心音と、色彩
高瀬拓実
心音と、色彩
心臓の音がする。どこか遠くの方で。
その音で目を開けてみたけれど、辺りは真っ暗で自分が本当に目を開けているのか分からなかった。
危険が迫っているのか、はたまた緊張でもしているのか、とにかくその鼓動は忙しなかった。
私はその慌ただしさに不快感を感じた。聞きたくない。そう思って耳を塞ごうとする。でも、塞いでいるつもりなのに、心音はどんどん大きくなってくる。どうして。嫌だ、嫌だ。
どうしても音を遮断できないのなら、せめて体を縮こませよう。私はうずくまるようにしてその場にしゃがみ込んだ。膝を抱え込んで、その中に頭を突っ込む。音に意識を持っていかれないように、両腕をせわしなくさすった。
それでも一向に心臓の音は鳴りやまない。
不意に息が苦しくなってきた。小魚が水面から顔を出して空気を取り入れるみたいに、必死に酸素を取り込もうとした。
その時から、網膜に色彩がちらつき始めた。
ずっと暗闇だった視界に、かすかな色が見え始める。おかしい、私はまだ目を開けていないのに。
赤、青、黄、緑……。
それらの色は私に対して攻撃的だった。まるで見たくもないものを見せつけられているかのように感じた。
心音と、色彩。
今の私には一番必要のないものだった。
と、その瞬間。私は閃いた。
これは、心臓の音なんかじゃない。これは--
その世界の真理に気づいてしまってからは早かった。
何もかもが曖昧になり、その世界が遠ざかっていく。
そして再びやってきた別世界で、私は私を取り戻した。
目を開けようとして、瞼がひどく重いことに気づいた。こすってみると、目頭から鼻根にかけて肌の一部がミミズが這ったように固まっていた。どうやら私は眠りながら泣いていたようだ。
自室は、もうとっぷりと闇に沈み込んでいた。
愛犬のココアも、私の状況を察してかこの部屋にはおらず、それでもなおどこか別の部屋で背景に溶け込んでいるようだった。気配を全く感じない。
私は深く呼吸した。眠っている間は息が浅かったのか、よどんだ空気でも肺に取り込めば新鮮に感じた。
遠くで、夢の中で聞いたあの音がする。
早鐘のように鳴る心臓の音。
夢の中でも、ましてや現実世界で一番聞きたくない音。
その正体は花火だった。
重く、体の底にまで響いてくる火薬の炸裂音。さすがに見物人たちの歓声までは届いてこない。
それだけが救いなのかもしれない。
本当は私もその一人で、隣には彼が--
そこまで考えて、私の胸は鋭く痛んだ。思わず目をつむる。こうしていると、また涙が出てしまいそうだ。
右手に掴んだシーツはくしゃくしゃで、多分寝ている間からずっとこのままだったのだろう。右手の力を緩めると汗ばんでいるのが分かった。
もう何もかもが嫌で起きることすらためらわれた。このままもう一度眠って少しでも何も考えずにいようと思った。ただ寝るためには花火の音を遮断しなければならず、耳栓代わりのイヤホンを取ろうにも机まで歩く必要があり、心底面倒だった。
ではこのまま無理くりにでも花火の音を気にせず寝ようかと思ったけれど、覚醒した脳はどんどん冴えていく。
鼻水の気配を感じて鼻をすすった。
ため息交じりの声はひどくかすれていた。
私のすぐ上をカーテンがふわりと揺れた。それを見て私は体を起こした。気だるさが全身を包んでいたけれど、思いのほか体は軽かった。
カーテンを押しやり窓の外を見る。雨戸越しの町は本当にいつも通りで白い街灯がその周囲に光を投げかけている。熱気をはらんだ風が雨戸を潜り抜けて私の髪を揺らす。
いたって普通だった。唯一違っているのは、花火の音が不規則な間隔を空けて聞こえるくらいだ。
その度に私の胸は例えようのない痛みに悩まされ、そうでなくても、一瞬の静けさに次の騒々しさを予感して、結局私は自分の心が休まるところを見つけられない。
花火が炸裂する度に、私は彼の申し訳なさそうなあの顔を思い出す。
