第4話  海岸道路の赤い花

 山陰海岸を縫って走る国道の脇にうずくまって、ぼくは夜明けを待っていた。

 テントやら食料やらが詰まった大きなリュックを電柱に立て掛け、そのリュックを抱くようにして少し眠った。それまで乗せてもらって来たトラックが町の手前で国道から離れるというので降りたのは、もう朝に近いといってもいいような深夜だった。東海道や山陽の幹線道路と違って、山陰では国道といってもこの時間はまず車が通らない。次のヒッチハイク・ポイントである町の出口まで歩いて朝を待つことにしたのだった。

 深夜のトラックでは助手席で眠ることは絶対に許されない。事故につながる危険さえある。そもそもヒッチハイカーを乗せようとする車は、長い運転で退屈したり、疲れたり、眠くなったドライバーの気晴らしのためというのがほとんどである。だからぼくらはドライバーの話相手になって、旅の話をしたり、ときには歌をうたったりもする。そういうわけで移動中はめったに眠れないから、どんな所でも、どんな短い時間でも、すぐに眠れるようになっていた。

 目を覚ますと、まだ青味がすかっり抜けてはいない朝の光に包まれて、名前の知らない赤い花が国道脇の雑草の中に混じってたくさん咲いているのが見えた。ぼんやりとした頭で、今日も暑くなりそうだと、このあとの予定などを考え、何台かの車の通り過ぎる音に促されて立ち上がった。そして、五十メートルほど前方で二人の女がこっちを向いて立っているのに気付いた。

 二人ともスリムのジーパンにTシャツ姿で、赤いTシャツの方は長い髪を後に束ね、もう一人はプリントの白いTシャツで肩にかかるぐらいの髪にヘアバンドをしていた。高校生ぐらいだろうか、夏休みとはいえ朝早くにこんな所で何をしているのだろう。彼女たちからさらに十メートルほど先に小さなリュックが二つ転がっていた。これからどこへ行こうというのだろう。とにかく挨拶でもして話し掛けてみようかと思っていたら、彼女たちのほうで手を振った。ぼくも手を上げようとして、ふと思いとどまった。彼女たちはぼくにではなく、ぼくの後から接近してくる車に向かって手を振っていたのだ。

 女性のヒッチハイカーのことは話には聞いていたが、実際に会ったのはこれが初めてだった。荷物の大きさからしてたいした旅行ではないだろう。しかし、リュックを前方に置いているくらいだから、少なくても初めてのヒッチハイクでないことは確かである。車は急には止れない、というわけで必ず遥か前方に停車する。それを追いかけて便乗の交渉をし、OKならば荷物を取りに戻る。だから慣れた人は、あらかじめ荷物を前方に置いておくものなのだ。(このへんは入門編で述べた通りである)

 クラクションを鳴らしてその車は通り過ぎて行った。彼女たちはテレたような笑いをぼくに向けた。遠くて細かな表情はわからないが、仕草がとても可愛かった。ぼくも笑って手を振った。レディファーストというわけでもないが、彼女たちが先に車をつかまえるまで待つことにした。急ぐ旅ではないし、それにちょっと興味もあった。彼女たちはトラックではなく、乗用車かせいぜいバンあたりに狙いを絞っているようだった。

 トラックだったら女はすぐにでも乗せてもらえるだろう。しかしそれだけに危険も大きい。あるトラックの運転手に聞いたことがある。「当然そのくらいの覚悟はしているだろうし、案外むこうもそのつもりかもよ」「じゃ、いま女の人が立っていたらすぐに乗せますか」「あたりめえよ。わるいけどあんちゃんはその場で降りてもらうことになるな」。便利なことに、大きなトラックには運転席の後に仮眠用のベッドがある。彼の会社の仲間には女のヒッチハイカーを乗せたことのある人が何人かいるそうだ。「途中で山ん中に車を入れてよお、そりゃあもうウハウハだったてよ」。しかし会社ではヒッチハイカーを乗せるのは禁止されているという。けっこうトラブルが多いからだ。そういう会社が増えている。

 「ドジなやつがいてよう。女を乗せたはいいが、車を停めて、まあ気持良くうとうとしているうちに本当に眠ってしまったんだな。目が覚めたら女がいないだけでなく、金めのものが全部無くなっていたそうだ。なかなかすげえ女だよな」

