ハロー・バイバイ
絹谷田貫
ハロー・バイバイ
僕には、僕と顔がそっくりの女の子の友達がいた。
あんまりにも似ているものだから、僕の後輩や先輩は僕が女装をして学校に来ているんじゃないかと疑ったし、同級生達はこの世には顔の同じ人間が必ず三人いるという話を心のそこから信じるようになったし、僕は両親に生き別れの双子がいないか何度も確認することになった。そして結局、これがとてつもない、目のくらむような偶然だということを、認めるのだった。
何度かテレビの取材が来たり、父の隠し子疑惑が家庭を騒がしたりもしたけれど、それは別に、今は重要な話じゃないので、置いておく。
近衛という苗字のその友達は僕と高校で知りあったのだけど、いま大学に通っている僕と違って、学校にも行かず、定職にも付かず、何をしているのかわからないまま毎日を暮らして、過ごしている。
多分近衛にも、何をしているのかはわからないんだと思う。
近衛は僕の大学のある街の、運河の近くに家を借りて暮らしていた。
運河といっても、外国の映画に出てくるような、綺麗で、恋人達が似合うようなものじゃない。幅と水量と、大水のときの素直さだけがとりえの、酷く濁っていて、暑い日には近寄りたくもないようなにおいのする、そういう河だ。
近衛の家のすぐ前には丁度運河の水流の濁って固まるところがあって、毎日違うゴミが、あるいは昨日と同じゴミが引っかかって、どこかの配管から出てきた洗剤の泡と一緒にくるくるくるくると回っていた。
夏は臭くて、冬も臭くて、とてもじゃないが人の暮らすところじゃない、そんな場所だ。
そもそも近衛の住んでいた部屋は、人の暮らすために作られたところじゃなかった。貸し倉庫だとか、なにかの事務所だとか、そういう風に使うべき仕切りの無い大きなプレハブの一室で、申し訳程度の洗面台が付いている、そういう空間に、ベッドとカセットコンロと拾い物の冷蔵庫を置いて、近衛は暮らしていた。家賃がいくらかはわからない。近衛がそれを払っていたかも怪しかった。この部屋で近衛が鍵を使っているところを、僕は見たことが無い。
そんなところに、夜の始まる頃に帰って、なにがしかを行うのだった。近衛は。
僕はそんな彼女を送り迎えする。
例えば、冬のある日の話をしよう。
僕が大学を終わらせて、スクーターを三十分ほど走らせて運河を越える。少しずつ空が赤くなって、昼間が終わっていく。橋を渡りきると大きな道路があって、そこの信号の変わるのの遅いのに僕はいらいらする。ようやっとわたって、まだまだ河から直角に、まっすぐ進んでいく。
倉庫が立ち並ぶ一体を抜けると、この辺で二番目に大きい駅の近くを通る。高架が見えてくる辺りから、倉庫ではなく、ビルが立ち並ぶようになる。不動産屋や、歯医者なんかの看板のかかったビルがいくつもいくつも道路の横に生えていて、居酒屋の看板なんかが明かりをともすようになる。
昼間に来ると銀行や服屋やコンビニが目に付くのに、この時間になると、居酒屋の自己主張が他を塗りつぶして、駅前全部が、なんともなしに空気を変える。
その中でもコンビニだけは変わらないのはたいしたものだと思う。
そんな駅前の街の、クリーニング店と英会話教室と、ダイビングスクールの入った小さなビルの手前で、僕はスクーターを右に曲げる。
ボンベを背負った海豚の描かれた看板の横を通って、路地に入っていく。
ビル三つ分の距離を、右に二回と左に二回まがって路地を抜けると、公園がある。
多分、公園であってると思うけれど、自信は無い。砂場とベンチと自動販売機があって、隅っこにさび色になった象の遊具もある。ただ、子供がここで遊んでいるところを僕はみたことが無い。子供のいない場所を公園と呼んで良いのか、僕は未だに決めかねている。
そこに近衛がいる。
僕は何か近衛のためのものを持っていて――例えば夏は冷たい缶コーヒーとかを――砂場でしゃがみこんで砂山を作っている近衛に、近づいていく。
近衛は延々、同じ砂山を作っていた。
作っては壊し、というのでもない。削ったり固めたりを繰り返して、延々と、延々と、砂山を作っている。毎日違う姿になる砂山なのだが、僕にはさっぱり、違いがわからない。
「近衛」
と、僕が声をかけると、近衛が振り返る。
手に付いた砂を払って膝も同じようにして。
僕の持っている、近衛のために買ってきた何かを受け取って。
僕の目を見て。
「ハロー」
と、言う。
もう、空の端っこは夜になりつつあるような時間に、ハロー、という。
その日の昼の、最後の言葉なんだと、僕は信じている。
近衛が最後を口にして、その日、ハローと言える時間は終わる。
夜が始まる。
これは冬の日のたとえ話だが、別に、季節はどうでも良いのだ。
僕の夜の始まりはいつでも近衛の言葉からだった。
僕は毎日、そんな彼女の送り迎えをしていた。
夜を迎えにいっていた。
***
「ハロー」と近衛はよく言った。平坦に、自然に。なんだか毎日聞いていると、それが英語だと思えなくなるくらい、近衛の日本語の中に馴染んでいた。――そのせいで、僕はカタカナでハローと書いてあるのを見るとなんだか違和感を覚える。近衛の発音は、ひらがなと漢字の文章の中に溶け込んでいたように思えるから。
とにかく、近衛はちゃんと挨拶をする若者だったのだ。愛想がよかった。すぐ人と仲良くなった。いっしょに歩いていて恥ずかしいくらい、誰にも彼にも声をかけた。
小銭を落としたおじいさんや、コンビニの店員さんや、散歩中の犬や、駅前で酔いつぶれている若者なんかに、やたらめったら話しかけて、そうでもしていないと落ち着かなかったんだろうか、いつでも誰かと喋ろうとした。
近衛は話題が途切れるのを恐れたし、談笑するのが好きだった。
何がそんなに怖かったんだろう。
僕は近衛と違って、沈黙が気にならないタチだったから、さっぱりわからず首をかしげた。
ただ、近衛が愛想良くすると、僕を近衛と勘違いしたひとが、久しぶり、とか、この間はどうも、とか良いながら近寄ってくるから、僕も自然と話すことになる。
おかげで僕は、町中に知り合いが出来た。
そういうと、何でか近衛のほうが、うれしそうにするのだった。
***
冬の話の、続き。
その日、いつもの通りに近衛はハローといって、僕はスクーターの後ろに近衛を乗せて、夜の始まった道を走っていた。
僕の持ってきた、温かいコーンポタージュを近衛は特に気に入って、スクーターに乗っている間も、片手を僕の肩に、もう片手を、ポケットの中のコーンポタージュに当てて、なんだかとてもうれしそうにしていた。――そう、その日、近衛は前にポケットの付いているパーカーを着ていたんだった。左右に口が付いていて、中でつながっている奴だ――
もう街から出て、運河の端の、街灯もまばらな道を走っている。スクーターの二人乗りをとがめられるような場所ではなかった。
僕は背中に近衛を乗せたまま、道を走る。
明日までの課題のこととかを、考えていたんだと思う。
「今日は寒かったね」
と、近衛が言った。
「別に今日だけじゃないだろうし、まだ今日は終わってないよ」
とか、そういう面白みの無いことを、僕は答えた。
そうだね、と近衛がつぶやいて、僕の肩に置いていた手を入れ替える。
僕たちは近衛の部屋で、チェスをやるつもりだった。
ボードもコマも、近衛と一緒に拾ってきたものだった。運河の端、いつも通る道にゴミの集積所があって、いろいろとまずいんじゃないかな、という乱雑さで有象無象が捨ててある。
その中から、近衛が見つけ出したものだった。
スクーターで横を通り過ぎるときに、何か光った、と言い張るので、わざわざ止めて探したのだ。
金属製の、つやつやした質感のもので、ひょっとすると高いものなのかもしれなかったが、折りたたみ式のボードを開けてみると、コマがいくつも足りなかった。
