第7話

 俺たちがいるのは崖の中腹だった。上も下も、ライトの光が届かないほど遠くまで続いている。崖の底も、空も見えない。崖のあちこちに光が点っていて、うっすらと照らし出された壁面はごつごつと不規則な形をしていた。上下左右に目を凝らすと、俺たちが通ってきたのと同じような通路や水路の末端があちこちに見受けられた。対岸までは五十メートルはあるだろうか。そちらにも同様の開口部がいくつもある。通路以外にも、部屋の断面や途中からもぎ取られたような壁や柱がいたるところにあった。まるで超巨大な高層ビルにくさびを打ち込んで、二つに引き裂いたみたいな光景だ。

 俺の背中で、ミズホが息を呑んだ。

「こんなことが――」

「どうした?」

「迷宮嵐は百万迷宮の無数の部屋部屋を入れ替え、かき乱すものですが、これほど激しい変動は聞いたことがありません」

 ミズホが首を仰向けて上を覗き込む。

「すごい……階層の断面が、こんな風に露わになるなんて」

 今目にしている事態は、どうやらこの世界の住人にとっても珍しいことのようだ。

「ここからなら上下に移動できそうだが、ミズホの国はどの辺にあるかわかるか?」

 俺が訊くと、ミズホはライトをあちこちに振り向けて、壁面に目を凝らし始めた。強力な光の輪が、引き裂かれた階層を照らし出していく。影に潜んでいた何かの生き物が、光を浴びた途端にさっと動いて姿を消した。一瞬だけ見えたシルエットは、大型犬ほどもあるネズミのように見えた。

「あっ!」

 ミズホが声を上げた。光の差す方を指差して、興奮気味に言う。

「あそこ! 国王陛下の石像です!」

 目を凝らすと、十五メートルほど上の斜め方向、崖っぷちに面して、白い石像が立っていた。上半身裸で髭を生やしたたくましい男が剣を掲げた像だが、今にも落ちそうなくらい傾いている。

「うちの国の広場の中央に立っているものです。あそこまで行けば帰れます」

「――そうか」

「はい?」

「広場の中央に建てられたものが、直に崖に面しているということは――つまり、広場の半分から先はなくなっているということか?」

 俺の言葉を受けて、ミズホはもう一度自分の国があるはずの場所へと目を戻した。

「そう……ですね。ひどい嵐でしたから、無傷では済まないだろうとは思っていました」

 硬い声でミズホが呟く。

「早くどうなっているか確認しないとな。急ごう」

 俺が言うと、ミズホは頷いた。

 いったんミズホを下ろしてライトを返してもらい、壁面を改めて観察する。あちこちに突き出た石や材木を伝って行けば、目標の石像までたどり着けそうだった。問題は体力だが……。

 俺が背負っている間に多少は回復したようで、ミズホもなんとか歩けるようにはなっていた。とはいえそれも一時的なものだろうし、足場の悪いところを無理に進ませたら転落するのがオチだ。

 ミズホほどではないが俺も身体が冷え切っている。二人揃って屈伸運動で足に血を通わせてから、慎重に登りを開始した。

「俺が先行して、安全なコースを確立する。ミズホは壁側に寄りかかって、ゆっくりついてきてくれ」

「は、はい」

 水路のある通路から踏み出し、壁面に沿って残った石の床の端に足を乗せる。土台が分厚い岩盤なのが見えているので、ここは大丈夫そうだ。ミズホに手を伸ばし、引き寄せる。俺の隣に彼女が乗っても、床が崩れる様子はなかった。

「よし、いいぞ。次は登りだ」

 残った床を進んだところに、上に向かう階段があった。木製で、凝った装飾が施されているが、途中でふっつりと途切れている。上階の床に手は届くが、ミズホ一人で上がれる高さではない。

 俺は階段に足をかけた。ぎしぎしと木の軋む音が崖に反響する。途切れた階段のてっぺんまでたどり着き、上階に顔を出してライトで走査した。崖と並行に走る通路の途中だ。危険そうなものはない。俺は振り返って、ミズホを手招きする。おっかなびっくり階段を上がってきたミズホを持ち上げて、先に上階に送り届けた。

 続いて俺も床の端に手をかけて這い上がる。ミズホと頷き合って先へ行くと、上に向かうハシゴがあって、天井の落とし戸に通じていた。

 落とし戸を開いて確認すると、上は瓦礫だらけの部屋だった。天井から剥がれ落ちた石材が床を覆い尽くし、ライトの光の中で漆喰の粉が舞っている。部屋の崖に面した側はまるごとなくなっていて、そこから見ると、崖の反対側から生き別れになった部屋の半分が突き出ていた。

