのハンカチみたいに。

 脳裏に放課後の光景を浮かべながら、僕はそう言い切る。

 一瞬、目の前に立つ男性の口元が、笑みを作ったような気がした。


「そうですよ。私たちも彼らと同じく、届かない願いを持ち続けたタチですからね。同胞を救うために、今はこうして奔走しているんです」

「ならっ、」

「それでも、ダメなんです。チケットが破けてしまえば、それは紙切れに成り下がってしまうんです」

「さっきからチケットチケットって。一体このチケットに、どんな力があるってんですか?」


 ふふ、と。今度は確かに、男性が笑った。

 そのまま、緩んだ口で言葉を紡ぐ。


「──魔法の力ですよ」


 風が吹いて、おじさんの持っていたチケットが揺れる。

 予想斜め上の答えに、数十秒間、僕は固まった。

 そんなラグを挟んで動き出すと、すぐに抗議の声をあげる。


「魔法の力って、」

「それより君、右ポケットに何か入ってるみたいですけど……?」


 言葉を途中で遮られて、水を差さされた気分になる。

 それにそもそも、僕は右ポケットに何も入れていないのだ。

 だから、彼の言葉を無視して、話を続ける。


「魔法の力って何のことですか?」


 そう聞いても、男性は一向に答えようとしない。やられたらやり返すということだろうか。

 僕がしかめっ面を作るのを見て、彼は一言

だけ呟く。

「ポケット」と。

 その強情さにため息をつく。どうしても、僕にポケットを漁らせたいらしい。

 これ以上無視していても話が続かないと判断した僕は、空のはずの右ポケットに手を突っ込む。


「……え?」


 右手に訪れたのは、硬い紙の感触だった。

 思い当たるものがあって、急いでその紙を引っ張り出す。引っ張り出したそれは、


「“欲しいものチケット”……?」


 青い下地に怪しい謳い文句が踊るチケットが、僕の手に収まっていたのだ。

 それは、届かない願いを叶えてくれるチケ

ット。


──おかしい。

 けれどそのチケットが僕の手にあるのは、おかしいのだ。

 僕にはもう、過去への未練なんてないはずだ。あの日の放課後に戻りたいとは願うことはあっても、それを叶えようと動いたこともない。

 僕はもう、あの過去と一度、向き合っているから。

 過去と向き合い、それを“過去”のことと認めて、今を生きているのだ。

 とりもなおさず、僕の思考はその“過去”へと舞い戻る──



 僕は、あの女の子が好きだった。

 けれどあの頃僕はまだ十四で、自分の気持ちに素直になるどころか、それに気づくことすらままならない思春期だったのだ。

 そしてあの日、罪を犯した。教室を遠ざかっていく悲しそうな後ろ姿を今でも覚えている。

 それからというもの、彼女がどんな用件で僕を訪ねてきたのか、それだけが気になってしょうがなかった。もちろんそれを知る術はもうない。

 それだけに気を囚われて、僕はこれからずっと、過去に心を奪われたままなのだろう。自嘲気味にそう思うことも多かった。そして実際、そのはずだった。

 クラスメートに声をかけられるまでは。

 それは、彼女の転校を知ってから、さらに数日後のことだった。

 いつも通り一人で家へ帰ろうとした僕に、声がかかった。


「ねえ、多分この手紙って、君宛なんじゃないの?」


 あまり話したことのないクラスメートからの声に、僕は目を丸めた。

 彼は言葉を続ける。


「下駄箱の中に入ってたんだよ。だけどこの女の子の名前に見覚えがなかったからさ。僕宛じゃないんじゃないかと思って、結構色んな人に聞いてみたんだ。ほら、中身を見るわけにもいかないでしょ?」