いまでは近衛の部屋に放り込まれていて、足りないコマをペットボトルのふたで埋め合わせられながら、僕らのおもちゃになっている。ポーンやナイトの合間合間にコカコーラのキャップが入り乱れているさまはどことなくユーモラスで、そういうチェスセットを使っているというだけで、僕たちは楽しく遊べるのだった。ダイエットコカコーラのふたが黒いのは、きっとこのためだったんだ、と近衛が言い張って、それを聞き流しながら、僕が彼女にチェックをかける。近衛が悲鳴を上げる。そのわりに、絶妙に切り返してみせる。
近衛は遊んでいる間ずっと喋っているし考えないで動かしているようなのに、長考気味の僕との勝敗は今のところ五分五分だった。意外とこういうゲームに慣れているのかもしれない。
その日もそういうことをしよう、と思いながら、近衛の部屋に向かった。
件の、チェスセットを拾ったゴミの山を通って、まだまだ運河の端をなぞっていく。
だんだんと道が狭く、雑な舗装になっていき、街灯の間隔があき始める。
近衛がもう一度、肩の手を入れ替える。
早く飲まないと冷めるよ、と、僕は近衛に言う。
だから急いで帰ろうよ。と近衛は言う。
論理的だ。とうなずいて、僕はスクーターのスピードを上げる。
ぼんやりと、今日は近衛の家に泊まれるのかな、と考えた。
泊まることもあるし、泊まらないこともある。
泊まっても、おしゃべりをしたり、トランプをしたり、チェスをしたりするだけで、年頃の男女らしいことになったことは無い。
微笑ましいくらいだ。
その日も、結局泊まることになった。
近衛の部屋の小さな冷蔵庫から、買い置きしておいた冷凍食品のピラフを出してきて、手っ取り早く平らげた。
三回くらいチェスをして、それからトランプをして、近衛はポーカーが強いな、と確認してから、寝た。
近衛の部屋にはベットが一つしかないので、僕はぺしゃんこのマットレスとラグをもちこんで、一人で寝ている。
近衛と一緒に寝たことは無い。
本当に、一度も。
課題のことを考えていたのに、結局やらずに眠ってしまうことを、僕はすこし後悔していた。
***
「言われたとおり、持ってきたけど」
と、僕は小学校の卒業アルバムを近衛に見せた。
高校生の時のことだ。
入学して最初に分けられたクラスの中に、双子と見まごうそっくりさんを見つけた僕は、そのそっくりさんがしたのと同じように口をポカンと開けて固まってしまった。もちろん、周りの好奇心旺盛な少年少女が黙っているはずも泣く、僕たちは質問攻めに会うのだが、生憎な事ながら、一番詳細を知りたいのは僕たちなのだ。たいした話題も提供できず、まごまごしているうちにHRが始まって、僕の高校生活はスタートをきった。その一週間後、そっくりさんから昔からそっくりさんだったのか確かめてみよう、といわれて、押入れからアルバムを引っ張り出してきた。
同じく用意してきたらしい彼女と、顔つきつけて、確認する。
「似てないね」
「うん。髪型のせいじゃないよな、コレ」
「というか、髪形は似てるほうだと思うよ。どっちもなんか散切りの短髪だし」
「近衛も、お母さん床屋?」
「んん、自分で」
なんて。
僕たちは互いのアルバムを交換して、家族に見せ合うことにした。
結果。まったく関係は無い、と互いの家族は言い張り。
あと、近衛は顔に大きなガーゼをあてて、学校にやってきた。
転んだんだそうだ。
少なくとも、ドジさ加減では今現在でも僕たちは似ていない。と、僕は結論した。
***
さっきも言ったが、僕は近衛がハロー、と言うと同時に夜がやって来るのだと信じている。最初にそれを感じたのは一年生の二学期のころだ。近衛は昔から学校に遅れてくることが多くて、一年生のころははせいぜい昼休みには来ていたものが、二年生に進級してからは丸一日来ないようなこともあった。
その日も、近衛は学校に来なかった。
僕と近衛は仲が良かったが、数値にしてみるとそれほど強度の高い友情ではなかったと思う。近衛は愛想がよくて、誰とでも仲良くなったし、誰かしら中の良い奴と一緒に居られたが、僕のほうはそうでもない。学校で遊ぶ友達は居ても、学校が終わってから遊ぶ友達は、僕にはほとんど居なかった。自分から誘ったことは、記憶がもう曖昧だからなんともいえないけど、多分一度もなかったんじゃないだろうか。たまにカラオケとか、ファミレスとか、バスケ部の大会の応援とか、そういうイベントに呼ばれて、僕はそこそこの出席率で顔をだした。僕にしてみれば、そういうイベントは教室の延長に過ぎなくて、友人というものは教室の中に生息しているものだった。
人間関係を空間で区切る、と近衛は称した。
「君は」「特定の場所の中で生活している間」「その場所にあったステータスを維持するんだね」「だからそこから出たとき、そのステータスに依存する現象は」「君にとって持続しない」
そんなことを途切れ途切れに近衛は言った。
仰々しい割りに、つまりは僕が友達甲斐の無い奴だという、それだけの話だ。
そしてその仰々しい話を、僕は近衛に当てはめて考えようとした。
近衛はなにで人間関係を区切るんだろう。
そんなことを考えながら、僕が友達と遊ばない放課後、まっすぐ高校から家に帰っているとき、道の向こうから近衛がやってきた。
「ハロー」
と、近衛は手を挙げて、「ちょっと遅刻しちゃった」といって、高校に続く道を、僕とは逆に歩いていく。
なんともまぁ、と、僕はあきれた。
次の日も近衛は学校に来なかった。
それからずっと、近衛は学校に来なかった。
***
近衛が住んでいるところはとてもじゃないけど人間の住む場所じゃない。なのに、近衛以外にもここに住んでいる人間は居るようだった。
近衛が住んでいるプレハブと全く同じ型のものが、運河沿いにはずらりと並んでいる。
その多くにはトラックがやってきて荷物を運び込んだり、スーツを着て革鞄を持ったサラリーマンが汗を拭きながら出入りしていたりするのだけど、その合間合間にぽつぽつと、トラックも来ない、サラリーマンも来ないプレハブが、確かに存在しているのであった。
まず、オカマがいる。
近衛のプレハブのすぐ隣を棲家にする、金髪で露出度の高い服を着た、長身のオカマである。初対面でニューハーフの方と言ったら「オカマと呼べ」と怒られた。変なオカマだ。盛川というらしい。下の名前は知らないし、本人も「親に貰った名前のほうは忘れるくらい使っていない」らしい。
夜の仕事をしているらしいが、詳しくは知らない。ただ、隣に住む縁なのか近衛のことをやけに可愛がっていて、「お姉さん」と呼ばせて嬉しがっていた。ただ、オカマの盛川さんはなかなかの歳だから、お姉さんというよりかは若いお母さん、といった風情で、プレハブの住人には認知されていた。お父さんの印象を誰も抱かなかった辺り、盛川さんはしっかりしたオカマなんだろう。僕もその辺は尊敬している。
あの人は女性だ。
あとはホストとか浪人生とかパチプロとか竿竹屋とかが住んでいた。人外魔境である。「漫画にしたら流行るかもね」と近衛は言っていたが、いくら漫画でもあんまりだ。
たしかに、連中で集まって得体の知れない肉を丸焼きにしたり、延々運河沿いを山菜を探して歩いたり、ゴミ捨て場で宝探しをするのは、すこしフィクションの匂いのする、冒険譚と言っても良かったかもしれない。
ただし、漫画にするには切実過ぎた。
得体の知れない肉を焼くのは、得体の知れない肉しか手に入らなかったからで、山菜を探して歩くのは浪人生の食費がいよいよなくなったからで、ゴミ捨て場で宝探しをするのは、寒波の到来で例年以上に冷え込んだ冬、ついにパチプロが部屋で凍死したからだ。
パチプロは死んでいた。
僕が近衛にコーンポタージュを買って、チェスとポーカーをして遊んでいた晩。
