第3話 嵐の夜
幹線道路でのヒッチハイクは夜にやることが多い。長距離のトラックはたいてい夜中に走るからだ。そのなかでも特に冷凍車が狙い目である。銀色に光るジュラルミンのでかい箱を引っ張って走る例のアレである。その箱の横っ腹によく『東京~札幌』とか『東京~熊本』とか書かれているのは、ようするにその間を結ぶ定期便で、たとえばその日に陸揚げされた魚を翌朝までに東京の市場に運ぶとかいうトラックなのである。たいがい大きな会社に所属しているので、助手も乗っているし、ヒッチハイカーを乗せることは禁止されているそうだ。しかし、うまくこの種のトラックに乗れれば特急電車よりも早く目的地に着くことができる。
個人のトラックも夜中はけっこう長距離を走るものが多い。彼らはトラック一台を資本にひとりで日本中を走り周り、めったに家に帰ることがない。そういうトラックがいちばんヒッチハイクの成功率が高い。
もちろん、幹線から外れた田舎道では、車を選ぶなんて贅沢は言ってられない。山中の道は川沿いに走ることが多く、砂利運搬のダンプや工事のトラックに便乗することになる。そういう車は幹線に出た所で降ろされる。逆に幹線でそういう車を拾ってしまうと、まず長距離を走ることはないし、辺鄙なところで降ろされることも多い。
ヒッチハイクをするほうが乗る車を選ぶというのは至難の技である。わざわざ停まってくれたのに断るなんてできない。だからあらかじめ狙いを付けて手を振るのだが、道路のはるか向こうから接近してくる車の種類を当てなければならない。車体の文字が目に入ったときには車はもう通りすぎている。だからといって、やみくもに手を振るわけにはいかない。街なかでそんなことをしたら、タクシーが寄って来るだけである。
トラックの運転席は高く、しかもたいていはその上部に三つくらいのランプが付いている。最近はどうだか知らないが、けばけばしい明かりで飾り立てたものも多い。それと近づいて来る音で、正面からでも遠くの車の種類を予想できるようになる。慣れれば何トンぐらいのトラックかまでわかるようになる。それでも、ときには間違えて路線バスを停めたこともある。バスも正面から見るとトラックに似ているのだ。地方では自由昇降区間とかいって、バス停でなくてもバスが停まってくれてしまう。
間違った車が近づいて来たら、腕をクロスさせて大きなバッテンを描く。
親指を立てた片手を突き出す。トラックの後ろに隠れていたタクシーがウインカーを点滅して近づく。両手でバッテンを描く。何度それを繰り返したことか。
ぼくは二週間をこえる北海道の旅を終えてそろそろ東京に帰ろうとしていた。旧盆を過ぎると北海道はもう秋で、ぼくのように大きなリュックを背負った者や、バイクや自転車旅行の連中にも出会わなくなっていた。空や海もすでにさみしい色彩に塗り替えられていた。
函館に向けてヒッチハイクをしたトラックは派手なランプをチカチカさせた長距離トラックだった。「東京~札幌」とある。これで一気に東京まで帰ってしまおうと思った。
「なんだ、東京から帰って来たところだよ。まあ、途中まででよかったら乗っていきな」とTシャツの袖をまくって逞しい肩を露出させた運ちゃんが言った。わざわざ停まってくれたのに、乗らないとは言えない。「かあちゃんがメシを作って待っているんだ。赤ん坊を寝かし付けてな」とうれしそうに話しかけてくる。仕事を終え、これから久しぶりに家へ帰るという個人トラックだった。
「悪いけど、にいちゃん、ここまでだ」と降ろされたのは、小樽を少し過ぎたあたりの山の中だった。「まあ気を付けて帰りな。ここらへんはよく熊が出るらしいでよ」
「えっ、熊ですか」
「おお、冬眠前に山から降りてくるそうだ。いちど人間の味を覚えると忘れられないんだろうな」と言って、トラックは発進した。
脇に黒ぐろとした山がせまり、その斜面から道端にかけてざわざわ音をたてる笹の薮が続いていた。道路には街灯もなく、真っ暗で、車の通る気配さえもなかった。熊がすぐそこにいるような気がして、逃げるように歩き始めた。
さっきのトラックがバックでゆっくりと戻ってきた。クラクションが鳴って、ドアが開いた。「おまえ、本気でびびっていただろう。まあ、乗れや」
