第6話

 通路の一方はさっき崩落した瓦礫で通れなくなっていたので、移動する方向は一つしかなかった。浅い水路に沿って続く道は二人がぎりぎり通れるくらいの幅しかない。行く手をライトで照らしながら俺が先行し、ミズホには数メートル間隔を開けて後をついてきてもらった。通路は進行方向へ若干傾斜しつつも、まっすぐに進んでいる。進むにつれて、身体の前面に空気の流れが感じられた。それは行く手に開けた場所があることを示唆していたが、同時に濡れた衣服がますます冷たくなるということも意味していた。

 サバイバル状況下で行動するにあたっては、いくつかの原則がある。それらはだいたい、頭文字を取った四文字から五文字くらいの略語で表されることが多い(軍隊に入るとわかるが、とにかく略語が多い。そもそもの用語が長すぎるのだと思う)。

 習った教官によって多少の差はあっても、やることは基本変わらない。俺が最初に教わったのは〈PRWF〉の四文字だった。

 Pはプロテクション。身を守ること。

 Rはレスキュー。救助されるようにすること。

 Wはウォーター。水の確保。

 Fはフード。食糧の確保。

 サバイバル状況下――すなわち命が懸かっている状況下では、誰でも混乱し、何をしたらいいのか迷ってしまう。そんなときに、この四文字を思い出せば、今何を優先すればいいのか指針ができるというわけだ。

 PRWFの四原則は、そのままの順番で行動の優先度が上がる。つまり、何を置いてもとにかく身を守れということだ。安全を確保した上で、救助隊が自分を探すための目印を設置したりする。いくら安全な場所を見つけたとしても、そこに引きこもっていては誰にも見つけてもらえない。

 水は食べ物よりも優先度が高いが、それでも人間は水なしでも三日間は死なない。逆に言えば三日間水を飲めなかったら死ぬわけだが、ちゃんと目印を残しておけば、その間に救助隊が来てくれる。

 さて、この原則に照らして、俺の置かれた状況はどうだろう?

 P。まず、この水路に留まるのは危険だ。既に天井も壁も崩れかけていて、地震――もとい、迷宮嵐?による震動がこのまま続けば、崩落に巻き込まれて命を落としかねない。だから移動することにしたわけだが、一つ状況を難しくしているのがミズホの存在だ。俺だけならまだいい。実際もっと過酷な環境でサバイバルを強いられたこともある。しかしそういうときは俺一人だったり、連れがいたとしても同じ〈連隊〉の仲間だった。今回は違う。兵士ではない、一般人の女性だ。

 R。救助は今のところ見通しが立てづらい。あのトイレが崩落したとき空港の建物にどれだけ被害が出たかわからないが、床に大穴が開いていたら、巻き込まれた人間がいないか捜索はされるだろう。しかし――ミズホの言葉を鵜呑みにするなら、俺は地球とは別の世界に来てしまったらしい。笑い飛ばしたいところだが、既に自分の常識では測れないような出来事を経験してしまっている。あれが実際に起きたことではなかったとしたら、地震で死にかけた俺の脳が奇天烈な走馬燈を上映しているか、何者かが幻覚剤や役者を使った意味のわからない心理作戦を俺に仕掛けているかだ。あるいはブリティッシュ・エアウェイズのサービスがあまりに悪いので、空の上で気絶して悪夢に逃げ込んだのかも。PRWFの原則が優秀なのは、上に挙げたどのケースでもやることは変わらないということだ。

 とにかく、俺を探して救助隊が来ることはないと思っておこう。むしろミズホの方に希望がありそうだ。第五ポスト翼賛制ローマ帝国とかいう異常な名前の国に、レスキューという概念があればの話だが、ともかく人里に近ければそれだけ見つけてもらえる可能性が高くなる。

 W。少なくとも水はすぐそばを流れている。煮沸しないと一口たりとも飲むことはできないが、火を起こして容器を見つければ解決するだろう。

 F。これも後回しだ。食べ物は三週間なくても生き延びられるし、焦って変な虫や茸を食べて毒にやられるくらいなら食べずに腹を鳴らしている方がまだマシだ。

 現状、手持ちの装備はかなり心許ない。わずかな所持品を収めたリュックサックは、トイレが崩落した時点で失ってしまった。スマホもなくなっている。これも痛かった――水没で使えなくなっていたとしても、分解すればいろいろ使い道があったはずだ。特に中のリチウムイオンバッテリーが惜しい。