近衛が「ハロー」と言って始まった夜に、寒さに巻かれて、彼は死んだ。
十七個左に進んだプレハブで。
翌朝、こわばった顔のオカマやホストが、なんでもいい、なんでも、少しでも、暖かいものを、と、声をかけてプレハブの住人達がゴミ捨て場に並んで歩いていく。
言葉すくなに進んでいく列は、まるで葬列のようで。
僕はそれを横目にスクーターにのって、その日の講義に出席しにいった。
彼らは貧乏だった。
それぞれのやんどころ無い事情があるにせよ、とにかく、貧乏で。
僕はそうならないためにも、その日、済ませていない課題のことを心配しながら、大学へ向かった。
その日、近衛はジューサーを拾ってきていた。
僕たちには大きめの毛布と、電気ストーブがあったから、冬に凍えることは無かった。
***
高校の帰り道、「ちょっと遅刻しちゃった」近衛が、ハローと僕に言っていった日の次からのこと。
近衛が学校に来なくなってからというもの、僕はなんともなしに時間の感覚を失っていた。
まずは曜日が曖昧になり。
次に朝昼の境を失い。
夜が来たことに気付かなくなった。
わからなくなったというのは不正確かもしれない。
なんと言えば良いのだろうか。迷子になりかけのような。
ふと自分の立っている場所がわからなくなる。そんな具合に。
僕は時間とはぐれてしまったのかもしれない。
しかして決して、僕が困ったりうろたえたりしたわけではない。僕が気付かなくとも夜は来るし、見失っていても朝が来る。生活は時計のいうとおりにしていれば問題なかったし、実質、僕は僕が時間を忘れているということを忘れながら生活していた。
最初こそ約束に遅刻したりすっぽかしてしまったりしたものの、せいぜい、腹時計が不調といった、その程度の問題だった。
問題が他にあったとすれば、いろんなことがめたくたに混ざってしまうことくらいだろうか。
昨日やったことと今日やったことの境目が、少しずつわからなくなっていく。
しかし、まぁ。
それも大して、困ることではなかった。
混ざったところで参ってしまうような、面白いことは僕の高校生活には無かった。
だからかもしれない。
近衛が居なくなってから、僕の高校生活はつまらなくて、全部どうでもいいことに、なってしまった。
だから、時間は僕をおいていってしまったのかもしれない。
***
近衛に「ハロー」と言われなくなって、僕の日常はあまりに代わり映えせず、明日も今日も昨日もまるで変わりのないあっけないものになって、それについては楽しくも無いのでここには書かない。じゃあそれ以前が面白い日々だったかというとそうでもなく、日本の適当な高校を定点カメラで観測すればかなり忠実に再現できそうな、あたりまえで普通の生活を送っていた。近衛が居なくなると、なおさら面白くなくなる、という、それだけ。なんだかかわいそうぶった、かわいくない言い方になるけれど。
僕にとって近衛というのは、そのくらい面白い奴だった。だというのに、勝手に居なくなって、まったくとんでもない奴だ。
友人は大事にするべきだと思う。
そんなことを嘯きながら、かわいそうぶってかわいくない生き方を貫き通した僕だった。
およそ朝起きて、学校に通い、授業を真面目に聞いたり居眠りしたり友人とバカ話をしたり、そういうことを一通り満喫した僕が校門をくぐってすぐにそのことを忘れ、ああ、今は何日の何時なんだろうかと校舎の時計を振り返ってみせる。そして家に帰ってあたらと早い我が家の夕飯をたいらげて、二時間ほどなにかがしかに時間を使って、そして次の日の朝まで死んだように眠る。睡眠時間は十二時間に及ぶ僕の生活スタイルに父母は何かの病気ではないかと懸念を抱いていたが、この性質は小学校のころから延々続くものであって、何度も通った医者様方に体質の域を出ないと太鼓判を押されているものだから、最早どうしようもないと本人を含めてとっくに慣れきってしまっている。
正直なことを言う。時間が僕にかまってくれなくなった理由は、きっとこの体質にあるのだろう。食後の二時間に「日が沈んでしまったなぁ」と一度考えていたはずなのに、すでに視界は鳥瞰になって今日も夢幻の十二時間が始まったことを僕に告げる。僕にとって起きている十二時間と寝ている十二時間は同じ量なだけあって等価値だった。
僕はたくさんの楽しい夢を見ていたはずだが、もう何にも覚えていない。朝起きるて歯を磨いているうちに、洗面台に楽しかった何かは流れていって、またかわいそうぶった生活が始まる。それは当たり前のことで、嘆いたり悔やんだりする気持ちは見当たらなかった。夢の中では昔見た夢を思い出しているような気もするが、それを確認する術も無い。ひょっとすると僕は一日を半分こにして、眠ってからの半分を別の人生に使っているのかもしれない、なんて、そんな空想を良くやった。半分こにしたほうの人生で、僕は魔王を倒す勇者様かもしれないし、世界の命運を握る科学者かもしれないし、キッチンの中では負け知らずのダンディなコックかもしれない。それは楽しい空想で、結局空想だった。
断言しておくけれど、半分こした人生を歩んでいたのが近衛で、彼女はパラレルワールドから来た僕だったとか、そんなステキなことはない。むしろ近衛はあまり眠らない人間だった。
あまり眠らないまま、僕のよく知る残り半分の人生に登場する近衛は、結局のところ他人であって、僕のこの体質に深く関わる物語じみたウソを含んでいてはくれなかった。
それはほかの事にも言えることで、学校のことも家のことも、じつにあたりまえで、ありのままのことで、そして僕は――だからからかもしれないけれど――朝見た夢を洗面台に置き去りにするように、鉛筆の一本も忘れたことのない教室の自分の机に、そのあたりまえのことを忘れ物して返っていくのが当たり前だった。
近衛がステータスだとか依存だとか言っていたけど、それは勘違いも甚だしい。
僕はただ忘れてしまうだけだった。
昨日の夢のように。
それだって、当たり前のことだ。だってこっちはあっちの半分こなのだ。
夢を忘れるのに、現実を忘れないなんてことをみんなが無邪気に信じて、そして実行しているということを、僕は未だに信じられない。
***
自分語りなんてつまらないし、僕もつまらない。なによりこれ以上話題を探そうとしても、僕はやっぱり忘れてしまっている。周りの大人に言わせれば、学生時代のことはいつだって誰かに喋りたいが、一秒だって思い出したくないらしい。僕には良くわからない。
本当はわからないことは無いのだろう。僕だって全部が全部忘れきっているというわけじゃない。ほんとにそうならそれは深刻な頭の病気だ。
起きてもぼんやり覚えている夢があるように、夢の中で他の夢のことを覚えていた気がするように、僕だってちゃんといろんなことを覚えている。
だから今、すこしがんばって昔のことを思い出せば、思い出したくなる気持ちがわかるにちがいない。
そんなことをしたくないから、僕はわからない、ということにしている。
例えば近衛を相手にいやらしいことをする空想を繰り広げたことなんて、心底思い出したくないことだった。
僕だって股座に下品なものをぶら下げた生き物だから、そういうことを考えるのだ。
しかし近衛と一緒に暮らす未来だとか、あるいはもっと直接的にキスをしたりセックスをしたりすることを想像してみたとしても、何故だろうか、上手くいったためしは無かった。僕がどれほど言い寄って、時に乱暴な手管をつかってみても、近衛はいつの間にかさっさと服を着てしまっていて、一体それから何をしようと、気がつけば二人でよくわからない遊びをすることになる。
すごろくとじゃんけんの合いの子のようななにかだとか、けんぱともあやとりともつかないなにかだとか、三次元上では再現できない、言葉遊びの上でしか存在できない、そんなものを二人で遊ぶ。
