第4話

「おい――」

 呼びかけた声が思いがけず通路に反響して、俺は口を閉じた。何秒か様子をうかがったが、誰かが反応した様子はなかった。

 俺は女に近寄った。大きな瓦礫に寄りかかって倒れているが、見た感じ大きな傷はない。

 俺は屈み込み、口と鼻に耳を近づけた。

 息がある。死んではいない。

「聞こえますか? 返事ができますか?」

「う……」

 改めて呼びかけると、瞼がぴくぴくと動き、かすかな呻き声が上がった。だが、反応はそこまでだった。一時的に意識が飛んでいるようだ。

 青い髪を慎重にかき分けて、頭部の外傷を確かめる。生え際まで真っ青なので、染めたわけではなく天然の色だとわかった。困惑する要素だったが、今は置いておく。

 頭皮を探る指に、わずかな弾力が感じられた。小さいがコブができているようだ。耳や鼻からの血や体液の流出はない。瞼を指で上げて、ライトの光を当てると、瞳が縮まった。正常な瞳孔反射だ。左右の瞳の大きさがちぐはぐだったりもしない。脳にダメージはなさそうだ。頭のコブが気絶の原因だとしたら、軽い脳震盪というところだろう。

 腹部から下が冷たい水に浸かったままなので、俺は足元を確かめながら、彼女を瓦礫の上に引き上げることにした。このまま放置してはすぐに低体温症になる。

 骨折や脱臼がないか注意しながら、腋の下から抱え起こして、水のない場所に引っ張り上げた。顔色は白く、唇も紫だ。俺自身、ずぶ濡れになったせいでかなり寒い。一刻も早く温かい場所に行かなければ危険だ。

 俺はともかく、彼女の方はもっと危ない。動けないまま濡れた服を着ていては体温を奪われていくばかりだ。目が醒めたときにばつが悪いことになるのはこの際勘弁してもらうとして、いったん服を脱がせた方がいいか? いや、脱がせたところで暖めるものがない。火を起こすものも、乾いた着替えもない。それに――

 俺は彼女の着ている服に改めて目をやった。最初から気付いてはいたが、衣服がおかしい――目の粗い布地といい、凝った刺繍といい、ちょっと二十一世紀のものとは思えないのだ。なんと呼べばいいのだろう、古代ギリシャのトーガとも違うし、修道士のローブとも違う。肩の周りやスカートにはカラフルな飾り布が使われていて、宗教的なものを感じさせるが、手足は関節を保護するためか布を巻いた上に、使い込んだ手袋とブーツを重ねている。

 世の中には歴史再現リエナクトマニアや、ゲームのコスプレに生活を捧げているような連中がいるというのは知っていたが、それにしたって本格的だ。小さな染みや汚れ、袖口のほつれ、継ぎや縫い跡があちこちにある。なんというか、生活感があるのだ。普段からこれを着て暮らしているのだろうと思わせる説得力が。

 顔立ちも不思議だった。肌の色はいわゆる白人の白さよりも薄く、目が大きい。骨格もやや華奢で、背丈のわりに全体として子供っぽく見える。俺はいろいろな人種、民族、文化を見てきたが、思い当たる筋がなかった。