「いいんですか、奥さんが待っているんでしょ」
「まあな。ふと思ったんだが、あんなところでおまえを降ろしたらかあちゃんにどなられるような気がしてな」
その奥さんはこの先の余市の出身で、ふたりはよく海岸をデートしたらしい。余市の海岸は砂浜が広くキャンプに最適だから、今日はそこで寝ろと言う。彼の薦めにしたがって、海岸の入り口まで送ってもらった。
「さっきの熊の話だけど、うそなんでしょ」と別れぎわに訊いた。
「いいや、本当だ。知らねえか、新聞にも出たんだけどよ、子供が襲われて食われちまった。まあ出てくるにしても、もっと寒くなってからだがな」と運ちゃんが言う。トラックをUターンさせて戻ると、窓から顔を出して「海には熊は出ねえさ。だけど、ここは海坊主が出るそうだ」と笑いながらいま来た道を帰っていった。
真っ暗な海岸を懐中電灯で照らして歩く。砂の様子や斜面の具合、海藻の打ち上げられている様子を見て、満潮時に波を被ったりしない安全で平らな場所を捜すのだ。どんな場合でも、テントを張るときはこういった基本をおろそかにしてはいけない。
ぐっすり寝たようだ。目が覚めるともう昼に近かった。空はどんより曇り、涼しい風が吹いていた。とても泳ぐ気にはなれない。広々とした浜にはぼくの他には誰もいない。海水浴のシーズンはとっくに終わっていた。ちょっと感傷的になる風景だ。規則正しい波の音が身体の中にまで伝わって、ぼくの中から何かを洗い流すかのようだ。もしかしたらこんな風景を求めていたのかもしれない。ぼくは浜を散歩し、飽きずに海を眺めた。
そのうち雨が降りだした。テントに戻ってぼんやりしているうちにまた眠ってしまった。疲れがどっと出てきたようだ。ヒッチハイクを始めたら東京に着くまでは眠れないから、いまのうちにゆっくり寝て、疲れをとっておこうと思った。それに雨も激しくなっていた。雨の中でヒッチハイクをしてもなかなか車は停まってくれない。車内も汚れるだろうし、運ちゃんだってそんな気分になれないのだろう。どうせなら雨の上がるのを待って一気に帰ったほうがいい。そうと決まれば食事の準備だ。
夕方、暗くなる前に傘をさして街へ出た。水筒に水をもらい、パンと缶詰を買って帰ろうとすると、おばさんに呼びとめられた。「あんた、浜でキャンプをしている人かい? あそこは危ないから早く帰りな」と言う。ええ、まあ、そうなんですか、と曖昧な返事をしていると、あんた知らないのかい、台風が来ているんだよ、とのことであった。たしかに雨に加えて風も激しくなっていた。
ラジオでは日本をそれた台風が北海道の沿岸を通るので、今夜半過ぎには暴風雨になると言っていた。テントの中で食事をしながら少し迷った。今のうちならどこか旅館を捜すこともできるだろう。安いところならなんとかなるぐらいの金は残っていた。でも、ずぶ濡れになってテントを片付けるのはどう考えてもおっくうだった。
雨は問題ではない。幸い下は砂地だから水吐けも良い。風でテントを飛ばされないかぎり持ちこたえることができるはずだった。リュックを重石代わりに風上の隅に置き、ポールが倒れないように手で押さえ、座ったままの姿勢で寝た。
すぐ近くで波の砕ける音がして目を覚ました。ヤッケを着て外へ出てみた。引く波などないかのように次々に激しく波が打ち寄せていた。その先端はテントにあと数十センチの所にまで迫っていた。いますぐここを出ないと危ないかもしれない。テントの中で荷物をまとめ、最後にテントをまるめてリュックに突っ込む。十分とかからずにぼくは海岸から逃げ出して国道を歩いていた。
嵐の中では、いくら手をあげても車は停まらなかった。トラックが何台も水しぶきをあげて通りすぎた。
いまさら旅館を捜すわけにもいかない。時計はもうすぐ一二時を打とうとしていたし、同じ歩くんなら、国道を歩いてドライブインにでも避難したほうが早いだろう。そう思って歩き始めたとき、白い乗用車が停まった。前に二人、後ろに二人乗っている。学生仲間のドライブのようである。手で合図をしてトランクを開けてもらい、リュックをほうり込んだ。ヤッケを脱ぐのに手間取っていると、後部座席のドアが開いて中に引っ張り込まれた。
「いいから早く乗りなさいよ」
