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須藤未森
***
どうにも人肌というものが苦手なのだけれど、その反動なのか、“鱗肌”は嫌いではない。むしろ、好き、に限りなく近い。きらきらとして、温かみのない光沢。
あたらしく部屋にやってきた金魚。私はふかふかのラグに三角座りをして、じっと見上げる。金魚鉢は、カラーボックスのうえに鎮座している。金魚が来て以来、暇ができると、こうして膝を抱えながら金魚たちを眺めるのが日課になっていた。まるで、神棚にしずしずと祈りを捧げるみたいに。でもそれはもちろんポーズだけの話で、実のところは全くそうではない。明日は洗濯物干さなきゃ、とか、そろそろ派手めなアイシャドウがほしいな、とかばかり考えている。
「ほんとは、浴槽で飼いたいんだよねー」
「悪趣味なんだからもう」
同居人が、呆れたように返事をした。
「ねー、それより邪魔していい?」
「だめ」
彼女はすぐそこ、台所でとんとん白菜を切っている。立ち上がると、ふつふついいだした鍋が湯気を吐いているのがみえた。私は彼女の背後にたつ。ちら、ちら、と手もとをのぞく。あかぎれのある、赤らんだ細い指。
「こら」
気が散るでしょ。何度めかの台詞に私は適当に返事をする。
「でも見てたいんだもん」
彼女のうなじに、結われそこねた短い髪の毛がふわりとまとわりついている。
肌、きれいだな。私は口をつぐんだまま、浮き上がった首の骨あたりを観察した。彼女の動作ごとに揺れる骨と筋肉、腱、髪、皮膚、体液。触ったらどんな感じだろう。ぼんやり思い浮かべてみたけれど頭のなかでは、もやもやとした肉片らしきものが横たわっているだけだった。
ぱちゃ、ん、と水が跳ねる音がした。
「いまの何?」
私はたずねた。
「え、何が?」
「いや何でもない」
蛇口から水は出ていないし、鍋のなかも変わりない。
私は彼女から離れてリビングに入る。ちくちくした予感にかられて、金魚鉢をのぞくと金魚が、そこから消えていた。
まさか。私はガラスのなかを上からのぞき、横からのぞき、もう一度上からのぞいた。何も、いない。微動だにしない、少しにごった水があるだけだった。鉢の周りも必死に探したけど、どこにもいない。そんなまさか。
ひっ、と私は声をあげかけた。しめった暖かい手が、瞼に触れた。
「なーにしてるの」
いたずらっぽい声で彼女は私の視界を覆った。
あのね、金魚がいなくなった。嘘じゃないよ。だって。
吹き上がってくる子供みたいな高い声は、ぐっと殺された。喉が、萎縮している。しばらくして気づいた。おびえているのだ、私は。金魚がいなくなった事よりも、突然あらわれたルームメートに。やわらかく優しい手に。
「金魚ばっか見て。そろそろ鍋できるからカセットコンロ出してよ」
ぱあっと目の前がひらけた。
ふりかえると、いつもの困ったような、呆れたような笑顔が待っていた。しんとした目が私をうかがっている。
「ふーん、いたずら好きなんだから」
「いまさら何を」
彼女は肩をすくめた。
「ふふん」
いつのまにか、捕らわれていた喉が解放されて、息をはじめる。すー、はー。すー、はー。よし、大丈夫。私はゆっくり立ち上がる。
「あれ? 金魚」
「で、何考えてたの、今度は」
彼女は台所の火を止めて、こんもり野菜ののった皿を持ってきた。
この人は何も知らない。金魚が――数秒間であったとしても――いなくなっていた事も、私の事も、ぜんぶ。まっすぐに、心を砕く直感だった。
私は金魚鉢のガラスをつつーっとなぞった。なかの魚は興味なさげに、そっぽをむいている。行儀よくならんだ鱗が、LEDの光をオレンジに変えてきらめく。よくよくみると、そのなかの一片が鈍い血の色になっていた。そこだけ、鱗が剥がれ落ちているのだ。
「べつに、何も考えてなんかないよ」
遅れた返事を、彼女はふうんとあしらう。とっくに私の姿など視線から外されていた。やがてこちらがカセットコンロを準備したのを見計らって、鍋が運ばれてきた。
「……強いていうなら、君の事が好きだなーって」
「とぼけた事いってないで、ごはんよそってきて」
「ふぁーい」
私の目はルームメートの首筋にひきよせられる。体温がひたひた張りつめたような透明な肌。ぱちゃ、とまた水の跳ねる音が聞こえたけれど、きっと気のせいだ。私は言い聞かせた。子供向けのふりかけの大袋に手をつっこみ、愛らしいモンスターが印刷された“おかか”を引き上げる。
「わ、あたりだ!」
「おー、おめでと」
鍋の前に座ると、箸をわたされた。いただきます、と2人で声をそろえて豆乳の鍋をつつきはじめる。ものの煮えるいい匂いが、気づかないうちにできていた身体の強ばりを解く。
「そういえば金魚、名前つけないの?」
「つけないよ」
「可哀想ね」
「そう?」
私は無理矢理、苦手な水菜を口につっこんだ。彼女が今朝あった事から、授業の事、部活の事を話し始める。ひとつずつ丁寧に相槌をうつ。
目をあげると、視線が合った。彼女よりも向こうで、金魚がはくはくと口を開け閉めしている。おねがい。しずかにしてちょうだい。ルームメートに気づかれぬよう私はしめやかに笑う。
でないと、この人を嫌いになってしまうかもしれないでしょ?
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