シンデカラストーリーズ

アオピーナ

『死の向こう側へ』

 ──毎日のように、その時の光景が想起される。

 

 山の麓で、森の中から外れた崖の一端。

 僕と凉雅の二人は、互いの家族と共にキャンプに来ていた。

 その時はまだ小学生だったから、目に映るもの、体験すること、どれもこれもが新鮮に感じて、抑えきれない程の好奇心なんかも共在していたから、二人でこっそりと森の中へ探検に行くのもまた自然の摂理ならぬ子供の摂理だろう。

 目を輝かせ、逸る気持ちを叫びと駆け足に具現し、程なくして森を抜ける。

 凉雅が鋭い目付きをより一層細めて、目の前に広がる絶景に両手を伸ばしながら、感嘆の声を漏らす。それは僕も同じだった。

 

 行き着いた崖から見えるのは、どこまでも青く澄み渡る大空と、絨毯のように敷き詰められた海だった。

 上下、天地、双方が青によって支配され、その奥には真一文字に引かれた水平線が見えていた。

 僕も、凉雅も。

 まるで強い引力にでも引き付けられるかのようにして、煌々と輝く美しき一枚絵に惹かれていく。

 だから、ゆっくりと前へ足を踏み込んでいたことにも気付かずにいた。

 今思えば、あの景色は自然がもたらす神秘でも探し求めていた宝石でも何でもなかった。

 

 魔性。

 そんな言葉が似合うのだろう。

 人を惹き付け、決して目を逸らすことは許されず、やがて手中に収めれば最後、鋭い牙で獲物を仕留め、何事も無かったかのように満面の笑みを浮かべながら腹を肥やす。

 昆虫も、美しい花も、動物も、昔からそうしてきた。

 だから、自然風景とて、例外では無い。

 誰が合図する訳でもなく、小柄で無邪気な少年は呑まれていく。

 その時は、景色に見蕩れ、魅入られたために足を踏み外していたことに気付かなかったのだと思い込んでいた。

 

 夢幻を漂う浮遊感が突如として消失し、意識が現実に回帰していた時には既に、無理解の空白が思考を支配していた。

 流れるように下から上へと高速移動する青の景色。

 その青のグラデーションと同期したかの如く蒼白していく表情。

 急激に血の気が引き、枯渇していく感覚を覚え、弱々しく揺れる瞳は鎮座する水平線を見つめていた。

 

 一人だった。

 一人だけだった。

 笑っていた。

 醜く淀んだ笑い声が静寂に木霊する。

  

 ああ、そうか、と。

 不気味なぐらいに冷静だった自己の客観性が、結論を出していた。

 

 ──凉雅が僕を突き落としたのだと知り得たのは、その瞬間だっただろうか。



「──あら、考え事?」

 

 朧げに現実に回帰した意識が、鈴のような音色によって覚醒する。

 徐々にクリアになっていく視界に映りこんだのは、妖艶に微笑む黒髪の美女だった。

 僕はゆっくりと身体を起こし、軋むベッドから両足を放り出す。


「ちょっと、昔のことを思い出していて……」


「ああ、私と貴方の『結婚記念日』の時のことね」


「はい……」」

 

 今まで当たり前のようにして浸っていた世界が『偽物』だったと告げられれば、当然、笑ってしまうだろう。

 僕も例外では無かった。

 

 魔性の蒼景に沈み、やがて世界と離別し、白亜が支配する世界へと誘われた。

 呆然と佇む僕を、黒髪を靡かせる美女が慈しむようにして見つめていた。

 銀鈴の如く揺れる白銀のワンピースは、景色と同化しているように見えても尚、別個の輝きを放っていた。

 

 ──貴方を救えてよかった……。

  

 女が微笑む。

 同時に、世界が彩られる。

 一面に草原が広がり、陽光が暖かく抱擁する。

 そして相対する女は、幾何学的で、摩訶不思議で、けれどどこか真実味のある真実を語っていった。


「あの日から、もう何年経つのかしらね……」


「さあ、そもそも、この世界──いや、『現実』では時の流れさえ曖昧なんでしょう?」


「そうね。それもそうだわ」

 

 今度は困ったように笑う。

 絶対なる美貌を兼ね備えながら、万人を魅了する笑顔を向けるのだ。僕なんかに釣り合う筈が無いだろうに。

 でも、彼女は救ってくれた。

 終わりゆくあの世界から、救ってくれた。

 正直、僕が離別した直後の世界を見せられた時は驚愕を通り越して笑ってしまった。

 唸りを上げて炸裂する台風。憤怒を表すかのようにして崩壊していく大地。

 灼熱が暴れ狂い、世界が紅に染まっていった時には、終焉とはこういった地獄を言うのだな、と柄にも無く悟ったものだ。


「——用済みの世界から一人でも救えただけ良かったわ。悠久の幸せを約束された世界も、悪くないでしょう?」


「……そうですね。何にしても、本物はいいものです」

 

 そう言ってベッドから腰を上げて、微笑み合って口づけを交わす。

 そして、彼女の肩を抱き、いつもの場所へ向かう。

 偽物の世界の果てに行き着いた本物の世界。

 あの世界では、この場所のことを天国とか言っていたような気がする。

 でも、あながち間違ってはいないのだと思う。


「──選ばれし民よ」

 

 溢れかえる人々の波に声を放つ。それに呼応するように、一拍遅れて大歓声が巻き起こる。


「僕はこれからも、初代現実世界線の王として、絶対なる幸福の享受を誓おう」

 

 いつだって、人は、世界は幸福を求める。

 どの世界にも、統率者は必要である。

 女神に魅入られたあの日から、僕はこの世界の王として──神として、民を願い赴くままに導いている。


 ──死して始まった本物の物語。

 

 ある者は天国と呼び、ある者は地獄と呼んだ。

 だが、真実に辿り着いてようやく理解する。

 

 今存在するこの世界こそが、現実であり、本当の世界そのものなのだと——。

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