第8話
直前の大騒ぎから、広場は一転、動揺の声と悲鳴で満ちた。今度の揺れは今までより大きかった。壁の石積みが触れあって音を立て、緩んだ石が迫り出し始める。あちこちでものが壊れる音、崩れる音がして、天井からもパラパラと埃が落ちてきた。
揺れで転んだ人々が立ち上がろうともがいているのを見て、俺は叫んだ。
「立つな! 揺れが収まるまで身体を低くしてろ!」
状況を見て取ろうと俺は頭を上げた。
「レンガの壁のそばにいる奴は這って離れろ――崩れて下敷きになるぞ! それ以外は頭をかばってじっとしてるんだ」
本当は、屋内で大きな地震に遭遇したときには、太い柱の根本か、トイレのような小さく区切られた空間に避難するのが一番安全だ。しかし、これほど人が密集した状況でそんな指示を出したらかえって危険だろう。
俺も床に這いつくばったままで揺れが収まるのを待った。
ところが、揺れは収まるどころかどんどん大きくなっていった。ゴーッという地響きが近付いてきたかと思うと、どこか下の方で、立て続けにバキバキズシンとものすごい破壊音が起こった。音はどんどん大きくなり、さらに近付いてきて、ついにがくんと床が動いた。俺たちのいる広場が、崖の方へと傾いた坂になりつつあった。
「どこかに掴まれ!」
俺は叫んで、自分も石畳の隙間に指を突き立てた。戦慄しながら見守るうちに、床が傾き、ゆっくりと、ゆっくりと、角度を増していく。
ミズホと視線が合った。恐怖に見開かれた目が眼鏡越しに見つめ返してきた。このまま床がひっくり返ったら、俺たちは全員、奈落の底へ投げ出される……。
誰もが恐怖に言葉を失い、赤子さえも泣くのをやめていた。張り詰めた沈黙の中、床の傾斜がゆるやかになり――
――止まった。
安堵のため息をつこうとした瞬間、これまでで最大の、途轍もない轟音が襲いかかった。落雷、爆発、砲撃――比べるものがないほどの衝撃で、世界が真っ二つになったかと思うほどだった。
次いで、俺たちのいる広場そのものが、ずるっと横滑りして、動き出した。崖下へ向かって。
沈黙が破られて、全員が絶叫していた。まるでスキー場の上級者向けコースに投げ出された子供用の橇みたいに、広場とその周辺の構造物が、崖の表面を滑り落ちていく。
うち続く揺れで、崖そのものも姿を変えていた。断面に露出した部屋や通路が崩壊し、奈落の底へと消える。さらに、この裂け目そのものが急速に広がりつつあった。崖と崖の距離が広がるにつれて、垂直に近かった壁面に角度がつき、上に行くほど広がる急斜面になっていく。俺は今、迷宮を二つに引き裂くような大断裂が生じる瞬間を目にしているのだ。
何百階層も積み重なった迷宮の断面を、滅びた国の残骸に乗ったまま、俺たちは滑落していた。
呆然とするような光景だった。
かつて香港に存在した、違法建築を重ねに重ねた高層スラム街、九龍城砦の断面図を見たことがある。どこまでも続く部屋部屋、外の光が入らない建物の奥に連なる商店や市場、壁をぶち抜いて作られた寺院、階層を縦に貫いて張り巡らされたライフラインやエアダクト……。俺の眼前に広がっているのは、あれの規模をさらに巨大にしたものだった。石材と木材で偏執狂的に組み上げられた迷宮が、見渡す限り続いている。右も、左も、上も下も。中にはむりやり隙間に詰め込まれたような森や、階層から階層へと滝になって伝い下りていく大きな川まであった。人間やそれに似た種族、群れを成す獣、悪夢の中でしか遭遇し得ないような異様な怪物たちの姿が、迷宮の断面に一瞬だけ垣間見えては通り過ぎていく。この迷宮は決して静かな廃墟ではない――無数の生き物が中に棲んでいるのだ。
百万迷宮。この世界の呼び名としてミズホが口にしたその言葉がどれだけ正確に実態を表していたか、よくわかった。
自分が異世界に来てしまったことを、俺が心の底から思い知ったのはこの瞬間だった。
それまで俺はずっと、自分の置かれた状況をいまいち理解できていなかったのだ。ミズホの説明に異を唱えないまま聞いてはいたものの、決して納得したわけではなかった。当たり前だろう、自分が地球からいきなり別の世界に飛ばされたなんて言われて、すんなり呑み込める方がおかしい。
だが、今目にした光景は、すべての疑問を叩き伏せる質量とリアリティを兼ね備えていた。
本当に俺は、異世界に来てしまったのだ。
衝撃とともに滑落が止まり、身体が慣性で石畳の上を転がった。それまで続いていた数十人の絶叫と、耳を聾する破壊音が止み、不意に静かになった。激しい揺れも収まっている。裂け目に反響していた轟音の名残も、耳を澄ますうちに徐々に薄れて、消えていった。
俺は慎重に立ち上がった。
停止の衝撃で、元ローマ人たちは壁際にひとまとまりに押し込められていた。絡み合う手足をほどこうともがく人々の中から抜け出してきたポテサラが、太い首をめぐらせてあたりを見回しながら、おそるおそるという調子で口を開いた。
「た、助かった……のか?」
広場は滑落でひどい損傷を受けていた。床の石畳はガタガタ、外周の壁は端の方から崩れて、天井はまるごとなくなっている。
「みんな無事か? 隣にいた奴がいなくなったりしていないか?」
俺が呼びかけると、人々はまだショックから覚めやらぬ様子ではあったものの、互いに声を掛け、助け起こし合い始めた。
ミズホも生きていた。子供たちの安否を確認しようと身体を起こそうとしている。
俺は周囲の状況を見ようと、部屋の縁に歩み寄った。驚いたことに、傾いた王の石像はまだ健在だった。あちこち欠けてひび割れてはいるが、広場の土台にしっかり固定されていたからか、あの滑落でも振り落とされなかったようだ。
ライトの光を周囲に振り向けて、すぐに俺は唸った。
「ポテサラ、ちょっと来てくれ」
俺が手招きすると、宿をなくした宿屋の主は、腹を揺らしてやってきた。言動を見ている限り、この男は率先して動いているし、周囲から一目置かれている。彼とはコミュニケーションを取った方がいいだろう。
「どうしたね?」
訊ねるポテサラに、俺はライトの光の指す先を示した。俺と同じものを見ると、ポテサラは厳しい顔になった。
「まずいな、これは」
「ああ」
俺たちを上に載せている広場の残骸は、裂け目の斜面を流れる大きな川の端に危ういバランスで引っかかっていた。今はかろうじて安定しているが、またさっきのような揺れが来たら傾いて川に落ちそうだ。川はすぐ先で急激に落ち込み、滝になっている。そこからはもう真っ逆さまだ。
「すぐ全員を避難させよう。ポテサラ、あんたからみんなに言ってもらえるか」
「ああ、わかった……だが、あんたから言ってもいいんじゃないのか?」
「今日来たばかりのよそ者が何を言っても、素直に聞いてはもらえないだろう」
「そうかね。さっきの様子を見るに、かなり場慣れしているようだったが。みんなを助けようとしていただろう」
俺が肩をすくめると、ポテサラは目尻に皺を寄せた。
「あんたが気に入ったよ、二つ名無しのタイガ。俺の宿がまだあったら、一杯おごってやったところだね」
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