起きているときの空想だけでなくて、そんな夢を見るときもある。
知らない町で、知らないどこかで、僕と近衛が遊ぶ夢。
見る間隔も一定しない、脈略も何も無いそんな夢をみて、いくつもいくつも忘れて、ときたま顔を洗ってこそぎ落とす前に、とっておこうかな、と考えて置いておく。多分僕の忘れてしまったものも多いんだろうけれど、それにしても、僕はこの種類の夢についてよく覚えている。
僕と近衛はいろんなことをして遊んだ。
いっそ起きていて遊んだ時間より多いくらいに遊んだ。
そんな夢をとっておいた日の夜、僕は近衛といやらしいことがしたくなって、眠る前に色々と試みるのだけど、近衛は涼しげに笑って、僕の知らなかった遊びを持ち出して、僕の情念をかわしてくる。
ひとしきり遊んで、僕は諦めて、近衛をどこかのグラビアアイドルや、AV女優や、別のクラスのかわいい女子に変える。
彼女達はとても素直に自分を開く。
ああいやだ、やめよう、この話は。
なるほど、語ってみると、一瞬でも思い出したくないものだ。
夢の話にしよう。
僕と近衛が再開した日に見た夢の話。
近衛は珍しく、僕の知らない遊びじゃなくて、踊ろう、と持ちかけたのだ。
僕は近衛の手をとって、近衛は僕の腰に手を回した。
僕と近衛は知らない町で一晩中踊った。
その日の夕方に、僕は近衛と再会した。
僕は体質のおかげで勉強に苦労したが、自分でもなかなか関心する位に努力して、首尾よくそれらしい大学にもぐりこんでいた。名門と言い張るのはすこし難しいが、たぶん同窓会をやることになって、周りの挙げる名前に気後れすることも無いだろう、その位の、実家から電車で三時間ほどの大学だ。両親は僕の体質のことで心配して、最後まで一人暮らしに反対していたが、僕もいつかはひとりで自分の生活を賄わなくてはならなくなる。体に無茶の利くうちに試してみないことには、今後の展望も決められない。
生活費を使いすぎて腹をすかしたり、単位に気を揉んだり、不慣れな酒で失敗をしたり。
それらしい大学生活をして、忘れていってた。
そんな風な大学生活も、二年目に入って、僕はいろいろなことにようやっと慣れながらもまたぞろ新しいことに手を出していた。初めてのアルバイトに手を出したのもこのころだし、通勤のためにスクーターも買った。ミルク色の、小さいけどよく走るスクーターだ。
僕は生まれて初めて動力の付いた乗り物を手に入れるということにえらくワクワクして、納車の日は朝からそわそわしてしまった。その日はアルバイトを休んで(通勤のために買ったくせに)大学の講義もそこそこに、いつもより二本早い電車に乗って帰った。
思いもしない日に親がおもちゃを買ってくれたときがあった。戦隊物の赤いリーダーが使う剣のおもちゃだ。僕は封を開けるなりそれを振り回し、結局寝るまで手放さなかったそうだ。
その日もそういう風にするつもりだった。
真新しいキーを差し込んで、傷一つ無いスクーターがブルルと鳴いて、さて、とりあえずバイト先までの道を確認してから、山向こうまで探検に行こうかな、なんて、考えていた。
自分の足でこがなくても進む、というのは全くすばらしいもので、それが教習所の借り物じゃなくて、正真正銘僕のものだと思うとなおさらだった。見慣れた街も目新しく――道路を車と一緒に走ると、まるで景色は変わるものだと、僕は初めて知った――落ち着けばまるでつまらない、クリーニング店と英会話教室と、ダイビングスクールの看板も、なんて良いものなんだろう! なんて口の中で呟いていた。
そんなダイビングスクールのそばの信号が黄色く変わるのをみて、僕は丁寧にブレーキをかける。今の僕ならならいけそうだな、とくぐって行ってしまうタイミングだったし、あんなところから速度を落とすと後ろの車に迷惑だろうに、僕は自分の運転技術に心底感心して、ふと、近衛を見つけた。
すこしずつゆっくりになる景色の中で、目をまん丸にして、僕が僕を見ている。
もちろんそんなことは無い。春物のかわいらしい、ピンクのセーターを着た近衛が、こちらを見ているのだ。
もし僕がハーフヘルメットじゃなくて、これいいな、と思っていた格好いいデザインのフルヘルメットをかぶっていたら、このときいったいどうなっていただろう。近衛はきっと気付かないだろうし、僕は近衛に気付いたかわからない。きっと見つけるに違いない、なんて楽観的に、僕はなれない。
もちろん、スクーターにフルヘルなんて不似合いだから(少なくとも僕はそう思うから)、そんなことにはきっとならないんだろうけど。
丁度近衛のまん前で、赤信号は僕を押しとめた。僕はいまだにぽかんと口を開けていて、これで近衛もそうなら初めて出合ったときの繰り返しになるんだろうけど、近衛はとっくに驚愕から立ち直ってうっすらと笑みを浮かべていた。
高校のときは見なかったその笑顔は、僕が昨日の夢の中でみたものと一緒で、今にも、「踊ろうよ」と誘われそうで。
しかし近衛はいつもの通りに、「ハロー」と、言った。
久しぶり、と言われなかった、だからかもしれない。なんだか、近衛と昨日も会ったような気がした。
僕は唐突に、今が何時なのか思い出した。
「送って」
「ヘルメットないよ」
「警察に見つからない道、知ってるから」
じゃあ、いいかな。
空を見上げると僕の向かい側からゆっくりと夜がやってきていた。
近衛が「ハロー」と言うから、夜がくるんだ、と、このときなぜか、信じてしまった。
***
「演劇部、入らない?」
と、高校一年の夏ごろ、近衛に誘われた。
「また、随分遅い話だね」
「頼まれちゃった。夏休みにさ、外でやる演劇のキャストが足りないんだって」
「人手が足りないんじゃ無くてか」
なんて無計画だ。
今いる人間だけで登場人物ぐらい賄えるようにしろよ。
昼休みにおきに入りの菓子パンをかじりながら、僕はあきれた。
「小道具とか、裏方ならいいけどさ。舞台にたつのとかなんかヤだな」
「いいじゃん。せっかくのチャンスなのに」
「ピンチだと思うよ」
つまり近衛にとって演劇で役を貰うのは嬉しいことで、僕にとってはそうでもないということ。
ここも、違う。と、菓子パンを齧って一人で納得する。
「また友達にそういうこと頼まれたの? いい加減にしなよ、なんでもかんでも安請け合いしてさ」
「頼まれるとさ、断れないじゃん」
「いいじゃんか、出来ないことは出来ないっていったら。というか、めんどくさかったらめんどくさいって、断れよ」
「めんどくさくはないわよ」
「――なら、いいけど」
本当だとは、思えなかった。
そりゃ、人に頼られて悪い気がしないことは僕もわかるけど、一学期も終わっていないというのに僕が思わず苦言を呈したくなるほど、近衛は何でもかんでも請合って、それを何とかしようと毎日駆けずっている。
最初こそ遠慮していた周りのみんなも一月もすればすっかりなれきって、近衛が他の用事で埋まっていて自分が頼めないときは不機嫌そうな顔になるくらいだ。
そして不機嫌そうな顔をすると近衛は、またも簡単に、それもやっておくよ、なんて言ってしまう。
どう見たって一杯一杯だし、周りもそれを手助けしようとはしない。好きでやってるんだから良いじゃない、なんてそ知らぬ顔をしている。
自分と同じ顔の奴がそんな風に便利屋扱いされているのを見ているのは、あんまりいい気分じゃなかった。
「なんでさぁ」
と、僕は少し苛立った声を出してしまう。
「なんでそんなキョロキョロしてさ、やることを探そうとするわけ? 落ち着けよ。休み時間にお前が座ってるとこ見たことないよ」
「探してるわけじゃないよ。みんなに頼まれるからさぁ」
嘘だ。
ようやく頼まれごとがなくなると、近衛は落ち着かない顔になって、学校中をうろうろすることを、僕は知っていた。