 腕時計は無事だった。G―SHOCKの針は十五時を指すところだ。空港のフードコートで月見天ぷらそばを啜ってから一時間も経っていないのが嘘のようだ。

 唯一幸運だったと言えるのは、フラッシュライトが手元に残ったことだ。この暗い環境では、シュアファイアの強力な光が心強い。

 百万迷宮といったか、ミズホの口ぶりでは、俺たちはずいぶん大きな建造物の中にいるようだ。摩耗した石造りの通路は、北アフリカやカンボジアで見た遺跡を思わせる。とにかく早いところこの建物の外に出て、周囲の状況を把握したい。

 考えながら進んでいくうちに、背後の足音との間隔が開いていることに気付いた。振り返ると、ミズホが遅れている。うつむいて二の腕をさすりながら歩いているので、俺は立ち止まって待った。

「大丈夫か?」

「か、風が、さっきより、冷たくて」

 ミズホの言うとおりだった。前方から吹く風は徐々に強くなっていて、俺より体格の華奢な彼女には酷だろう。

「ミズホ、風が強くなってるということは、もうすぐ開けた場所に出るってことだ。あと少しだ」

「は、はい」

 答える声も震えている。そろそろまずいかもしれない。

 低体温症というのは地味に思えるかもしれないが、非常に危険だ。どんなに鍛えた兵士でも、体温が上がらないだけであっけなく死んでしまう。人間は深部体温を三十七度前後のごく狭い範囲に保たなければならず、そこからたった二度下がると低体温症に陥るのだ。

 そして、水は空気の五十倍も早く体温を奪う。だから低体温症を避けるには濡れないようにすることが肝心なのだが、俺たちは最初からそれにしくじっている。

 俺は上着を脱いで、念入りに絞ってからミズホに渡した。

「これを頭からかぶっておいてくれ。熱は主に、首と頭から逃げる。濡れているから直接肌にはふれないようにして、フードみたいにゆったりかぶるんだ」

 ミズホがいよいよ動けなくなったら背負っていくつもりだが、それまでは自分で歩いてもらう。運動すれば体温は上がるから、動けるうちは動いた方がいいのだ。

 ミズホが即席の頭巾をかぶるのを待ってから、俺は言った。

「もう少し近付いて歩いてくれ。俺の身体が風よけになるはずだ」

 少し迷ってから付け加える。

「よければ手を引いていくが――」

「お願いします……」

 俺の左手を掴んだミズホの指先は、氷のように冷たかった。

「よし。ペースを落として進もう。ミズホは足元だけ見ていればいい。転んで眼鏡を割らないようにな」

 俺はミズホの手を引いて、前進を再開した。俺のごつい手に比べると、ミズホの手はずいぶんと細くて頼りない。彼女が何歳か知らないが、見た目からして、俺の娘であってもおかしくない年頃だろう。

 やれやれ、女の子の手を引いて歩くなんて、俺がもう二十歳若かったら興奮してまっすぐ歩けないくらいだったろうに、我ながら年をとったものだ。あのころは「どうやって口説くか」しか考えなかったのに、今頭を悩ませるのは「どうやって守るか」なんだからな。

「ミズホ、君のことを話してくれ」

 歩きながら俺は話しかけた。ミズホの意識をはっきりさせようとしてのことだ。

「君の国……なんと言ったっけ?」

「第五ポスト翼賛制ローマ帝国……」

「その帝国ってのは、どんなところだ?」

「どんな――そうですね、四年くらい前にできた国ですけど、まあまあ平和なところですよ」

「四年? 名前が仰々しいわりには新興国なんだな」

「伝えられている歴史では、かつてザ・ローマ合衆国という大きな国があったんですけど、公衆浴場の排水を流し込まれて怒ったエルフの軍団に攻め滅ぼされて散り散りになってしまったらしいんです。百万迷宮にローマと名のつく国がたくさんあるのはその名残と言われていますね。うちの国がその大ローマと関係があるとは思いませんけど。ローマの名は縁起物なので、建国するときにつけることが多いんです」

 急に口数が増えた。やはり彼女は「説明したがり」なのだ。こういうタイプを元気づけるには、喋らせておくのが一番いい。

「俺の知ってるローマとは別物らしいな」

「タイガもローマを知ってるんですか?」

「いや正直よく知らないが、少なくともエルフに滅ぼされたとは聞いたことがない」

 俺のローマ知識なんて暇つぶしにつけていたヒストリーチャンネルで見た程度だが、確かゲルマン人だかオスマン帝国だかにやられたんじゃなかったか?