 彼女たちはそんな「すげえ女」には見えなかった。どんな車が彼女たちを連れ去っていくのだろう。しばらくしてエンジンの爆音が響いてきた。五、六台のオートバイがぼくの前を通り過ぎ、そしてブレーキの音が聞えた。彼女たちはリュックを背負って別々のオートバイにまたがると、ぼくのほうを振り向いて手を振った。何か大声で話しかけているようだがエンジンの音で聞えない。

 男の背中にしがみついて離れていく彼女たちに「気をつけて」と叫んで、ぼくは力いっぱい手を振った。

 それからあまりたたないうちに、ぼくは小さなトラックに乗せてもらうことができた。リュックを取りに戻ったとき、ふと思って、そこに咲いていた赤い花を二輪折って車内に持ち込んだ。フロントグラスの前に置いた赤い花を見て、深い皺が刻まれた初老のドライバーが言った、「なんだ、それは」。ぼくはつい今しがた二人連れの女の子がヒッチハイクをして、オートバイに乗って行ったことを話した。

 「ほんとに今の若い衆は何を考えているんかわからん」とおじさんは言う。そしてあんたどこから来なさった、東京から歩いてきたんか、おやごさんは心配しなさっておるじゃろ、などなど本当に心配そうに訊き、うんうんとうなずく。左手に日本海が青く輝き、右手には山陰本線のたよりない単線のレールがときどきトンネルに消えながらも続いている。海と山にはさまれたわずかの隙間を縫うようにして線路と国道はどこまでも平行して走っている。そして、国道の脇のさらに狭い隙間に、雑草が膝ほどの高さにびっしりと生え、赤い花がいくつも混じって咲いていた。

 「この赤い花はなんていうんですか」

 「知らん。雑草だろう。そんな花はうじゃうじゃ咲いとるけん」

 トラックはときどきぶすんぶすんと音をたて、激しく揺れ動きながらもかなりのスピードで突っ走った。窓から潮と草の匂いが微かに混じった風が音をたてて入り、ラジオからは演歌が流れていた。日差しは強くすみずみを照し、空と海と砕ける波は、遥か昔からそれがそうであったように、そしてこの先もそうであるように、単純で完璧な美しさを見せていた。ぼくがここを走り抜け、いつか年老いて土に埋れても、また誰か若者がこの道を走るだろう。小さなトラックが初老のドライバーと旅の若者を乗せ、繰り返しここを通り過ぎるのだ。この美しく単純なものはそのままここにあるだろう。赤い花は繰り返し咲いては散り、また咲くだろう。

 気持の良いドライブだった。

 ぼんやり風景を見ているうちに、目を開けたままうとうとしかけた。そのときだ。前方のやや広くとられた路肩に五、六台のオートバイが停まっているのが目に入った。「彼女の乗って行ったオートバイだ」とぼくは独り言のように呟いた。まわりには誰もいない。海へ降りたのだろうか。そこに近づくとおじさんはスピードを落とし、「停めようか」と言った。

 「いや、いい」。ぼくは赤い花を掴み、通り過ぎる瞬間にオートバイ目掛けて投げた。

 花は風に舞うようにして後ろへ飛び、だいぶ離れた路上に落ちた。おじさんはバックミラーでそれを確かめるとアクセルを踏み込んでスピードを上げた。風の音楽と単調なエンジンの音が戻ってきた。

 そのトラックがどこまでぼくを連れていってくれたのか、今ではどうしても思い出せない。空と海の青さの中に一瞬舞った花の赤い色が目に焼き付いているだけである。


☆おまけ☆ あとがきにかえて《ヒッチ川柳》


親指を 立てて手を振る 幹線道路

歩いても 歩いてもまだ 山の中

3日なら 食わず眠らず なんとかなるさ

雨宿り 今日で3日目 橋の下

ひょっとして 路端の草も 食えるかな

あかね雲 今夜はどこで 寝ようかな

今までに 見たこともない こんな夕焼け

目が覚めて ふと見上げると 大銀河

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ヒッチハイク物語 第3部 思い出のヒッチ旅行 鈴木ムク @muku-suzuki

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