「なにが怖いの」
近衛の顔を見ないで、僕は聞く。
「なにがそんなに怖いんだよ」
「――別に、なんにも怖くないよ」
僕は。
この時の近衛の顔を見ていない。
無性にいらいらして、じっと菓子パンを見つめていた。
***
結局、僕は演劇部に夏の間だけ助っ人に入ることになった。
近衛によくよく話を聞いてみると「双子の役をさがしてるんだって」ということで、そのとき学校には双子の生徒はいなかった。僕は心底演劇部の無計画にあきれた。
しかし実際彼らにまざって活動してみてよくよく話を聞いてみると、なんともまぁ、近衛に「こんな脚本をしたいんだけどね」と頼んでみたら、あっさりと了承された、という話だった。無計画なのは演劇部でなく、便利屋近衛のほうだったわけだ。
僕がノーと言ったらどうするつもりだったんだろうか。
幸いなことに僕の出番はせいぜい数分の端役で、実際に演技の練習をしたのは三度か四度程度だった。他の時間はなにか小道具でも作って時間を潰していたが、それにしたってやろうとする事をなんでもかんでも近衛が持っていってしまうので僕は活動中の八割がたは缶コーヒー片手にぽけっとすることになった。
帰っても良いんじゃないかな、と考えたのも一度ではない。
立派にお客さまをやっていたわけだが、それでも一応やることはやっていたので文句は言われなかった。演劇部員の方も、僕が半分以上嫌々引っ張られてきたことを知っていたから、余計にかもしれない。とにもかくにも、劇の半分はやってきた。
町の小さな演劇ホールで学校のすぐそばにある老人ホームの入居者がたを集めて上演する、一種のチャリティーのようなものだった。
いまさら脚本を読み込むほどの台詞もないし、舞台の設営などはさっぱり門外漢の僕だったから、ホールの玄関で受付の真似事のようなことをやっていた。
三台のバスがやたらとゆっくり駐車場に入ってきて、びっくりするような量のお年寄りが降りてくる。
向こうから白髪の波が押し寄せてくる速度は余りに遅くて、よぼよぼ、よぼよぼ、と音が聞こえてくるようだった。
玄関から見えるそんな一団を見ていると、隣で一緒に受付をすることになった演劇部が声をかけてくる。
「あのさ」
「うん?」
「部活とか入ってないんだよね」
「一応パソコン研究部に在籍してる」
「一緒じゃん」
「まぁね」
部活参加が義務の僕の学校で、一番活動が適当な、事実上の帰宅部だ。だからさっさと学校から帰りたい奴はみんなここに在籍している。
いつも部室には三人程度の人間しかいないが、多分名簿上では一番部員数が多い部活だ。
「じゃあさ、演劇部、入んない?」
「義理で誘うもんじゃないと思うよ」
「いや、部員数少なくてさ。出来る脚本も限られて、辛いんだよね」
「そこは垣間見えた才能に惚れた、とか言おうよ」
いまだによぼよぼの固まりは駐車場の真ん中当たりをよぼよぼしている。
「まぁあれだよ、部員数少ないだけあって、あんまり頻繁な活動もしないし。多分これ終わったら次の本格的な活動は文化祭だけだからさ。助っ人に来る感覚で良いからさ」
「それなら、あぁ、うん。文化祭前に気が向いたら手伝うよ。別に在籍しなくても良い」
「うん、そっか」
それっきり、演劇部員は僕に何も言わなかった。
多分、世間話の一環だったんだろう。
「近衛さんにも断られちゃったし、こりゃあ来年の勧誘はきばらないとなぁ」
「がんばれよ」
ようやくお年寄りはホールの自動ドアを開けて、あいかわらずのんびりと、僕たちの前にやってくる。
そうか、近衛は断ったのか、と僕は考えた。
もし入っていたら、僕はどうしたのかな、とも、考えた。
***
その後のことで印象深い――僕が珍しく忘れずにいる、という意味で――出来事はいくつかあったが、残念ながらその中に僕と近衛の晴れ舞台の記憶はまるでない。受付もどきの学生に容赦なくよぼよぼよぼよぼと襲い掛かるジジババの大群が余りにも苛烈で、それ以上の記憶が僕には残らなかった。
嗚呼。
しかして、僕と近衛の晴れ舞台なんてものは、せいぜいそのくらいのインパクトしかないイベントだった、というのが正しいのかもしれない。
なんせ数分程度の出番だ。
演劇の素人の僕から見れば、これは削っても良かったんじゃないか、というような役である。(覚えていないから、断言できないけど)もちろん登場している以上脚本家にとっては意味のあるファクターなんだろうし、連劇部員にはどうしてもこの役を登場させたいこだわりがあったのかもしれない。と、言いながらも、少なくとも演劇部員については僕はそう思えない。役がキチンとこなせた、ということよりも、近衛があれやこれやと手伝うことを便利がっていたような感じを受ける。体よく彼女を引っ張り込む口実というか、そう考えると演劇部員たちはとてつもなく計画的だったと言える。
なんにせよ、僕はいらいらする。
近衛がやけに、人におもねろうとする人間なんだと、僕はこのとき理解してしまった。
まったく、僕とは似ても似つかない。
近衛はいつでも仕事を探していて、なにか、言い訳するかのように、誰かの頼みごとに首を突っ込む。
僕はいらいらする。
無性に、過剰に、思春期らしく。
僕はいらいらしていた。
「なぁ」
と、声をかけたのは、舞台が終わったあとだったか、それとも、夏休み明けだったか。
「怖いんなら、せめて怖いって言えよ」
僕はこの時近衛を顔をまっすぐ見ていたはずなのだけれど、それでも、演劇部に誘われたときのように近衛の顔を思い出せない。
忘れたんだと思う。
そういうことにしたい。
***
あの時の僕がいったい何に対して苛ついていたのか、心当たりが無いわけじゃなく、むしろ探せば結構見つかるのだけど、なんとも数が多すぎて逆に見当がつかないのだった。
近衛のおびえたような立ち振る舞いか。
それに便乗する周囲か。
何におびえているか、僕に教えてくれなかったことか。
それとも、何におびえているのか察せなかった自分か。
もしくは近衛のおびえを取り払えなかった自分か。
まったく、こうして言葉に並べてみると、なんとも陳腐でありきたりな思春期の悩みだ。嘆息して見えるけれど、もちろん今の僕も、思い出せばいらいらする。今現在の僕がどう感じるかではなく、あの時の僕の感情が思い出されるのだと、だから僕の現在のメンタリティの成長とは関係なく、いらいらするのだと、僕は自分に言い訳をしている。
そして、スクーターを買ったその日の夕方、再会した近衛は、そういうおびえを無くした様に僕には見えた。
近衛はいろいろなことを僕に聞いた。――学校はあの後どうなったのか――同級生で集まりはあるのか――特に怖かった体育の先生に子供が出来たというのは本当か――子供といえば産休を取った英語教師は戻ってきたのか――僕はあのあとどんな風に暮らしたのか――今いったい何をして暮らしているのか――
そんな話を、今日の朝食の話や、天気や政治や、音楽の話に混ぜてくる。巧妙に、唐突に混ざるので、僕は答えを考えるのに夢中になってしまって、近衛に自分から問いかけることは出来なかった。
沢山聞きたいことがあったはずなのだが。
耳元に近衛が口を寄せて、僕を案内して、僕は運河の端の小道のことを初めて知り、運河がとてつもなく現実的でロマンチックでないことをしり、とても人が住めない場所に近衛が住んでいることを知った。
「文明の最果てって感じだな」
「最果てのそのまた切っ先だよ」
近衛はそういって、スクーターから降りた。
「よっこらしょ」なんて、ババくさいことを言いながら。
すっかり夜は更けていた。
「寄ってく?」
「文明の切っ先って響きには心引かれる」
それに、街灯もまばらな運河沿いの道を、なれない乗り物で走って帰るのはぞっとしなかった。
「いらっしゃい」
と近衛が微笑んで招いて、僕は言葉もなく、部屋に上がった。
