第3話

 俺は国際線ターミナルビルを横切りながら、敵を確認する。人ごみを抜け、あちこちの売店で雑誌や文房具を買い求めつつ、心変わりをしたように方向を変え、案内図を見ては今いる場所を確認するかのように辺りを見回す。

 二十分ほど確認作業に費やしたが、尾行は一人だけのようだった。ちらちらと見え隠れする黒いフード、顔は見えないが、周囲の人波の動きと比べると不自然さは明らかだ。

 どうも妙だな、と思った。素人くさいのだ。通常、尾行は何人ものチームで行う。目を引くための囮という可能性はあるが、それにしたって稚拙すぎる。

 しかし完全な素人だとしたら、それはそれで厄介だ。プロならこうするだろうという暗黙の了解が通じないから、いつどうやって仕掛けてくるかわからない。

 俺は視線を上向けて、建物の至るところにある監視カメラを確認した。空港の警備は厳重で、どこで何をしても映像記録が残る。しかしこれだけ監視されていても、暗殺やテロは起こる。何年か前、クアラルンプール国際空港で北朝鮮の金正男をVXガスで殺害したのは、素人のインドネシア人女性だった。

 クアラルンプールの件はプロが安全なところから監視しながら使い捨ての暗殺者に攻撃を実行させるという構図だったが、今見た限りでは、黒いフードの人物に指示を出している奴は見つけられなかった。エスカレーターやエレベーターで上の階にも行って、監視できそうな場所を見てみたが、それらしい人物はいない。相手は本当に一人か、それともドローンか何かで俺を監視し続けているのか……。

 顔バレしている以上、ダークウェブで賞金をかけられているくらいは想定しておくべきかもしれない。ターゲットの写真と、飛行機の便名だけを伝えられた素人暗殺者が、はした金で俺を狙っているということだってあり得る。相手の手の内は判然としないが、爆弾やガスだったら、周りにも被害が出る――それはまずい。

 俺はターミナルビルの中心に背を向けて、なるべく人の少ない方へと歩き続けた。足取りを少し速めたのは、相手の焦りを誘うためだ。もし本当に一人で行動しているなら、こちらのペースに合わせて追って来ざるを得ない。

 俺はそのままターミナルの外れにあるトイレに入っていった。空港内で唯一カメラのない場所だ。

 相手が俺を殺すつもりなら絶好の機会、俺にとっても都合がいい。今の状況では、監視カメラの存在はむしろこちらに不利だ。俺は過剰防衛で逮捕されずに人生を続けていきたいのだ。

 ひと気のないトイレに入るとすぐ、売店で買った雑誌を固く丸めたものを、ビニールテープで手早く巻いた。続いてリュックサックを下ろして手を突っ込み、シュアファイアのフラッシュライトを取り出す。雑誌で作った即席の棍棒と、懐中電灯。銃も刃物もない今、すぐに用意できる武器はこれだけだ。

 SASの兵士を血も涙もない殺し屋だと思い込んでいる人々には拍子抜けだろうが、俺たちが優先するのは、安全に、秘密裏に行動することだ。作戦中に敵対的な人間に遭遇した際、そいつを殺すことは簡単かもしれないが、それによって余計なトラブルを呼び寄せてしまっては元も子もない。

 脅威の度合いを算定し、避けられるなら避ける。

 それができない場合になってようやく、攻撃して逃げるか、殺すかという選択肢が現れるのだ。

 早足の靴音が近付き、トイレの中に入って来た。フードをかぶった相手が、待ち構えていた俺を見て立ち止まる。俺は左手に持ったシュアファイアを点灯した。高速で点滅するストロボライトをまともに浴びて、相手が反射的に腕で顔を覆う。フラッシュライトのストロボ発光は人間の視覚を塗りつぶし、目眩を起こさせる。俺は間合いを詰めて、フードの中、喉元を狙って雑誌の棍棒を突き込んだ。

 息の詰まった声を漏らして相手が倒れ込む。だが、手元に伝わった感触は浅かった。首元にストールか何か巻いているようだ。立ち直る暇を与えずに制圧しようと、俺はフードを掴もうとした。

