第5話

 震動はすぐに大きくなった。水路が波立ち、天井からホコリが落ちてくる。鋭い音と共に、壁の石材に亀裂が走った。

 俺はとっさにミズホを抱き寄せた。

「わっ……!」

「しゃがむんだ。頭を守って」

 そう言いながら、俺は自分の身体でミズホをかばい、もう片腕で自分の頭をカバーする。避難できるような場所がないから、姿勢を低くして揺れが収まるのを待つしかない。

 背筋が寒くなるような音をたてて天井が崩れた。ミズホがさっき倒れていた場所を、岩の塊が押し潰す。魚の群れでも暴れているみたいに波立つ水面から、冷たい飛沫が降りかかる。

 揺れは徐々に小さくなり、やがて静かになった。

「収まったみたいだな。大丈夫か?」

「は、はい!」

 俺がミズホを解放して腰を上げると、彼女も弾かれたように立ち上がった。

「あの! ありがとうございます!」

「ん?」

「もしかして私、助けていただいたんじゃないですか? さっきまで気絶してたこと忘れてました」

「あそう」

「すみません、本物の稀人に会うのって初めてで、つい興奮しちゃって……」

「別に俺は何もしてない。あんたが自分で目を覚ましただけだよ。それより――」

「あっ! そうだ! 眼鏡!」

 ミズホは急に慌てて、自分の身体をあちこち探り始めた。やがて円筒形のケースを取り出して開けると、安堵のため息をついた。

「よかったあ。私、目が悪いから、これがなくなったら生きていけません」

 ほっとしたように言って、ミズホはケースの中から眼鏡を取り出してかけた。金縁で繊細な装飾が施されたそれを通して俺を見ると、ミズホは一瞬たじろいだように目をしばたたいた。

「どうした?」

「あ、いえ、思ったよりいかつい顔だったので」

 俺が眉を上げると、ミズホはハッとしたように言った。

「ご、ごめんなさい、私が聞いていたお話では、稀人はもっと若くて、制服姿の紅顔の美少年や、太眉の活発なショートカット少女だったので、ちょっとがっかり、もとい意外で」

「おっさんで悪かったな。それより、訊きたいんだが――」

「はい! なんでしょう! なんでも訊いてください!」

 やたら鼻息荒く応じられて、俺はたじろぐ。

「その……百万迷宮とか言ったっけ。この辺りじゃ、ああいう地震がよくあるのか」

「ジシン?」

 戸惑ったようにミズホが聞き返す。おい、こんなに普通に喋れているのに地震って単語だけ通じないなんてことあるか?

「今みたいに地面が揺れるのを――」

「あ、地球ではジシンって言うんですね!」

「あ……ああ」

 ミズホはどこからともなく小さな石板を取り出すと、鉄筆でガリガリ音を立ててメモを取って、改めて顔を上げて言った。

「それはですね! 迷宮嵐ダンジョンストームと言うんです!」

 テンションが高い。

「迷宮嵐――?」

「はい! この百万迷宮には、ときどき嵐が起こります。部屋部屋をかき乱し、通路をへし折り、階層と階層を混ぜ込み、怪物も人々も容赦なくすり潰す、恐ろしい嵐です。私もそれに巻き込まれて、気付いたらここへ――」

 ミズホの言葉が、唐突に途切れた。

「どうした?」

 痺れを切らして訊ねると、ミズホは途方に暮れたような顔になって言った。

「ここ、どこでしょう?」

「え?」

「そ、そうだ、私……」

 自分の頭のコブをさすりながら、ミズホが呟く。

「部屋にいたら、大きな音がして……壁がめくれて、床が傾いて……その後は……」

 頭が痛むのか、ミズホがぎゅっと目をつぶる。ふらついてまた倒れそうになるのを、俺は肘に手を添えて支える。

「無理しちゃだめだ。ゆっくり息をして」

 ミズホは目を開いて、俺を見上げて言った。

「タイガ! 私、国に帰らなきゃ……!」

「国? どこにあるんだ?」

「わからない……」

「国の名前は?」

「第五ポスト翼賛制ローマ帝国です」

 なんだって?

「……ローマがあるのか? この辺に?」

「ローマは珍しくないですからね。私が知っているだけでも十国くらいはあります」

「そうなのか」

 俺は考えるのをやめた。本来違う言葉を使っているはずの俺と彼女の意思疎通がどういう仕組みで成り立っているのかさっぱりわからないが、多分その翻訳エンジン的なものが誤作動しているんだろう。そうに違いない。

 ミズホを見下ろすと、さっきまでの勢いが嘘のように狼狽えている。視線が定まらず、血の気が引いて、足元も危うい。負傷によるアドレナリン分泌と、俺との会話で気力が保っていたが、その効き目も切れてきたのだろう。濡れた衣服に体温を奪われて、自分で気付かなくともかなり体力を消耗しているはずだ。

 俺は指をミズホの顔の前で鳴らして注意を引きつけた。

「ミズホ。帰り道を探そう。協力してくれ」

「あっ……は、はい!」

「よし。まず安全なところに移動しよう。この通路はいつ崩落するかわからない。安全な、開けた場所を見つけよう。いいか?」

「開けた、場所……」

 ミズホが難しい顔になったが、俺は構わず続けた。

「安全な場所を見つけたら、まず火を焚く。俺たち二人ともずぶ濡れだ。衣服を乾かしながら、しばらく休んで、お茶を飲む」

「お茶?」

「食べ物があるといいんだが、何か持ってないか?」

「あいにく……」

「そうか、じゃあしばらく我慢するしかないな」

「お茶はあるんですか?」

「今はないが、そのうち見つけられるだろう。もう行けるか?」

「大丈夫です」

「よし、前進開始」

 避難場所を探して、ミズホと俺は歩き始めた。

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