酷いものだった。
広さはある――広さしかない。窓がない。空気の通り道がない。換気扇があるが動かすためのスイッチが見当たらない。十二畳ほどのコンクリの床が打ちっぱなしに広がっていて、隅っこにとってつけたようなシンクがある。ドアから向かって右側の壁にパイプベッドがくっつけておいてあって、マットと毛布と枕の色がびっくりするほどちぐはぐで、しかもえらくぼろぼろだから、人目で拾い物かもらい物とわかってしまった。
その枕元にはこれまた色がちぐはぐのカラーボックスが三つ。赤い三段、こげ茶の三段、緑色の二段。同じ三段のカラーボックスの背丈はそろっていなくて、なぜか赤のと緑のの天辺は同じくらいの高さになっていた。ぴっちりそろっていればインテリアと言い張れたろうに、おなじくらい、であって、決して同じではない。
あとは、キャスターのついたプラスチックの衣料箱。
だけ。
この時、近衛の部屋には小さくてうるさくて夜中に鳴く、白だったはずの薄黄色の冷蔵庫も無かったし、五回に三回誤作動する電子レンジも無かった。
フライパンも箸もスプーンもなかった。
なぜかフォークとコンセントの三つ又タップだけは売るほどあったのに。
僕は今度こそ口をあんぐりあけて固まった。
なんてこった。
「なんてこった」
「私も最初はそういう顔だったよ」
それはきっと掛け値なしの真実だ。
僕と近衛の間では特に。
「でもね、凄いんだよ。ここにあるもの全部タダなんだから。盛川さんが探してくれたの。隣のね、お姉さん。人生の達人よ」
「人生って競技はここまでエクストリームじゃねぇよ」
近衛はからからと笑って、「じゃ、遊ぼうか」と持ちかけた。
僕はドキッとする。
この部屋は確かに僕の知らない場所で、そこで近衛が遊ぼうと持ちかけてくる。なにか凄いことが始まる気がした。それに、からから笑う近衛なんて見たことが無かったから。
近衛は、夕方会ってからずっと、とてもとても楽しそうで、僕の見たことの無い笑顔を浮かべていて、そして遊ぼうといったその顔は、心底とびっきりの特別で。
でもね、と近衛は言う。「トランプしかないけど」
近衛はカラーボックスにちょこんと置かれたカードの束を手にとって、コンクリートに直接座った。
拍子抜けしなかったわけじゃない。
だけど、近衛お手製の、欠けたカードを出来うる限り手書きで再現したトランプで遊ぶのは、普通のトランプと違ういろんなお約束があって――裏地の違いで、カードを推測しちゃいけない、とか、あるいは逆に、推測する遊びだとか。
凄いことは何も無かった。
だけど僕は、もう一つハーフヘルメットを買おうと決めた。
***
近衛の部屋に、小さな薄黄色の冷蔵庫が、ああもう、言ってしまおう。黄ばんだボロ冷蔵庫がやってきた、そのくらいのころだった。大学二年生の夏の初めのことになる。僕はすっかり、近衛を迎えに行くことを生活の中に組み込んでいた。
大学の終わり、夕方の始まるころに、僕はあの公園にいって近衛に何かとハーフヘルメットを渡す。近衛は僕の渡した何かを喜んでくれて、あるいはすこし微妙な顔をして、ハーフヘルメットをかぶる。
近衛を文明の切っ先へ送り届けた後、アルバイトのある日は急いで引き返して、ない日はそのまま遊んだり、近衛の部屋に置かれたちゃぶ台で勉強をしてみたり、泊まったり遅くに帰ったり、お酒を飲んだりして、朝を迎える。
随分なれた。そんなころだ。
スクーターの後ろで近衛が言った。
「盛川さんがね」
「となりのお姉さんな」
「うん。会いたいってさ」
「すわ一大事」
僕は色めき立った。
現実というものは往々にして期待を裏切るものであるが、となりのお姉さんだぞ。となりのお姉さん。
となりのお姉さん。
最高の響きだ。
「近衛、今日は少し前で君を下ろして、そのまま帰るかもしれない」
「……?」
「夢を見ることは人に必要なことだと思うんだ、僕は」
「………?…?……?」
ちなみに、僕はこの時盛川さんについて近衛から、名前の書きについてさえも聞いていない。モリカワさんモリカワさんとなりのお姉さんと繰り返される内容に、僕は脳内で森川さんと字を当てていた。
となりのお姉さんの森川さん。
森川さんと盛川さんではなんとなく期待度も変わろうという話だ。
モリカワさんには迷惑で失礼な話かもしれないけど。
そして僕は高まった期待度を隠そうとして失敗し、モリカワさんが直にやってくるであろう近衛の部屋で、大正文学の乙女のごとくそわそわしていた。
「なぁ、なぁ」
「なに」
「やばいよ、今日はバイトないしここに泊まる気だったから僕上下全部ユニクロだ。すげぇ野暮ったくない? ジーンズに半そでだよ。しかもナルトとコラボの奴にしちゃった。オタクと思われたらどうしよう」
「さぁ」
「なぁ、半ヘルかぶったから髪ぺっちゃんこになってない? うわ、ワックス持って来てない。ちょっと、鏡とかない? あんま汗かいてないから今なら間に合うと思うんだけど」
「へぇ」
「なぁ、汗かいてないよな、僕。臭くないよな。今日は冷房利いた教室だったし、運動授業なかったし、あんま暑くないもん。なぁ」
「男ってさ」
「な、うん?」
「女の半分くらいしか脳みそ使ってないような気がしてくる」
「いや、いいんだよ、そういうの。なぁ、臭くない? 僕大丈夫か、なぁ」
「大丈夫に見えない」
こんな感じ。
そしてノック盛川登場「ニューハーフ!」「オカマと呼べ小僧!」阿鼻叫喚「僕とTシャツが被ってる!」「この柄、古着屋に群れを成してるわよ」「発売半月なのに!」「ま、着こなし方次第ね」「確かにモリカワさんのナルトオシャレ! 一周して!」侃々諤々「もっと下忍時代のどたばた日常ニンジャコメディみたいなのが見たかったっすね」「私としては死神の漫画の日常パートが惜しいわ。もっと街のスーパーヒーローやって欲しかった」「変身アイテム兼ヒロインが自室の押入れに居候でしかも男勝り幼馴染と天然巨乳のトリプルヒロインの可能性までありましたから」「サブキャラも良い味出してたしね」和気藹々「だから! ヤンジャンのグラビアはヤンジャンにあるからいいんですよ! ウィークリーにはFFとドラクエの新作情報と怪しいカードゲームの宣伝とその合間の見つけづらい巻頭カラーページがあればいいんです!」「わかってるじゃない坊や――今夜は、飲むわよ!」
結論。
盛川さんは少年の心を忘れないオカマだった。
「やっぱり半分しか使ってない」
とは、置いていかれた近衛の言。
いいんだよ、残り半分は下心が補ってるから。
「じゃ、盛川さん。それ持っていっていいから」
「あら、いいの?」
「うん。今日は、いいの」
いまいち、僕にはわからない会話を交わして、「ふむ、委細承知」と盛川さんは頷いた。
「坊や、隣にいらっしゃい。去年からのバックナンバーがそろってるわ」
「一生ついていきます!」
なんとも僕はチョロかった。
なんで、「今日はいいの」なのか、僕は考えるべきだったし、考えなくて良かったと思う。
盛川さんは得体の知れないメーカーのMD(!)プレーヤーを、百均で売ってそうな小さなスピーカーにつないで、目一杯に音量を上げながら、僕と漫画雑誌の話をしたり、僕に女物の服を着せようとしたりした。
「近衛ちゃんに絶対似合うと思うの! でも着てくれないの!」
「切れ込みが法に触れる深さだぞその布切れ!」
なんて幸せだったんだろう。
近衛の部屋から知らない男が出てくるのを見たのは、夏も終わるころである。
***
近衛は体を売って生きていた。
毎日ではない。飛び飛びに、ごくたまに、時に頻繁に。
どういう縁で知ったのか知らないが、かわるがわる男がやってきて、近衛の部屋で暫くの時間を過ごす。
男たちは思い思いの額の金を置いていく。
金額に文句をつけないのにつけこむのもいる。足長おじさん気取りもいるそうだ。
