15分だけ愛している

@tsukimiyakokoro

15分だけ愛している

 人恋しい、けれど男はもうこりごりだ。

 なら女がいいのかというと、どこかでやっぱりそれは違うような気がする。

 私は男が好きだ。でもシゲルとつきあって、それからはもう嫌いというか、嫌いではないのだが、やっぱり「こりごり」という感情になったのだ。

 シゲルは優しかった。私に対しては。それがまるで私を守る騎士のようだと思っていたのは最初の三日間だけだ。

 シゲルは乱暴だった。コンビニの店員がタバコの銘柄を理解していなかったとき、道をゆっくりと歩いていたお年寄りにぶつかったとき、ゲームセンターで負けたとき、そして私を抱くとき。

 抱かれている間の私はシゲルの恋人ではなかった。コンビニ店員で、お年寄りで、ゲームセンターにある筐体だった。

 だから私は営みが嫌いだった。

 一つ嫌いになれば瓦解していくように私はシゲルの何もかもが嫌いになった。

 ならどうして三年もつきあえたのだろうか。お金にだらしなくて、よく無心されたのに。味つけの好みが合わなくて、つくった肉じゃがに醤油をじゃばじゃばとかけられたのに。ふざけたつもりだろうけれど、嫌がらせみたいに脱いだ靴下を顔にかけられたのに。

 愛されたから。

 それが最後の砦だったのに。

 低気圧による頭痛で仕事を早退させてもらい、ほぼ同棲状態だったアパートに戻って、そこには裸のシゲルと裸の知らない女がいた。

 どうせ悪者ぶるならふてぶてしくあればいいのに、シゲルはその一件を気まずそうにし、さも自分は浮気現場を見られた被害者であるかのように振る舞い、もうお前とは一緒にいられない、これまで奢った分として十万円をよこせと言いのけ、手切れ金としてなら、という私の主張を聞いたか聞かなかったかわからないうちに紙幣を握りしめて出ていった。

 タバコとぎらついた香水の匂いが染みついた部屋からは私も出ていった。

 引っ越しをしたせいで、私の職場へは電車で通うことが難しくなった。

 自転車だと朝から汗だくになってしまうし天候にも困る。

 かと言って自動車は維持費も高いし、運転技術にいまひとつ自信が持てない。

 その点、路線バスは都合が良かった。

 マンションから歩いて十分ほどの位置にバスターミナルがあって、始発だと最後尾の座席には楽に座ることができる。

 そしてうちの職場は終点のそばにあり、最後に悠々と出ていける。

 それがわかってから、誰も奪うわけもないのに大急ぎで定期券を買った。

 一番後ろの座席の左端へ、私はわがもの顔で座るのが当たり前になった。

 本屋で目についたミステリー小説の文庫本を貪るように読みふけるのにもっとも邪魔が入らず、集中できる。

 だから気が付くのに一ヶ月ほどかかったし、たぶんだけれど、その間ずっとそうだったと思う。

 私の右隣に座るのは、いつも決まって同じ人だった。

 身長百七十五センチぐらいの、お堅い、スーツ姿の男性。たぶん三十歳前後。

 眼鏡をかけていて、癖っ毛で、それを隠すみたいに髪を短くしている。

 痩せ型で、私みたいに本を読んでいる。カバーもかけず、近所にある図書館のシールがついた本。文庫本じゃなくてハードカバーのときもあるし、新書のときもある。

 分厚くて黒い手提げの鞄を足元に置いて、膝の上にキャンバス生地のミニトートバッグを乗せている。たぶんミニトートバッグはランチバッグだろう。お弁当だ。

 そして左手の薬指に、きらめく銀色のリングが光っている。

 所帯じみた感じで、あまり周囲の目を気にしていなくて、自分がつくったのか奥さんがつくったのかは知らないけれど、仕事の鞄よりお弁当箱を大事にしているのがいいなと思った。

 好きだな、と思ってしまった。

 過去にパートナーがいる人を好きになったことはある。片恋で終わらせた。

 まして結婚した人にときめいたのは初めてのことで、どうしたらいいのかわからなかった。

 その人は本の栞に名刺を使っていた。

 それが本人の名刺かどうかはわからなかったのだけれど、そこには「相島主税」と書かれていた。他の細かい肩書は見えなかったし、社名も思い当たるものではなかった。

 それがかえって良かった。

 相島主税――と呼ばせてもらうけれど――の存在感はさほど現実味を帯びないまま、ただバスに揺られている間だけのお隣さんとして、私はただただ意識し続けた。

 本に視線を落とし、主人公の町娘がお江戸を騒がせる辻斬りを目撃して事件に巻き込まれとき、老刑事が事件の真相に因縁の相手が絡んでいることに気付いたとき、野良猫がいつもお世話になっている魚屋で死体を発見したとき、相島主税は隣に来た。