 ここからは、壁面から横倒しに生えた石柱を何本か伝っていけばよさそうだ。部屋の残骸からまた表に出て、階段状になった石柱に足をかける。体重をかけられるかどうか確認してから、ミズホを引き上げる。石柱の太さはおよそ一メートルほど。その下は切り立った崖で、足を滑らせたら命はない。ミズホが軽くてよかった。

「下を見るな。俺が掴んでるから、上だけ見て這い上がれ」

「ひえ……」

 怯えながらも、ミズホが必死の形相でついてきたので、俺は見直した。高所で足がすくみ、一歩も動けなくなってしまう者も多いのに、彼女はよくやっている。

 三本目の石柱までたどり着き、残るはあと四回同じ要領で登ればいいというところで、俺は息をついた。

「見えるか、あと少しだ。その調子で――」

 と言いかけたときだった。パラパラと小石が落ちてきたかと思ったら、また揺れが来た。

「ひゃっ!」

 悲鳴を上げるミズホをとっさに掴まえて、石柱の上、壁際で身を縮める。

 頭上に影が差したかと思うと、巨大な四角い塊が落ちてきて、俺たちが次に渡っていくつもりだった石柱のうち三本に激突した。塊がひしゃげ、大量のレンガと材木にばらけて、石柱の隙間からこぼれていく。部屋がまるまる一つ落ちてきたようだった。衝撃をまともに受けた石柱は、三本とも根こそぎに折れて、一緒にがらがらと落下していった。

 揺れ自体はすぐに収まったが、影響は大きかった。

 ミズホが顔を上げて愕然と目を見開く。

「タイガ、道が――」

「……まいったな」

 俺たちの進みたかった道のりが、目の前で消滅してしまった。直撃しなかったと思えば運がいいのかもしれないが、コースの途中で立ち往生だ。戻って別のルートを探した方がいいか? それではミズホと俺の体力が保つかどうか――

 そのとき、上から物音が聞こえてきた。見上げると、蒼白い光が石像の向こうで揺らめき、近付いてくる。

「そこに誰かいるのか?」

 男の声がして、光が俺たちに向けられた。直視しないように手で顔をかばいつつ、俺は叫んだ。

「助けてくれ! あんたの国の人間が一緒にいる!」

「誰だ? 名前を言え!」

 上からの問いに、ミズホが叫び返す。

「私です、〈また夜更かしの〉ミズホです!」

「語り部だ! 生きてたぞ!」

「無事だったのか!」

 上で呼び交わす声がして、ばたばたと小さな足音がたくさん近付いてきた。

「ミズホねーちゃん!」

「ミズホちゃん生きてた! よかったあ」

「おーい、ミっちゃーん」

 崖っぷちから身を乗り出して口々に喚くのは、まだ小さい子供たちのようだ。ミズホが呼びかけに答えて手を振り返す。

「生きてるよ! ごめんねー、心配かけて!」

 灯りを持った男がふたたび叫んだ。

「そこから上がって来られるか?」

「ダメだ、足場が崩れた。ここからは行けない」

 俺が答えると、上からは狼狽えたようなざわめきが伝わってきた。俺は続けて訊ねる。

「上にロープはあるか?」

「あるぞ」

「どこかに結びつけてから投げてくれ。ロープの扱いがわかっている奴はいるか?」

 用途に応じた結び方を使い分けるロープワークは専門技能だ。俺は一通り身につけているが、船乗りや登山家でもないと、ロープはなかなかうまく扱えないものだ。素人のロープに命を預けたくはないから、ここは確認しておくべきだった。

 ざわめきの後、しゃがれた声が答えた。

「俺ができる。貸してくれ、俺がやろう」

「おお、頼む」

 しばらく待つと、円形に束ねられたロープが上から投げ落とされ、空中でうまい具合にほどけながら俺の手元まで来た。

「受け取った! 今からミズホに命綱をつける。合図をしたら引き上げてくれ!」

 俺はミズホの両手を上げさせて、もやい結びで腹の周りにロープを結びつけた。一度結んだら緩んだり締まったりしない、安全なやり方だ。

「よくがんばったな。あと少しだ」

 ミズホの目を見て、俺は笑いかけた。今度は少しはマシな表情を作れたと思う。ミズホも笑い返してきたからだ。

「いいぞ!」

 俺が叫ぶと、上から声を揃えてロープを引く掛け声が響き渡り、見る見るうちにミズホの身体が吊り上げられていった。

 後は同じ要領だ。もう一度ロープを投げてもらって、今度は俺が引き上げてもらう。上にたどり着くと、最後には何人もの手が伸びてきて、俺を引っ張り上げてくれた。

 傾いた国王の石像の足元で息をつく俺を、ミズホの同国人――なんとかローマ人たちが見下ろしている。顔を上げると、革の頭巾をかぶった小男と目が合った。人々の向こうに立つ太い木の柱に、ロープの一方の端が結びつけられている。ロープを扱っていたのはこの男のようだ。