学校にも行かず、定職にも付かず、何をしているのかわからない近衛は、そうして命をつないでいた。
***
近衛を送るのは、実は大学生になってからが初めてではない。なんでか近衛は生傷の耐えない奴で、あるとき酷く足をくじいて、登下校に不自由したときがあった。
「行きに登るのはいいんだけど、下るとき辛いね」
と、山の天辺にある僕らの高校の教室の昼休みで近衛が行ったから、自転車通学だった僕は、近衛を後ろに乗せて送ることにしたのだ。怪我が治る間まで、と、先生にもお墨付きを貰って、僕はいつもの帰り道に少しだけの寄り道を足した。
いろんなことを話した。流行の音楽。隣のクラスの噂。怖い体育教師のあだ名を考えた。それこそ漫画雑誌の話もした。
「なんか、妙に怪我が多いよな、お前」
「どじでさ」
「知ってる」
と、僕は近衛にしがみつかれたまま、坂を下る。
近衛の怪我について、考えなかったわけじゃない。
生傷が多いのに全部目立たないところにある。
たまに顔なんかに大きな怪我をする。
休むことも多い。
何かにいつもおびえている。
言い訳するように笑っている。
居場所を探すように仕事をする。
へら、と笑って、便利屋扱いをされる。
考えないわけじゃなかった。
でも、僕に顔のそっくりな近衛がそんな風になってるなんて、実感も何もなくて、なくて。
それに近衛は、助けてと言わなかった。
怖いとも言わなかった。
何も言い訳にならない。
忘れた、じゃすまない。
あの時、近衛の家の少し前で、近衛を下ろして僕が帰るときのあの近衛の目を忘れるのか。
忘れたふりをするな。
あれは、「今日はいいの」と言ったときの、目と、同じだ。
度し難いのは。
僕は本当に、忘れていたことだ。
***
「なんでですか」
なんでこんなことになるんですか。
「理由なんてないわよ」
盛川さんが言う。
「世界は間違うのよ。大事なところで間違えるのよ。女のはずなのにお股に変なものがついてたり、A判定が出てるのにもう六年も落ちたり、竿竹を売ってるうちに五十年が過ぎたり、パチンコで生きていけてしまったり、女から貰った金が全部上司に取られたりするのよ」
だけどなにも変わってくれないのよ。
「それだけよ」
***
***
僕は泣いて、喚いて。
***
忘れた。
***
今日は珍しく、朝から近衛に会った。日曜日の事だ。ふと思いついて例の公園に行くと、なんとまぁ、午前九時から近衛はしゃがみこんで、砂山をいじくっていた。あきれ返った僕は一回引き返して、温かい缶コーヒーを買ってくる。季節は冬。十二月も末。僕の時間は調子よく回っている。
もう一度公園に行くと、近衛はもう立ちあがって、砂を払う動作を終えていた。
「ハロー」
今日は、夜を呼ぶ言葉じゃない。
なんだろう。普通の、カタカナの、ともすればちゃんとした英単語の印象を受ける。
僕も「ハロー」と近衛に返した。
なんだろう、寝不足だろうか、近衛は立派な隈を作っている。
「なんか初めましてみたい」
「日照りと近衛のツーショットは珍しいからな」
「泊まっていったときはよく見てたでしょ?」
「最近、なかったからな」
送り迎えはしていたが、泊り込む回数はめっきり減っていた。
「今日はラッタッタは?」
「相変わらず変な呼び方しやがる」
何度言い直せといっても覚えないのだから、困ったものだ。
「今日は電車だから、部屋の前においてある。この辺の駐輪場高いんだもんよ」
「二輪は持ってないけど、お金の切実さを私に語るのはなかなかいい度胸ね」
「二輪は持ってない、ね」
ちょっと前、プレハブの連中でリアカーを改造してぷすぷすいいながら動く変な乗り物を作ったけど、アレは確か三輪だったしな。
もし二輪でも、駐輪場に止めるのは難しいだろうし。
「でも浪人生が工科系だったってのは驚きだったよ。てっきり法律か医学だと思ってた。勝手に」
「小金井さんはみんなのエンジニアだから」
なるほど、そういえば拾ってきたゴミを家電に変えていた。
近衛が僕のそばによる。
「で、電車でどこに行くの?」
「僕らの高校がある町さ」
電車で三時間ほどの、田舎に毛の生えたような町だ。
「ふぅん」と近衛は呟いて、当たり前のように「じゃ、行こうか」と言った。
まったく、酔狂者め。
電車賃は僕が出すんだろうなぁ。
「このコーヒーは僕のものだな。近衛にプレゼントするのは一日いっこだから」
「男が一度出したもんを引っ込めるもんじゃないと思うなぁ」
なんて。
僕たちはダイビングスクールの看板とすれ違って、表通りに出る。
「なんか町中赤緑ね」
「そろそろ赤服のヒゲ爺さんが襲来するからな」
「良い子にしてる?」
「毎日うがい手洗い歯磨きをして、耳の裏まで洗ってるよ」
じゃあなにかあげようかなぁ、と近衛が言う。
つまりなんかよこせということか。
一日いっこの金額が少し大きくなる日が来るな。
去年の大騒ぎを思い出す。
「盛川サンタ。ヴァージョンキャリフォールニア」
「私知ってるー。良い子のみんなに赤ビキニでコンビニ弁当を配る聖人の話だー」
「重大なな知らせがある。この間隣のプレハブに赤褌が干されていた。おろしたてだ」
あんなにこっぴどい風邪を引いたというのにまだ懲りないのだろうか。
風邪を引けたからバカじゃないはずなんだが。
券売機に当たり前のように僕だけ並んで、当たり前のように大人二枚購入のボタンを押して、当たり前のように近衛と改札をくぐる。
「ね、なにがいい?」
「期限切れの廃棄弁当ってけっこう美味しかったな、と僕は思うんだ」
「キャリフォールニア仕様にはならないわよ」
「オーストラリアモードで僕は満足だよ」
ホームにつながる階段を一つ一つ上っていく。エスカレーターは僕も近衛も嫌いだ。僕はどこかに連れて
行かれる気がするから。近衛は「粋じゃないから」
盛川さんと同じ事を言う。
「知ってる? 床屋さんの垣根にすんでる猫、子猫生んだよ」
「タワシの子供か、きっとそいつらのシッポもジャワジャワの亀の子なんだろうな」
「ブラシテイルって言ってあげてよ」
未だに近衛は、僕のネーミングセンスが気に食わないらしい。
「レイジさんがね、しゃがみこんで「おいで、僕の子猫ちゃん……」って言ってた」
「もう天職だなあのチャラ金髪」
あとは職場環境だけだ。
「ああ、後」
「わかってる。小金井宅の半径五百メートルは細心注意区域だ」
すべるころぶおちるなどの典型的ワードのみならず、男女で連れ立って歩くだけでも危険な場所になる。
地雷原だ。製図用コンパスは凶器になりえる。
電車を待つあいだ、どこからか石焼き芋屋の声が聞こえる。
「種元さん、がんばってるね」
「なんていうのか、転機ってどこにでも転がってるよな。転がるだけに」
確かに同じトラックを使った商売だけどさぁ……。
「ずっと、ずっと、コレがやりたかったんだよ!」と目を輝かせる彼と一緒に、皆で在庫の竿竹を使ってオリンピックごっこをした。
おかげで僕は二週間ほど右腕にギプスをするハメになった。
「……今年の冬は、あったかいってさ」
「そっか」
「だから、今年はあんまり心配ないかも」
「種元さんの売り上げは下がりそうだけどな」
でも。
葬列が必要ないなら、それに越したことはない。
「次、通過だって」
電光掲示板を見ながら、近衛が言う。
「なんかさ、都会の路線って複雑だよな」
「わかる」
「僕らの地元を見習えよな。初志貫徹十分ごとに各駅が来て、通勤快速以外通過列車はないんだから」
「シンプルだよね。ダイヤが正真正銘ダイヤ模様だもん」
近衛が、僕の顔を見た。
「地元といえば」
なんだか、距離の近いところにたっている、近衛が僕に聞く。
「何しに行くの? 今日は」
