饗宴

もざどみれーる

第1話

 夢を見た。砂漠を延々と歩きながら、私は綿飴の雲をただムシャムシャと食べていた。別にそうあって欲しいと望んだわけではなかったが、砂漠の唯一の旅人たる私を目掛けて空から勝手に降ってくるので、一思いに食べてやったのである。そして、その程い甘さ加減がふと辛味を帯び始めた矢先に目が覚めた。

 つい先日二十一世紀の始まりを告げたばかりの柱時計が、今は朝の十時を打った。私はこれから出社しなければならないはずである。確かそうだったはずであるが、実はあまりよく分からない。分からないのだが、とりあえず私はまず電車に乗ることにした。

 クローゼットを開けて一番手前にあったスーツをさっさと着込んで家を出た。駅に向かう途中で腕時計を忘れてきたことに思い至ったけれども、果たしてあのような派手な腕時計が私のものであるのかは疑わしかったから、置いてきたのはむしろ好都合だった。

 靴底にエメラルドが貼り付けてあるような気がしたので、私は地面に尻をつけた格好で足下をチェックしてみた。しかし何もなかった。あるいは、布だか樹脂だかよく分からないものが靴底という存在を成しているだけだった。私は大いに満足し、その場から立ち上がって、引き続き駅を目指した。

 途中で友人の父のグレゴリー翁に会った。

「せっかちな世の中じゃのお」

 と言っているように聞こえたが、意味が分からなかったから、

「ええ、仰る通りです」

 とだけ応えておいた。今にして思えば少々でき過ぎな振る舞いだったような気がする。いずれにせよ、翁の相変わらずの髭面ひげづらに、私は大変満足した。


 最寄りのセント・ジェームズ駅に着いた。

 駅という場所は苦味の多い空間だから、あまり好きではない。改札口に立つ駅員の目は、いつも気怠けだるい鋭さを身に付けていて恐ろしい。更に夜になると、駅全体に電灯特有の明るさが一段と加わって私を辟易とさせる。───夢は夜に見るべきものだとばかり思っている私が、きっと時代遅れなんだろう。

 そんなことを慎ましく考えながら、私はラックボウル駅への切符を一枚買った。そこには私が勤めている会社───或いは勤務先のような虹色の何か───があったような気がしたからだった。

 私は勤労者なのだろうか?

 分からない。

 とにかく私は、ラックボウルまで電車に揺られることを選んだ。

 ラックボウルに着くまでには、まだかなりの時間があるはずだ。家を出たのが十時半頃だったから、おそらく到着するのは昼過ぎになるだろう。私は鞄の中からバッハの『マタイ受難曲』のスコアを取り出して、ここぞとばかりに譜読みを始めた。

 ところで、私の鞄の中にこのスコアを入れておいてくれたのは何者なのだろう? 私は独身であり、両親とは離れて暮らしている。私が入れたのでないとすると、一体誰にそんな芸当が可能だったというのか?

 ひょっとしたら、神かも知れない。

 なるほど、それなら大いに感謝すべきところではあるけれども、あいにく私にはどう感謝の意を伝えたらよいのか分からなかったから、そのまま当座をやり過ごした。十字を切ろうともしたが、よくよく考えてみたら私は無宗教家だったからそれもやめにした。

 列車はティモシー駅でたくさんの乗客を吐いた。すると私は突然、自分の向かいの座席に一人の少女の姿を認めた。今まで気付かなかったのは、きっとバッハのせいに違いなかった。そうでなければ、神のせいだった。私は篤信家なのかも知れない。

「あなたは、なにを、よんでいますか」

 私のバッハを指差しながら、栗色の巻毛の少女はぎこちなくそう言った。

「あなたを」

 と私は答えた。少女は砂のように崩れて消えた。私はまたしても満足した。

 急に雲行きが怪しくなってきたかと思うと、比較的静かな車内には屋根を打つ雨音がにわかに響き始めた。しかしそれでも、車窓に切り取られた景色は普段とあまり変わらないように見えた。もっとも、普段というのが何を意味するのか、私にはよく分からないのだけれども。

 とにかく、電車は時折うねりながらも、ラックボウルを目指して再び一途に進み始めた。「私は一体、これからどこへ行こうとしているのだろう?」という疑問がふと頭にしゃしゃり出てきたりもしたが、残念ながらそれはいくら考えても分かりそうになかった。考えれば考えただけ、私はバッハからどんどん遠ざかっていった。それは私をすこぶる不満にした。そしてその不満は、私の視線を再度車窓へと仕向けた。しかし、何故窓の外の景色をまた見ようというつもりになったのかは、自分にもさっぱり分からなかった。

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