「もしかして、地球にもローマが!?」

「あったらしいよ」

「ふわぁ……」

 ミズホが変な声を上げた。少なくとも意識ははっきりしたようだ。いいぞ。

「帝国って言うからには、帝王がいるわけだ?」

「はい、国王陛下は〈死ぬはずのない〉フラグスタンドI世。それに大臣、騎士、神官、従者を合わせて、ランドメイカー五名から成る宮廷が国を治めています」

「ランドメイカーとは?」

「国を作る人をそう呼ぶんです」

 なるほど、建国の祖がそのままの面子で最高権力者になっているのか。あまりいいイメージがわかないな。

「ミズホはその国で何をやっているんだ?」

「私は語り部です。曾々々々々々々々々祖母の代からずっと、歌や物語を人々に語り聞かせてきました」

「じゃあ、ミズホの先祖は代々ローマに住んで……ん? 四年前に建国されたんだったよな?」

「語り部は旅をするものですから。今でこそ腰を落ち着けましたけど、これでも隊商や冒険者にくっついてあちこち見聞を広めてきたんです。ペルペティウムにも行ったことがあるんですよ!」

「へえ、そりゃすごい」

 ペルなんとかが何なのかさっぱりわからなかったが、俺は相槌を打っておいた。

「それで、代々受け継いだ物語の中に、稀人の話がいくつもあったんです。他の世界から来た稀人に直接聞いた話もあれば、稀人の元いた世界で好まれていたという物語や歌もありました。私、それがすごく好きで……」

 うっとりした口調になって、ミズホが言った。

「私たちは百万迷宮に一生閉じこめられていますから、こことは別の世界があるって聞いて、とても救われた気がしたんです。迷宮の外に、迷宮ではない場所があるなら、いつか――生きている間には無理でも、死んだ後には行けるかもしれない。そう考えるだけでも楽しかった。自分の口から語った物語の舞台に、私も行けるかもって」

「……だから俺に会ったときあんなに興奮してたのか」

「そうです。まさか自分が本物の稀人に出会えるなんて思わなかった。思ってたのとはちょっと違う雰囲気、でしたけど……」

「不満を述べられているのはわかったが、苦情を送るべき相手は俺じゃないと思うな」

「…………」

「どうした?」

 ミズホの歩みが止まったので、俺は振り返った。

「どうしたんだろう。足の感覚がなくて……動かないんです」

 ミズホが困惑したように言った。

 熱は四肢の末端から逃げていく。寒いときに手足の指先がかじかんで無感覚になるのはそのためだ。このまま低体温症が進むと、深部体温が下がっていく。手足が動かなくなり、内臓が冷え、最小限に切り詰められた循環器系は脳の温度を保とうとする。それも不可能になると意識がなくなり、

最終的に死亡する。ミズホの身体はそのプロセスを着々と進んでいる。

「わかった。俺が背負っていこう」

 俺は背を向けてしゃがむと、ミズホを背負った。腕を回した足までが冷え切っている。

「俺の代わりにライトを持って、前を照らしてくれるか」

「手がかじかんで、持てるかどうか――」

「先に渡しておけばよかったな。強力なライトだから、少しは温かいと思う」

 小刻みに震える手にライトを渡すと、ミズホは目を丸くした。

「あったかい! これは――何の星ですか?」

「星?」

「今まで、探照星を使った筒型のランタンとばかり思っていました。やけに光が強いとは思ってましたが……そうか、これもタイガの世界から来た品物なんだ」

「楽しんでくれているようで嬉しいよ。その調子でもうちょっと頑張ってくれ」

 俺は立ち上がって、ミズホを背負ったまま行軍を再開した。陸軍に入ればわかるが、兵士というのは基本的にこれをやるのが仕事だ。重い荷物を背負って、長い距離を歩く。かっこいい銃を撃ったり、最新の兵器をいじくりまわしたりするのは、おまけだ。

 あとはずっと歩く。重荷を背負ったままで、ずっと。それから待つ。退屈で死ぬんじゃないかと思うほど、命令を待って待機する。そして、命令が来たらちょっとだけ動く。そうでなければ何も起こらず、荷物をまとめて帰る。兵士の人生はそういう風にできている。なんとそれは、世界最高の特殊部隊であるところのSASに入ってからも基本的に変わらなかった。どうやらこの分だと、異世界に飛ばされてからも同じことになりそうだ。

 ミズホの意識を保つために声をかけながら歩いていくうちに、とうとう通路の端が見えてきた。石壁の切れ目から先の暗がりへと、ライトの光が吸い込まれている。水の流れる音とともに、風が隙間を通り抜けるひゅうひゅうという音が響いてくる。

 腕時計を見ると、最初の場所から四十分ほど歩いたことになる。俺たちが遅めの時速四キロで進んだとして、だいたい二・六キロほどは進んだわけだ。ここまでの道はずっと緩やかな下り坂。仮に傾斜を〇・五パーセントとしたら、十三メートル下った計算だ。

 でかい建造物だとは思っていたが、確かに大きいな。

 そう思いながら通路の端にたどり着いた俺は、しばらくそこで立ち尽くした。目の前に、衝撃的な光景が広がっていた。

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