「ああ、就活が終わったからな。なんとかまともなとこにもぐりこめたよ。父さんも母さんも心配してるから顔みせついでに内定通知見せてやろうと思って。知らせてないからびっくりするぜ。母さんたぶんご馳走がなんだとか騒ぐんだろうな。どうせ僕が帰るよっていったら妙に晩飯豪華にするのにさ。親バカってのもホドホドにしてほしいぜ」
***
忘れていた。
***
「そっか」
と、近衛は何かわかっていたことを確認した顔をした。
あるいは諦めた顔をした。
「じゃ、次で、私行くね」
「……次は通過だって」
***
そういえば。
近衛を何度送り迎えしても、「バイバイ」と言うところは見たことがなかった。
あの、近衛の家の少し前で。
近衛は僕にどんな顔をして。
***
「バイバイ」
***
その日。
僕の住んでいる街の電車の、複雑なダイヤが、少し乱れた。
***
そして、僕は時間を見失う。
近衛がハローと言わなくなった。夜が来ない。いつまでも来ない。なにも進まないから何も変わらない。変わらないはずなのに近衛はハローと言わない。
気がついたとき。
あるいは目を覚ましたとき。
思い出したとき。
僕は近衛の部屋にいて、近衛の服を着ていた。
近衛のベットで寝ていて、目を覚まして、いろんなことを忘れた。
近衛のバイバイだけが忘れられない。
スクーターはどうなったかわからない。そもそも僕は近衛の部屋から出ていない。僕は近衛の服を着て近衛の寝たベットに眠り近衛と遊んだチェスをしまいこんだまま気がつけば近衛の部屋に来ていた男たちが僕のそばに居た。
人間、やろうと思えばなんでもできるもんだ。
最初は一センチもないまっすぐな棒だった。金属製のそれをもってきた男は手際よく僕にそれを指しこんだ。なにかハッカのにおいのするものを塗りたくられて、入り込んできて、繰り返すうち棒は太くなり、いびつになり、脈打つ様になり、人肌だと思えない温度になって、荒い息を伴うようになった。
彼らがどういう顔をしていたのかわからない。僕に無理やりものを食べさせた男と、最初に棒を持って来た男は別人だったと思う。どうでもいい。男の口から食べ物を移されるのもどうでもいい。何人いたのかもわからない。数えればわかると思うけど、忘れた。皆泣いていたように思うけど、忘れた。
部屋にはいびつな形のものが転がるようになった。電池で動くものが多かった。空気を入れて膨らむのもあった。時たま男がそれを使っている間に、別の男が飛び込んできて、大声を上げることもあった。なぜか飛び込んできた男は道具を使おうとする男をしこたま打って、外に放り出した。
そして泣きながら、
忘れた
して、金を置いて出て行った。
だんだん男たちは来なくなった。妙に立派な身なりの男だけが最後まで来ていた。最後ってなんだ。来なくなるというのはいつからだ。いつってなんだ。
立派な身なりの男は、最後に僕に分厚い封筒を渡して、手を握り締めて、言った。
「もう忘れないとだめなんだ。私たちは立ち直らないといけないんだ。あの天使みたいな子はいないんだよ。みんな忘れることにした、立ち直っていった。次は君の番だ。もうだめなんだよ。目を覚まさなくちゃいけない。夜はいつか明けるんだ。このお金で、なんとかしなさい。私はここのことをおおっぴらにできない。だからこの位しか出来ないが、がんばりなさい」
僕は泣いた。男の手を握って泣いた。心からの誓いと未来への希望と明日への渇望を覚えた。
忘れた。
眠ると見知らぬ町に着く。近衛と遊んだ町に近衛がいない。起きたとき部屋は薄汚れて汚く散らかって近衛の服は一つも原形をとどめていなくていびつなものが転がる。近衛の部屋がどんどん近衛の部屋から遠ざかる。近衛と同じ顔の僕が近衛の格好をしているのに変わっていく。
近衛の部屋を忘れた。
鏡を見ると近衛の顔がある。
忘れられない。
夢の中の町に近衛はいない。チェスセットをかかえて探し回るが見つかる気配がない。それもそうだ、コレは夢で遊んだものじゃない。いつ遊んだ。
遊ぶって何だ。
なんでチェスセットにコカコーラのふたが混じっているんだ。
なんでコカコーラのふたにチェスセットが混じっているんだ。
だめだな、チェスの駒なんかで代用しようとして、僕と近衛は、全くダメだな。ダイエットコカコーラのふたが黒いのはチェスをするためなのに。
忘れた。
夜が来ない。
窓のない近衛の部屋の中で眠っては起きて忘れて思い出して思い出したなにかと今の違いに困惑して忘れて眠って夢を見て近衛を探して近衛を忘れて思い出して、近衛と、僕の違いに、愕然として。
夜が来ない。
近衛がいない。「ハロー」と言ってくれない。夜を呼ぶためのあの言葉が僕の耳に届かない。
夜が来ないから朝も来なくて時間が流れない。
今が何時かわからない。
忘れた。
いつの間にか、換気扇が回っていた。
***
「忘れたんならもっぺんいってやらぁこのオタンチン!」
***
「理由なんてないわよ」
盛川さんが言う。
「世界は間違うのよ。大事なところで間違えるのよ。女のはずなのにお股に変なものがついてたり、A判定が出てるのにもう六年も落ちたり、竿竹を売ってるうちに五十年が過ぎたり、パチンコで生きていけてしまったり、女から貰った金が全部上司に取られたりするのよ」
盛川さんが言う。
「明日の朝新台に並ぶはずの男が毛布が一枚たりなくて死ぬのよ! あの、いつも、笑ってた、何も悪くないのに笑ってた子が! 居なくなるのよ!」
換気扇が回る。
「世界も神様も簡単に間違えて、だけどいちいち小さな修正なんてしてくれないのよ。だれが悪いのかわからないし、私たちが悪いんだと、思っても思わなくても変わらないのよ!」
開け放たれた扉から、オカマとホストと浪人生と石焼芋屋が僕を見る。
「だったら自分で何とかするしかないでしょ!」
「誰も頼れないなら、自分を頼ればいいのよ」
「そこまでやるんなら、自分で精一杯のあたし達も、何とか助けるもやぶさかじゃないって、言ったでしょ!」
忘れていた。
開け放たれた扉の向こうからバカらしいくらいの朝日が差して、汚い運河の素面に照り返してはえらく鈍った光を僕に投げかける。
入り口が狭いから圧倒的に光量が足りなくて、しかも仁王立ちで扉をふさいで逆光をまとって啖呵を切るオカマがいるもんだから、燦燦と立派な朝日のはずが、ずいぶんとしょぼくれた規模になっている。
だけど、朝が来た。
「間違えちゃったんでしょ」
「……はい」
「それはあんたが考えて、あんたが何とかする間違いだから、あんたが決めるまであたし達は聞かないけど」
盛川さんが部屋を見渡す。
「オカマなめんな」
どうせコッチ方面に間違えるならとことん間違えろあたしが教えてやるさあこいやれこいと、僕は去年からの少年の心の詰まった部屋に拉致され、法律に触れる布切れを身に纏い、髪を切って化粧をして。
***
さて。
それから一体僕がどんなことになってしまったのか。
いうまでもない結論と、随分考えないとわからなかった結論があって、そして僕には今でも消えない後悔がある。という、話に、なる。
まぁ、自分語りなんてつまらないし、僕もつまらない。
近況報告というか、現在の僕の目標をいくつか連ねるにとどめるにしよう。
・砂山を納得する形に整える。
・もっとくびれをつくる。具体的にはへそを出してもみっともなくない程度に。
・封筒を足長おじさん気取りのいい人に返す。
・スクーターを買う。
・鏡の中の近衛に延々「ごめんなさい」を言わない様にする。
・鏡の中の近衛にちゃんと「バイバイ」を言えるようになる。
情けない話。
僕はせっかく近衛がくれたバイバイを、まだ忘れられないでとっている。
忘れちゃいけないものだと、気付きつつある。
ハロー・バイバイ 絹谷田貫 @arurukan_home
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