 この女は――いったい、どこの人間だ? 俺も日本人と英国人のミックスだからまったく人のことは言えないのだが。

 困惑していると、女が呻いて身じろぎした。意識を取り戻しそうだ。

「大丈夫ですか。いきなり動かないで、ゆっくり目を……」

 俺がかけた言葉が、とうとう脳に届いたらしい。瞼がいきなりぱっと開いて、瞳が焦点を結ぶ。俺の姿を認めると、彼女は慌てたように上体を起こした。

「アゥカ! ヘク・トェイ・パ? ネウパ・ブールフ?」

「おっと……」

 まったく知らない言葉だ。

「あー、こんにちは? ハロー? ニーハオ? マルハバ? シャローム?」

 知っている挨拶を並べていくうち、最初は怪訝そうだった彼女の顔に、じわじわと驚愕の表情が広がっていった。

「オー・タンガラ! ヘク・ヤーハ・ラハッサ!」

「何語だ? えーと」

「ラク・シャント? ラク・ヒュペルボア? ラク・オアース?」

「悪いんだが、さっぱり――」

「ラク・地球?」

 俺は目をしばたたいた。最後の一語が、あまりにも自然な日本語として耳に届いたからだ。

 俺が反応したのを察したのか、彼女は勢いこんで言葉を連ねた。

「地球? あなた・はい・来た・地球・イエス? ニエット?」

 地球から来たか、と訊かれているのか俺は? まるでここが地球じゃない別の星とでも言わんばかりじゃないか。

 どうしたものかと思ったが、彼女は目を見開いて返事を待っている。俺はしぶしぶ口を開いた。

「イエス……だが」

「オー・タンガラ!」

 彼女は大声を上げて立ち上がった。いきなりそんなことをして大丈夫かと思ったら、案の定ふらついて倒れそうになる。

「おっと」

 俺が手を伸ばして支えたが、彼女はそれにも気付かないくらい興奮しているようだった。

「あなた・イエス・来た・地球・ヒト! あなた・マレビト!」

 最後の単語は、俺を指差して強調して言われた。

「マレビト?」

 俺が繰り返すと、彼女は激しく頷いた。

「あなた・待て」

 犬に命令するみたいに言って、彼女は腰回りに手をやった。いくつかのポーチや小袋が、ベルトの金具にくくりつけられている。その中から一つの袋を外して、口を固く縛った紐をくるくるとほどいた。手つきがかなり慣れている。取り出された中身は手の指くらいの長さの羽根だった。赤と金と緑の派手なグラデーションが、熱帯の鳥を思わせた。

 その羽根を、彼女は俺の鼻先に近づけてきた。くすぐったさに顔を引こうとすると、彼女はシッと威嚇するような声を出して俺を制した。

「あなた・ニエット・行く。イエス?」

 動くなと言われているらしい。何のまじないに付き合わされているのかわからないが、仕方なく動きを止めた。彼女は真剣な顔で頷いて、俺の鼻を羽根でくすぐり続ける。

 なんだこれは。

 羽根はコリアンダーに似た香りがした。状況が呑み込めないまま、いつ止めればいいのか考えるうちに、鼻のむずむずが鼻孔を昇ってきた。目の裏の辺りでチカチカと火花が散った。まさかタチの悪いドラッグじゃないだろうな、と思った瞬間、鼻の奥の奥、今までそんな場所があると気づきもしなかった秘境から、暴力的なほどのくしゃみの波が押し寄せてきた。

「は……、は……、は……、ハアックショオオン!」

 特大のくしゃみが爆発すると同時だった。俺の鼻と口を通って、でかい鳥がずるずるっと外に飛び出した。

「What a――」

 目をひん剥いた俺を振り向きもせずに、鳥はバタバタ羽ばたいて、彼女が持っていた羽根を咥えると、暗闇の中へ姿を消した。

「なんだ今の!? 何をした!?」

「よかった。効きましたね」

 彼女がほっとしたように言ったので、俺はますますわけがわからなくなる。

「何がだ!? 俺の頭の中から、鳥が――」

「大丈夫です、落ち着いて。バベル鳥です。そういうものです」

 俺がここまでパニックに陥ったのはこの十年記憶にない。あまりの衝撃に、彼女と会話が成立したことに思いが至るまでにラグがあった。

 ようやく気付いて、俺は喚くのをやめた。

「……いま、言葉が?」

「はい、稀人さん」

「どうして、急に」

「バベル鳥の羽毛を使ったんです。曾々々々祖母の代から受け継いだ貴重なものだったので、うまくいってよかった」

「バベル鳥――?」

「地球から来た稀人にはこの方法が効くって言い伝えがあったので。本来ならわかるはずの言葉が、頭に鳥が巣を作っているせいで邪魔されて理解できなくなってるみたいですね」

「頭に? 鳥が? 巣を?」

「はい、耳と耳の間、鼻の奥の奥に」

 流れる水に手を浸して洗いながら、彼女はそう言った。どうも俺のくしゃみの飛沫が手にかかったようだった。

 信じられない思いで、俺は両手で顔をこすった。鼻毛を鳥の体が擦っていった感触がまだ残っている。あの鳥が、二つの鼻孔と一つの口をどうやって通り抜けたのか想像もつかなかった。

 彼女は手を洗って立ち上がった。

「私は〈また夜更かしの〉ミズホといいます。稀人さん、あなたのお名前は?」

「俺は――大河だ。安藤・ギャレット・大河」

「二つ名はなんと言いますか、タイガ?」

「二つ名?」

 彼女が名前の前につけた〈また夜更かしの〉みたいなやつか?

「何もない。ただのタイガだ――いったい俺は、どういう場所に来ちまったんだ?」

 俺の呆然とした呟きに、ミズホが答えた。

「ここはあなたのいた地球とは違う場所です、タイガ」

「違う場所……?」

「すべてが迷宮ダンジョンに呑み込まれた世界――恐ろしい怪物と、古い魔法と、剣呑な罠に満ちた世界です。私たちはこの世界を〈百万迷宮〉と呼んでいます」

 百万迷宮――その名前が、バベル鳥を追い出して空っぽになった俺の頭に浸透しきる前に、足元が細かく震動し始めた。

 また地震だ。

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