 はい、と手紙が渡される。

 その後ろには、初恋の女の子の名前があった。


「でも、僕宛かどうか分かんないよ」

「君の下駄箱って、僕のの隣でしょ。それに、あの娘が手紙を残すんじゃない?」


 彼の言葉は、暗にあの日の放課後を指しているのだろう。

 僕は彼の気遣いに感謝して、手紙を受け取ることにした。


「ありがと。それじゃ、もらうよ」



 その手紙の内容は、俗に言うラブレターだった。世間一般で通っているようなラブレターほど甘酸っぱくなくて、どちらかと云えばほろ苦いものだったけれど。

 もちろん、その手紙一つで救われるほど僕の傷は浅くなかった。それでも過去に向き合うきっかけはできたのだ。同封されていた真っ白のハンカチを握り締め、僕は過去に向き合った。

 だから、僕のもとへ“欲しいものチケット”が届くはずないのだ。


「届かない望みなんて、願った覚え、…………あ」


 自分で言葉にしてみて、ようやくそのチケットの意味に気がついた。過去を乗り越えたはずの僕に届いた、青色のチケットの意味に。

 予想外の展開に目を白黒させたおじさんを、視界の端で捉えつつ、その青いチケットを受付の男性に差し出した。


「欲しいものは決まっているんですか?」


 愉快そうに笑みを深める男性。

 もちろんです、と答える僕。

 決して手に入らず、それでも欲しいと願うもの。そんなものは、一つしかない。


「僕は、おじさんが使える“欲しいものチケッ

ト”を欲しいです!」


 高らかに宣言する。

 その言葉に真先に反応したのは、隣に突っ立つおじさんだった。


「え、えぇ? いや、君。流石にそれは悪いよ。君が欲しいものを……」

「僕が欲しいものなんですよ。それが。……だって僕は、おじさんと出会うまで、このチケットを持ってなかったんですから」


 朝家を出た時は、右ポケットには何も入っていなかった。それが一番の証拠になる。

 おじさんと出会い、彼の悲劇に心底同情して、そしていつしか彼が過去と向き合うことを望んでいた。けれど僕には、おじさんが使うことのできる“欲しいものチケット”を入手することなど、絶対にできない。……それが、決して届かない望みになったのだ。

 僕らは顔を合わせる。おじさんもどうやら、僕の意図を理解したようだった。

 その証拠に、女性が差し出す新しい“欲しいものチケット”に手を伸ばす。そして、


「これ、お願いします」


 と、チケットを男性に渡した。

 二度目のチケットは、すんなりと受理される。すぐに、ウサギのぬいぐるみが姿を現した。僕らは、顔を見合わせる。やることは決まっていた。

 冬の空に、パンと乾いた音が響く。

 それは、ハイタッチの音だった。


     エピローグ


「そういうことがあって、遅刻したんです。いやぁ、人助けして晴々しい気分です。そういうわけなんで、遅刻はなしってことに──

「ならないからな」

「え、なんでですか!?」


 昼過ぎに学校に着いた僕は、すぐに職員室に来るよう言い渡された。そこで担任に、遅刻の訳について弁明させられているのだ。


「ったく。よくもまあ、そんな大それた作り話ができるもんだ。お前、物書きの才能あるんじゃないか?」

「作り話じゃないですよ」

「……先々週は“二時間も赤のままの信号”を待ってたんだっけ? 先週は“小麦を狙う烏の大群”から小麦畑を守ったんだったよな。それで今週は、願いが叶うチケット、か。……いいことを教えてやる。どこぞの主人公だって、そんな頻繁には物語に直面しない」


 さらに、わかったか? と担任は念を押す。


「遅刻をしないように心がける。それでも遅刻してしまった時は、素直に認める。わかったなら行ってよし!」

「はい。すいませんでした」


 都合の良い返事を並べて、僕は職員室を後にした。そのまま教室に戻って、自分の席を目指す。

 その前に、あぁ、と思い出した。

 ポケットに入れっぱなしだった、青色のチケットの半券を、教室の後ろのごみ箱に放り投げる。そして使い道の無くなったその紙切れが、しっかりごみ箱に収まるのを見てから、席に着くのだ。

 窓の外では群をなしたカラスが、無駄に青い空を真っ二つに切っていた。

 僕はあくびをして、鞄を開いた。……五時間目の用意を始めるために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そういうわけで、と僕は云う。 沖合なせ @sato13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