第2話

 ラックボウル駅で降りたのは、どうやら私だけのようだった。折しく、雨は随分と強くなっていた。傘を持たずに家を出たことを少しだけ後悔したが、それでも人殺しの後悔よりは遥かにましだと思った。

 大した勤め人かも知れない私は、早速勤務先へ出向かねばならない。しかし差し当たり、私にはそこへ辿り着くための何の手かがりもなかった。真っ先に浮かんだのは星を眺めて方角を確認することだったが、あいにく今は正午を少しばかり過ぎた頃で、夜空など望むべくもなかった。

 乳白色のような春先の日射しを思い描きながら、強い雨の中を当てずっぽうに走ってみた。短く刈った髪に雨粒がまとわりついてなかなか気持ち良かったが、得体の知れない通行人たちは怪訝そうに私を見ていた。中には立ち止まって私を観察するような者までいた。歩いている人たちにはぶつからないように努めていたつもりだったけれども、ひょっとしたら誰かの肩くらいには当たってしまったのかも知れない。しかし、私には誰にぶつかったのかを知る術がなかったから、誰にも謝ることができなかった。私はその場に座り込んだ。透明な後悔に覆われたが、その質量はとても軽かった。

 ふと顔を空に向けると、高い煙突のようなものから煙が立ち上っているのが見えた。そういえば昔、ああいう煙が空の雲を作っているのだと、母が自慢気に教えてくれたことがあった。

「よし」 

 と腹を決めて立ち上がり、私はそんな雲の母たる長細い筒を目指して、ゆっくりと歩き始めた。

 私を観察していたあの人は、いつの間にかいなくなっていた。

 

 道沿いの煙草屋の軒先にある大きな時計によれば、私はあれからもう二十分ほど歩いた計算になる。しかし、煙突は相変わらずぼんやりと遠くに見えるだけだった。むしろ、その姿はさっきよりも薄くなっているような気さえする。すると、電車に乗る前に出会ったグレゴリー翁の、

「せっかちな世の中じゃのお」

 というあの一言が、何故だか急に思い返された。無駄に輪郭の太い言葉だと思った。

 そんな風に考えて立ち止まっていると、道の向こうから若い女が黒い犬を痛めつけながらやって来た。顔に似合わない猥雑な言葉をわめきながら、犬を蹴ったり殴ったりしていた。女のスカートのスリットからは、さそりのような刺青タトゥーがこちらを覗いている。果たして女が自らの毒性を誇示したものかどうか、それは全く分からなかった。

 その女のもう一つの特徴は、大きなブルーの瞳だった。それらはサファイアのようにおおらかな美しさを放っていたが、涙を知らなさそうな振る舞いの持ち主には不釣り合いだ、と私は思った。

 すると今度は、グレゴリー翁に会う前に気になったエメラルドの概念が再び頭をもたげてきた。私は濡れたアスファルトの上に尻をつけてもう一度自分の足下を確認してみたが、やはりそこにエメラルドはなかった。

 先ほどの黒い犬が、座り込んだ私の顔をペロリと舐めた。それを見た女は、何かを叫びながら走り去っていった。女を見届けた犬は、私の太もも辺りに寄り添って目をつむった。外見上の傷を一つとして負っていなかったのが少し不思議だったが、どうやら息や意識は正常に機能しているらしい。私は犬に別れを告げて、再び煙突の方へと歩を進めた。

 ふと気になって後ろを振り返った時には、既に犬の姿はなかった。私は内心「おや」と思った。でもそれだけだった。きっとなんでもなかったのだろう。

 道の右手に本屋が見えてきた。軒先には「トゥッティブックス どなた様でも歓迎します」と書かれた大きな看板が掲げられていたが、入り口は極端に狭かった。体をはすにしてようやく入れるかといった塩梅あんばいである。しかしそれでも、そこのガラス戸は既に目一杯に開かれているらしかった。すりガラスなので店内の様子を伺うことはできない。ひどく残念な心持ちがしたと同時に、私は大いに満足だった。確か私は、勤務先へと急がねばならないはずだったからである。本屋で趣味を漁っている暇は、おそらく私にはないのだろう。

 それからしばらく歩いていると、見知らぬ八百屋の親父が声を掛けてきた。

「へえ、こんな時間にスーツ姿でお出かけですかい。珍しいお人だねえ」

「失礼ですが、今何時ですか」

「さあ、知らないねえ」

「分かりました。どうもありがとう」

 そう言って、私はその場を後にした。

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