 そのとき、背後でドアが開く音がした。

 とっさに振り返ると、奥の個室からもう一人の人影が出てくるところだった。馬鹿な。トイレに入ったときに、人の気配がしたら気付いたはずだ――。

 個室から出てきた奴は、人間の顔をしていなかった。黒いスーツを着た男の方の上に、目が大きく、口に鋭い牙が生えそろった、ウツボか何かのグロテスクなマスクが載っている。

 最初の相手もよろめきながら立ち上がっていた。フードが脱げて顔が露わになる。こちらは鳥だった。クチバシの尖った、白いカラスのようなマスクで、目は血のように赤い。

 アニマルマスクの暴漢二人。武器はまだ抜いていない。俺はストロボライトでウツボ男を牽制してから、カラス男に飛びかかり、マスクを掴んで横に捻ろうとした。元々視界の狭いマスクだ、ちょっとずらせば何も見えなくなる。そう思ったのだが、そのクチバシが開いてカアッと鳴いたのには、さすがに意表を突かれた。ゴム製のマスクだと思い込んで掴んだ手のひらが、豊かな羽毛に沈んだ。つやつやと濡れ光る目の表面に、俺の呆然とした顔が映っている。

 どう見てもそれは、生きた、バカでかい、アルビノのカラスの頭だった。

 白い手袋をしたカラス男の手が突き出されたかと思うと、俺の身体は宙を舞っていた。細い身体からは予想もできない怪力だった。背中がタイルに叩きつけられて息が詰まった。フラッシュライトが手から離れ、雑誌の棍棒はどこかに吹っ飛んでいった。

 ウツボ男とカラス男が俺を上から見下ろし、練習したみたいにシンクロした動きで、どこからともなく刃物を抜いた。ずいぶんと長いまっすぐな剣で、相手がそんな大きな得物を持っていたことに、それまで俺はまったく気付かなかった。

 そのとき、トイレの照明が突然落ちた。

 ウツボ男とカラス男は動揺したように声を上げたが、どこの国の言葉か判別がつかない。このチャンスを逃すまいと、俺は取り落としたフラッシュライトを手探りして、ようやく掴んだ。立ち上がろうとしたとき、自分の周囲がぼんやりと赤く輝いていることに気が付いた。見下ろすと、床の上に円形の紋様が浮かび上がっている。うねうねと曲がりくねった紋様は、迷路のようにも見えた。紋様はみるみるうちに広がって、床を埋め尽くす。視線が吸い寄せられていく――まるで目が勝手に迷路の出口を探し始めたかのように。

 カタカタいう微震動に続いて、突き上げるような揺れが来た。

 地震だ、大きい。立ち上がるどころではない。俺は床に這いつくばったまま様子を窺った。ウツボ男とカラス男の姿は暗闇に紛れて見えなかった。すぐそばに居たはずなのに妙だったが、それどころではないほど揺れが大きくなっていく。これはまずい。こんな地震は初めて経験する。相当な被害が出るぞ――。床が踊り、壁がたわみ、柱が折れて天井が割れる、ものすごい音が四方八方から聞こえてくる。なのに、何も見えない。ただの停電にしては暗すぎた。まだ昼間なのに、トイレの外からの光も入ってこないのだ。

 不意に、身体の下の床がぽっかりと抜けた。落ちる! 俺はとっさに頭を抱えて身体を丸めた。ガラガラバキバキと建材が崩れる凄まじい音と共に、俺は暗闇の中を落下していった。

 俺を受け止めたのは冷たい水だった。

 深くはない。手が触れた水底はざらざらした石だ。水を掻いて顔を出す。シュアファイアをストロボモードから切り替えて、辺りを照らす。ウツボ男とカラス男の姿はなかった。

 立ち上がると、水は膝丈までしかない。状況を把握しようと、ぐるりと辺りを照らし出し、俺は戸惑った。

 俺がいるのは石造りの通路のような場所だった。壁も天井もひび割れ、苔生して、床には水が流れている。かなり古びている――まるで遺跡みたいだ。

 通路の一端は落盤で塞がっていた。今の地震で崩れたのだろうか? 天井に光を向けてみたが、俺が落ちてきたはずの穴が見あたらない。

 落盤部分をライトで舐めていた俺は、ぎくりと動きを止めた。人が倒れていたのだ。若い女だ。なかば水に浸かって、死んでいるのか、気を失っているだけか、動かない。長い髪が緩い水流に揺れている。その髪の色が妙だった。フラッシュライトに照らし出された女の髪は、鮮やかな青色をしていた。

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