そんな顔しないで……。お願いだから。それもこれも、私があんなことを言ってしまったからで。彼の顔を曇らせた私が悪いのだから。彼は何も悪くない。悪いのは全部私。彼を好きになってしまった、私が悪い。
気づけば視界がぼやけていた。下唇を噛んで震えるのを堪えていた。ぎゅうっと力を込めた喉が痛い。
もう泣く寸前だった。
それでも私は泣くまいとした。眠りに落ちる前に散々泣いたのだから、もう泣くのは嫌だった。
顔を上向けて目を閉じた。ゆっくりと呼吸を繰り返しているうちに閉じた目から涙がこぼれたけれど、感情の昂ぶりは落ち着いていくようだった。
最後に一つ深呼吸をしてから、目を開けた。
まつ毛に幾つも涙の雫がくっついていたから、それを強引に手の甲で押しつぶした。
処理が完了すると、私はわずかに勢いづけてベッドから降りた。自室を出てリビングへ。
まるで私の感情を家全体で表しているかのようにどこもかしこも真っ暗だった。
両親はともに仕事中で、あと最低でも二時間は帰ってこない。三歳年下の弟は、塾の予定だけれど、きっとサボっている。何せ今日は花火大会なのだから。受験生のくせに。落ちても知らんぞ。かく言う私も同じ立場で、色恋になんかうつつを抜かしている場合ではないのだ。
一か月前--ちょうど夏休みが始まったばかりの時に受けたマーク模試ではE判定。第二志望でさえD判定という絶望的な結果だった。
それでも私は、いまだに受験勉強に集中しきれていない。
それもこれも、きっと夏が悪いのだ。
夏が急かしてくる。行動しないと置いて行ってしまうよ、と。
自分でもつくづく馬鹿だと思う。でも私はその妄想めいた考えを振り切ることができなかった。
高校生活最後の夏。劇的な思い出が欲しいわけではない。それでも勉強だけに支配されるよりも、この先十年、二十年と色あせることのない思い出が、一つだけでいいから欲しかった。
そんな思い出にしたいと思える人が、私にはいた。いや、今もいる。
明かりをつけるのは、憚られた。暗闇に目が慣れていたので、何にもぶつかることなく--と思いきや何かを蹴ってしまった。
その感触にやばいっ、と思ったのも遅く「やめてよ!」と言わんばかりの鳴き声がした。
「ごめんっ、ココア」
何と足元にココアがいたのだ。全く気づかなかった。
慌てて抱き上げると、チョコレート色をした体毛の向こうにくりくりとした目が二つ、怒気をはらんだふうにこちらを見ていた。
もう一度「ごめんね」と頭を撫でながら謝った。
そのまま私は冷蔵庫の扉を開けた。中にあった麦茶を取り出し、グラスの三分の一ほど注いで一息に飲んだ。
グラスを置いてココアを顔に近づけて彼女の匂いを嗅いだ。最高に落ち着く。ココアも慣れているのか嫌そうにする素振りを全く見せない。
顔を離し目線と同じ高さまで持ってくると、
「散歩行こっか」
と話しかけた。返事はなくてずっとこちらを見ているだけだった。
もう怒っている様子はなかった。
汗ばんでいたので簡単にシャワーを済ませ、服を着替えてからココアを連れて外に出た。本当なら夕飯を食べていた時間だけれど今日ばかりはお腹も空いていなかった。
夏の夜の匂いにはあまりにも多くの情報が含まれている。私はそう思う。家々から流れ出る夕飯の匂い、夏草の匂い、人の汗の匂い、制汗剤の匂い、どこかにわんさかといる昆虫たちももしかしたら匂いを発しているかもしれない。そして最終的には、夏特有の熱気みたいなものがそれらを増長させている気がするのだ。
夏が嫌いであれば、耐え難いのかもしれない。私はどちらかというと夏が好きだから、この夏の匂いも悪くはないかなと思っていた。
だけど、今年からは夏が嫌いになりそうな気がする。
いつもの散歩道を歩く。私が歩くその横で少し遅れてココアもトコトコ歩いていく。歩く道中にはほぼ住宅しか建っておらず、近くのマンションに公園が一つ、そして家々を抜けた先にわずかに地形の高い丘のような場所があるだけだ。
普段はその丘を一周して家に戻ってくる。往復20分少し。