車は急発進した。勢いでぼくは隣の女に倒れかかった。「まあ、この人びしょびしょよ」と、笑いながら彼女が言った。
一人の女と四人の男を乗せた車は、カーブで車輪を軋ませながら、どんどんスピードを上げていった。車内には酒の匂いが充満していた。あーあ、そんなに濡れちゃって、寒いだろ、ちょっと飲めよ、と女の横からウイスキーボトルが差し出された。ボトルから直に口飲みして、むせた。女が笑った。
「ほらほら、やっぱり幽霊なんかじゃないわ」
みんな笑った。助手席の男が振り返って、「こいつが君のことを幽霊だって、びびってなあ」と運転している男を指して言った。「幽霊かどうか、本人に訊いてみようというわけさ」
「ハハハ、リュックを背負った幽霊ですか」と、ぼくも一緒になって笑った。すると、気まずい沈黙が生まれた。
「そうよ、リュックを背負った幽霊」と、女が言った。「今月の始めに仲間が死んだの。今日みたいにすごい雨の降る日でね、あのバカはこの道をバイクですっ飛ばしていったわけよ。そこがカーブだっていうのに、まっすぐ、そのままあの世までね。リュックを背負ったままポーンと飛んでいったそうよ。あんたのよりはずっと小さなリュックだったけれど」
女は泣いていた。ぼくはなんて言っていいか分からなかった。女はぼくの手からウイスキーを奪うと、一口飲んで、「ほれ、あんたも」と運転席にすすめた。
「いいんですか、その・・・」ぼくは小さな声を発した。
「ばかやろう、今日はやつの供養なんだ」とドライバーは怒鳴ってウイスキーをあおり、さらにアクセルを踏みつけた。フロントガラスに叩きつける雨がしぶきをたてて散る。強風のためか、車がセンターに寄ったり、ガードレールに近づいたりする。ときには近づきすぎることもあった。ぼくは幻のブレーキペダルを右足でしっかり踏みつけ、身を固くしていた。怖いか、ハハハ、大丈夫だよ、死ぬときはみんな一緒だから、と彼らは笑い続けた。
車は猛烈な勢いで前方のトラックに接近した。
「いくぞ!」
「いけ、いけ」「やっちまえ」
みんな口々に叫び、車体が大きく軋んでセンターラインを越え、クラクションが鳴り響いた。トラックの轟音がすぐ真横を流れていった。強引な追越しだった。
「あいつはなあ、ここをすっ飛ばしていて、トラックにあおられたらしいんだよ」「おれたちと一緒に何度もツーリングをしたけれど、こんな雨でスリップするようなやつじゃねえ」「くやしかっただろうな」「ああ、くやしかっただろうよ」
そんな会話を聞きながら、ぼくは今までに乗ったトラックのことを思い出していた。トラックの運転席は二階の窓ほどの高さにあって、見はらしがよく、頑丈な鋼鉄の巨体を振るわせて走っていると、まるでハイウェイの王者になったような気分がする。乗用車などはちゃちなおもちゃにさえ見え、蠅のようにまとわりつくオートバイはうっとうしいだけのものだ。トラックの運ちゃんは、ガキがバイクでうろちょろしているのを見ると一発ぶちかましたくなる、と言っていた。
谷をまたいで大きくカーブしているところで車が止まった。
「ここだ」「ずいぶんさみしい所じゃないかよお」
車を降りて、ぼくたちは傘もささずに谷に向かって並んだ。彼女が花束を谷へ投げた。花束は一瞬風に舞い、ばらばらになって夜に消えた。ウイスキーを順番に回して飲み、残りを上から撒いた。谷は暗く底無しのように思えた。風が渦巻き、雨はどんどん底に向かって吸い込まれていった。
車からは、からっぽの空間にむけて深夜放送のディスクジョッキーが話かける声が聞こえていた。
「さあて、どうするか」
「朝までに車を戻さないとなあ、親父に黙って借りてきたから」
「朝まではまだ充分時間がある」
「ついでだから、函館まで行くか。きみもここで降ろされたんじゃ困るだろ」
「このまま帰る気しねえもんな」
「そうよ、今日はお盆の送り日じゃない。幽霊をちゃんと送り届けなくちゃ」
車は再びスピードを上げて嵐の中を函館へ向かった。
青函連絡船の乗り場で彼らと別れたのは、東の空がうっすらと明るくなりかけてきたときだった。雨は小降りになっていた。
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