 ランチバッグからお弁当の匂いがして、相島主税本人の匂いはよくわからない。

 痩せているせいで肩がぶつかることもほとんどなくて、でも私はたぶん、そんなことは望んでいなかった。

 好きだな、と思える相手がそばにいて静かに本を読み耽っている。

 それはとても穏やかな光に包まれるような瞬間であった。

 終わるのは、相島主税が隣に座ってからほぼ十五分後だ。

 バスだから決まった時間ではないが、こっそりと時間を図っていたら大体そうだった。

 相島主税は本をしまい、静かな低い声で「すみません」と繰り返しながら人ごみを押しのけてどうにかバスの前扉へと行き、下りていく。

 十五分だけの逢瀬、などと言ったら相島主税に悪いのだけれど。

 でも私にとってはこの時間が、もっとも心うるおう瞬間だったのだ。

 ある雨の日、いつもより人の匂いが強く感じられる車内で私は相島主税をひそかに待ちながら、主人公の女子高生が美少年の亡霊に取り憑かれて事件の解決を頼まれている場面を読んでいた。

 そこへ来た相島主税は手提げのビジネスバッグとランチバッグ、そして傘を持っていた。

 三つも持っていると慌ただしく、されどきちんと私の隣という定位置へ彼は収まった。

 雨のせいでか憂いの表情を浮かべる彼をひそかに眺めながら、私は彼から漂うお弁当のいい匂いだとか、私に当たらないように内側に寄せる膝頭に心の安寧を覚えていた。

 一瞬のような十五分が終わる。

 そして相島主税はいつもより一つ手荷物が多いことに慌てたのだろう。

 閉じる本の隙間から、栞がわりの名刺が滑り出る。

 それは私のお尻に近いところへ降り、相島主税は気付いていなかった。

 傘と鞄とランチバッグを持って「すみません」と言いながら人ごみをかきわける。

 私は名刺を持って、一瞬迷って、でも後を追った。

 大声は好きじゃない。まして公共機関で人の迷惑になるような声量は出せなかった。

 結果として私もバスを降りた。

 相島主税はまだ背中の見える位置にはいたけれど、距離にして二十メートルは離れている。

 歩幅が違う。歩調もまったく違う。

 座席で隣同士だっただけの私にはあまりに遠く、速い。

 走った。

 雨の中、防水袋に入れた折り畳み傘のことも忘れて駆ける。

 黒い武骨な傘を差した、相島主税の背中だけを追って。

 パンプスのヒールががっごっがっと強烈な音を立て、振動で内臓が揺さぶられる。

 追いつけ、頑張れ。

 運動は短大を卒業してからずっとやっていない。

 それもタイトスカートで走るなんてこれは拷問だ。

 ふーはーふーはーと激しく呼吸を鳴らして私は相島主税を追いかけた。

 あと十メートルぐらい。でも。

 相島主税が路地を曲がる。背中が隠れる。見えない。

 これで私が曲がった瞬間に姿を消していたらどうしようか。

 犯人を追いかける刑事、下手人を追走する十手持ち、彼らはわりと取り逃がす。

 雨の日は特に。

「あいじまちからさーん!」

 叫んだ。

 路地からひょこっと、眼鏡をかけた男の顔が出てきた。

 相島主税だ。

「はい? あれ?」

「あの、これ、落として」

「え、あー、え?」

「しおり……」

 追いついた。息もたえだえだ。

 それから相島主税は私に遠慮してか、傘を差し出してくれた。

 雨が私を打つのをやめた。

「栞って、本の? あれ、ぼく、落とした?」

 ぼくって呼ぶんだ、自分のこと。ちょっと可愛い。

 気が付いたら少し笑っていた。

 はい、と差し出すと、傘の中で私たちは二人きりの世界にいるみたいだった。

 相島主税が笑う。

 初めて、私に。

「ちから、って読める人あんまりいないのに」

「え、ええ」

「ありがとう。隣の席の人ですよね。いつも本を読んでいる」

「はい。あの、井坂倫です」

 何を名乗っているんだろう。

 恥ずかしくなってきた。

 でも相島主税は笑った。

「いいお名前ですね。本当にありがとうございます。ごめんなさい、わざわざ」

「いえ」

 頭を何度もお互いに下げあい、それから私は自分の傘を出して相島主税から遠ざかる。

 これ以上近づくと、いけない。

 相島主税の左手の指に、銀の指輪があって本当に良かった。

 綺麗に輝いて、私を強くはねのけてくれたから。

 また明日、と相島主税が言った。

 また明日、と私は返した。

 十五分を少しだけ逸脱した事件は、雨の日なのに、あんがい爽やかだった。

 そして次の日もまたバスに乗る。

 中年の老刑事が亡くした奥さんの遺影に手を合わせたところで相島主税は乗ってきた。

「これ、昨日のお礼に。妻がつくってくれました」

 相島主税は小さく可愛らしい袋を渡した。

 中身はクッキーだった。

「ありがとうございます。すみません」

「こちらこそ助かりました。妻も、いまどき珍しいぐらいいい人ねって」

 ほっとした。

 相島主税から奥さんの話を聞いても、私の胸はちっとも痛まない。

 相島主税が奥さん想いで、奥さんも幸せそうで、私はたぶんそんな相島主税が好きなのだ。

 奥さんのつくったお弁当箱を大事に抱える相島主税が好きだ。

 私はその燐光をわずかに吸って癒されるだけでいい。それがいい。

 奪わない。壊さない。手に入らなくていい。

 ただ、十五分だけ愛している。

 誰にも何も押しつけず、誰かに何も強要されない幸福が、路線バスの片隅に確かに息づいていた。

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