第3話

 歩いているうちに、遂に私は煙突の姿を見失った。しかし、果たしてそれが本当に煙突だったのかどうかは分からなかった。いずれにしても、次のランドマークを探して歩かねばならない。そう考えていると、ふと奥の虫歯がうずくような気がしてきた。そういえば、今朝は朝食もとっていないし、歯磨きもしていなかったことが急に思い出された。「私は無実だ」と思った。

 改めて街道を眺めてみると、まばらな人通りに反して店の数はずいぶん多かった。シャッターが閉まっているような建物はほとんどなく、それがかえってこの界隈の経済のミステリーを助長していた。客がいなくても錬金術に長けているか、さもなければ元々金持ちが道楽で店を開いているかのどちらかだろうと見切りをつけて、私は道なりに再び歩き始めた。

 ラックボウル駅を出てからどれくらいの距離を歩いてきたのか、私にはよく分からない。勤務先を目指すために煙突を───或いは煙突のような何かを───追い、それを見失ってからは新たなランドマークを探して歩いているつもりだったが、冷静に考えてみれば私は既に前を向いて歩いているわけだから、もうそれだけで全てが達成されているようにも思われた。しかしもちろん、それは「全て」ではなかった。私は今、通勤中の身かも知れないからだ。

 にもかかわらず、私はそろそろ家に帰ろうと思い始めていた。その気分は、雨が幾分小降りになってきたことと何か関係があるかも知れなかった。一方で、そんな思考は今の私には心底どうでもよかった。

 突然、私は螺旋階段の構造を頭に思い描いた。その階段は上へ上へと続いていたが、しかし見方によっては下へ下へと続いているようにも思われた。いずれにせよ、天もなければ地も果てない階段のアイディアが何故今になって急に浮かんだものか、私には分かるようでよく分からなかった。───とにかく、私は来た道を戻ることにした。

 だが、蝶のように軽いその決意は全くの無駄だった。帰り道は空から地に至るまで、全てが闇に覆われていたからである。厳密に言うなら、その方向には既に道はなく、あるのはただ闇、闇、闇だけだった。

 私は少なからず驚いた。けれども、さっきの暴れが叫んで走り去っていったほどには驚かなかった(ところで、あれは果たして驚きだったのだろうか? 今考えてみるとよく分からない)。私はなんとなく、グレゴリー翁の髭面を思い出していた。唇の上で天に向かってくるりと曲がった彼の髭は、こういう時には何の役にも立つまいと思った。それから、電車の中で出会った少女の行く末を思い出した。突然砂のように一瞬で消えたあの最期のワンシーンが、再び目の中のシアターで再現された。

 ふと肩が凝ったような気がしたから、私は目を閉じながら首を二、三回ほど回してみた。それから再び目を開けると、私はいつの間にか本屋「トゥッティブックス」の店先にいた。相変わらず入り口は狭かったが、もはや通勤のことなどどうでもよくなっていた私は、迷わず足を踏み入れた。なんとそこは、私の部屋だった。備え付けの安楽椅子には、あの八百屋の親父がゆっくりと煙草の煙をくゆらせながら座っていた。

「おやおや、こんな時間にスーツ姿でご帰宅ですかい。珍しいお人だねえ」

「失礼ですが、今何時ですか」

 と私は尋ねたが、彼は

「さあ、知らないねえ」

 と言った。

 親父の手首には、私には似合わないだろうと思われる派手な腕時計が光っていた。

 すると、つい先日二十一世紀の始まりを告げたばかりの柱時計が、今は朝の十時を打った。私はこれから出社しなければならないはずである。確かそうだったはずであるが、実はあまりよく分からない。

 とにかく私は、電車に乗ることにした。私がそのことについて何も言わないうちに、八百屋の親父が

「いってらっしゃい」

 と言った。私は無言のまま玄関の扉を探すと、それはいつも通りの場所───親父が座っている椅子から大股で三歩ほど右───にあった。扉に向かおうとして一歩踏み出した頃、私は自分から見て左側にあるテーブルの上に、バッハの『マタイ受難曲』のスコアが置いてあるのを見つけた。こんなものを買った覚えがなかったから、椅子で煙草を燻らせているはずの親父に

「失礼ですが、これはあなたのものですか」

 と尋ねようとしたが、私が顔を上げて見てみると、そこにいたのはあの時の黒い犬だった。そちらへ近づこうとすると、いつの間にか開いていた玄関から犬は逃げるように去っていった。それを見て、私も犬の後を追って走るように外へ出た。

 

 夢を見た。砂漠を延々と歩きながら、私は綿飴の雲をただムシャムシャと食べていた。別にそうあって欲しいと望んだわけではなかったが、砂漠の唯一の旅人たる私を目掛けて空から勝手に降ってくるので、一思いに食べてやったのである。そして、その程い甘さ加減がふと辛味を帯び始めた矢先に目が覚めた。

 つい先日二十一世紀の始まりを告げたばかりの柱時計が、今は朝の十時を打った。私はこれから出社しなければならないはずである。確かそうだったはずであるが、実はあまりよく分からない。分からないのだが、とりあえず私はまず電車に乗ることにした。

 クローゼットを開けて一番手前にあったスーツをさっさと着込んでしまってから、私はいつものように革靴に右の足を入れた。すると、靴底の下に奇妙な膨らみを感じた。

 確認してみると、果たしてそこにあったのは───磨り減りながらも緑色に美しく輝く、まるで宝石のような何かだった。

 私は、大いに満足した。

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饗宴 もざどみれーる @moz_admirer

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