でも今日は別の道を歩きたかった。
ココアがいつもの道を歩こうとするのを、声をかけてやめさせる。
「今日はこっち行こ」
ほとんどつぶやくような声量になってしまい、ココアには届かなかったかもしれない。それでもココアは無言でついてきた。
茶色くふわふわした小さな体を揺らしながらココアは歩いていく。その姿は目の保養この上ない。あまりにもかわいすぎるから、しゃがみ込んで頭を撫でた。
歩みを再開する。別の散歩道とは言え、住宅だけの殺風景に変わりはない。人や車の気配を感じれば邪魔にならないように避け、ココアがトイレをしている間は空をぼうっと見た。いくつか星が瞬いていた。
そんなふうにして私たちは歩き続けた。
……どれくらい歩いただろう。
やっぱり私の心はここにあらずだ、そう感じた理由は視界にちらつく色彩と、まばらに直立する人々の影を今更ながらに気づいたからだ。
いつの間にやら川まで来ていたらしい。別に遠いわけではなく、ただいつもの散歩道とは反対の方向にあったから行く機会が少なかった。
一瞥した限り、ざっと十人くらいだろうか。家族連れや友人同士と思われる人たちが、欄干付近から同じ方向の空を見上げている。
背後に自転車の気配を感じて、自分も端の方に移動した途端、口笛を何倍も強めたような音が聞こえた。直後、夜空に青い光の花が咲いた。
胸を打つ、夏の音だった。
周りの人たちが小さくも反応する。
パラパラパラ、と光の尾を散らしていく様子をぼんやりと眺めた。
やっぱり花火は風情があっていい。それに紐づく思い出も優しくて、だから花火を見ると心が温かくなる。
でも……。
今年ばかりは、今日ばかりは、胸が痛い。
花火が夜空を色とりどりに染め上げる度に、私は後悔と悲しさに押しつぶされそうになった。
早くここから立ち去りたい。音が聞こえない、網膜を刺激しない、遠く離れた場所に隠れたい。
そう思うのに、私は花火の美しさに一歩を踏み出せない。
今頃彼は、誰かとこの花火を見ているのだろうか。
移り行く空の色をぼんやりと見つめながら、私は彼のことを想った。
それとも、白い蛍光灯の下で将来を見据えてペンを走らせているのだろうか。
いずれにせよ、彼の中に私はいない。一人で花火を見上げている今この瞬間こそが、その事実を強調している。
どういうわけか、涙は出てこなかった。
ついさっきまでいくらでも泣ける自信があったのに、今はまったくその気配がない。
心はどうしようもなく痛み、頭も重い気がするのに、涙だけは一向に流れようとはしない。
歩き疲れてその余裕がなくなったのだろうか。それとも夏の夜風を肺いっぱいに取り込んだおかげだろうか。
どっちでもいい。涙が出ないのなら、それでいい。
一つ、大きく息を吸い込んで吐き出した。
それで全てが変わるわけではないけれど、そうすることで彼への思考が少し減ったように思う。
私は今でも彼が好きだ。この調子だと来年になってもまだ好きなままだと思う。
でもそれが悪いことだなんて誰が言えるだろうか。
確かに彼のことばかり考えて現実問題から目をそらし続けていてはいけないけれど、純粋に彼を想うことは、私がちゃんと私であるという証明に他ならない。
あっさりフラれて、全てが終わったも同然のように泣き喚いて、志望校判定も最低ランクE。
それが私だ。樺山千尋というちっぽけでみじめで、でも確かに存在している一人の高校生。
まだまだこの恋を引きずるだろう。勉強にもすでに影響を及ぼしている。
でもそれでいい。どういう結末を迎えても、これが私の選んだ道なのだから。
花火は依然として夜空に咲き続ける。私はそれを残りの高校生活への後押しなんていうきれいな比喩にはしてやらない。
これは、火蓋が切られた音だ。
私の勝負はここから始まる。
心音と、色彩 高瀬拓実 @Takase_Takumi
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