「いい手際だった」

 俺が言うと、男は革の頭巾を持ち上げて、ぎょろついた目で俺を見下ろすと、ヒッヒッと笑った。

「そらそうさ。俺あ処刑人よ。人を吊すのは得意技さね」

 立ち上がって見回すと、周囲を取り囲む人々の値踏みするような視線が見返してきた。俺がいるのは半円形の〝広場〟だ。天井までは四メートル、円の半径は十メートルほどか。石の壁にはあちこちに木の扉や窓が取り付けられていて、それぞれが家屋や別のところへ続く通路へと繋がっているようだった。

 壁と天井に囲まれているのだから、俺ならホールとでも表現するところが、少なくともミズホたちはここを広場と呼んでいるようだ。

 かつては円形だったらしいこの空間は、今や真ん中から二つに分かれて、半円しか残っていない。ミズホの言うように、崖っぷちで傾いている石像が広場の中心にあったのだとしたら、そこから先は崩れて奈落に呑まれてしまったことになる。

 決して広くない広場は人でごった返していた。ところどころで掲げられているランタンの蒼白い光が、群衆の顔に影を落としている。連続する揺れを恐れて広場に避難してきたのだろうか。男も女も、老人も子供もいるが、顔立ちや体格は驚くほどバリエーションに富んでいた。移民が多いとか、人種が多彩とか、そういうレベルじゃない。似た顔立ちが二つとないくらいだ。何人かの耳は獣のように毛が生えてぱたぱた動いていたし、鱗に覆われた尻尾を持つ者までいた。

「あんたはどこの誰だい」

 恰幅のいい壮年の男が言った。継ぎの当たったエプロンを腰に巻いていて、ランタンを持つ手は分厚く節くれだっている。最初に呼びかけてきたのと同じ声だ。

「そういうあんたは?」

「〈お通し無料の〉ポテサラ。この広場に面した宿屋〈踊る小鬼亭〉の亭主だった――ついさっきまではな。宿屋は広場の半分と国の大門ごとなくなっちまった」

「気の毒に。俺は――タイガという。聞かれる前に言っておくが、二つ名は特にない」

「そりゃ珍しいね」

「実は遠いところから来たばかりで、この辺にはまだ不慣れなんだ」

「ほう、旅人かい」

「そんなものだな。さっきの迷宮嵐で途方に暮れてたところを、彼女に出会ってここまで連れてきてもらった」

 どこまで自分の身の上を明らかにするべきかまだ判断がつかなかったので、俺は言葉を濁してミズホに目を移した。

 ミズホは子供たちに囲まれてへたり込んでいたが、顔を上げて訊ねた。

「迷宮嵐の被害は――どれくらいやられたんですか? 国王陛下は? ランドメイカーの皆さんはどこに?」

 沈黙が落ちた。ミズホの顔色が変わる。

「――まさか」

「残念だが、ミズホ」

 ポテサラが渋い顔で告げる。

「宮廷は全滅だ。迷宮嵐に直撃されて、王宮と神殿が持っていかれた。助けに行こうとした騎士団も嵐に呑まれ、役所とホールは流されてきたクラーケンの死骸に突っ込まれて完全にぐちゃぐちゃになった。フラグスタンド陛下はもちろん、宮廷の面々も誰一人として残っていない。我が第五ポスト翼賛制ローマ帝国は滅亡だ」

「そんな――」

 広場の人々がいっせいに騒ぎ出した。

「災厄王の水虫にかけて! ランドメイカーがいなくなったら我々はおしまいだ。一体これからどうしたら……」

「だからハグルマの保険に入っておけばよかったんですよ。先月来たセールスマンを追い返すべきじゃなかった――」

「あたしゃもともとこの国に来るまでは流れ者よ。また旅に出るだけさ」

「あんたはいいだろうが、子供たちはどうする! 隣の国まで迷宮を通って旅ができる者ばかりじゃないんだぞ」

「仕方あるめえよ、この世は弱い奴から死ぬんだ」

「なんだとこの野郎」

「ああ? やるのかテメエ」

「やめろやめろこんなときに」

「おい引き離せ」

「うえええーー、おがあぢゃーーーーん」

 俺はミズホとその周りの子供たちを一瞥した。群衆のもみ合いが乱闘にエスカレートしたら、彼らが巻き込まれないように割ってはいるつもりだった。

 しかし、幸か不幸か、その機会は訪れなかった。

 またもや大きな揺れが襲ってきて、広場の人間を全員床に叩き付けたからだ。

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