13. 真実を追う人・裏
佐賀が姿を消す前日まで時は遡ぼる。
「これからもよろしくね、鍵師さん」
そう言って差し出した右手を、もうすぐ高校生になる彼女は握ってくれた。合格を祝い、未来への期待が高まったその手から突然流れ込んだ景色。
何かを話しかけてきている男の人の顔、それと一冊の本の表紙。流れ込んできたのはかなり断片的な映像だった。
佐賀は今まで仁穂の手から何かを視ることはなかった。その戸惑いが現れないように何事もなかったかのようにその手を離した。
「じゃあ下行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
女性二人が帰宅し、男三人で夕食を済ませたところで佐賀は一階へ向かった。最近は閉店後に涼と店で飲むのが日課になっている。
「おつかれ」
「おつかれ」
佐賀が一階に下りたとき時計はぴったり十九時を指していて、涼はシャッターを閉めていた。
「仁穂ちゃん、合格したんだって?」
「うん、すごいよね」
彼女が頑張り屋さんであることはよく知っている。サガシヤの中で一番孤独と戦ってきた子だ。
「最近はお友達もできたみたいだよ」
前に連れてきた、肩に火傷の痕がある女の子。触れても何も視えなかった、おそらく佐賀と同じ傷痕。
「青春って感じ?」
「うん、平和で何より」
カウンター下の冷蔵庫から涼は瓶ビールを取り出した。
「今日はコーヒーもらおうかな」
「珍しいね」
出てきたばかりのビールは冷蔵庫に戻された。
「仁穂ちゃんのお父さん、見つけてあげたいなぁ」
涼が佐賀を見ると、彼はカウンターに突っ伏していた。
「中学生の仁穂ちゃんが終わってしまう……」
「焦ってる?」
「……どうにもできないのが、もどかしい」
なぜ、今まで仁穂から情報が視えなかったのか。そして、今日はどうして急に視えたのか。
「あの子にそんなに肩入れするなんて意外だよ」
「してもらったことを、しようと思っているだけさ」
父と母に見守られ、麻野と共に育ち、親の死後に一緒にいてくれたなずながいて、最後の砦として守ってくれた涼は今も近くにいてくれている。
「僕は仁穂ちゃんを必ず守るよ」
涼は口角を上げた。
「随分かっこいいこと言うじゃん」
その後も二人はたくさん語り合った。
時刻が十時半になった頃、涼は帰る支度を始めていた。ちょうどその時、佐賀のスマホにメッセージが送られてきた。
「依頼?」
「いや、過去の依頼人」
涼は佐賀の表情が小難しそうだったからてっきり依頼かと思ってしまったようだった。
「じゃあ帰るわ」
「うん、気を付けて」
「また明日」
そう言い残して涼は裏口から出て行った。もう二度と二人が会うことはないと、この時にはまだ気づいてなかった。
「さて」
佐賀はスマホに視線を落とす。突然送られてきたスイステラが咲いたという連絡。咲いたら見せて欲しいというお願いはしていたが、まだ咲くタイミングではないはず。
「変だなぁ……」
佐賀は首をひねる。不意に、仁穂に触れたときに視えた光景を思い出した。一冊の本が視えたとき、そのタイトルは『意味のない生物』だった。
「そういえば、スイステラも意味のない花だな」
もしかしたら、スイステラと仁穂に何かの繋がりがあるのかもしれない。佐賀は荷物を持って千石智里の元へ向かった。
「本当に来たんだね」
「遅くにごめんね。どうしても今見てみたくてさ」
驚いた顔をしながらドアを開けた智里はすんなりと中に入れてくれた。月光が射しこんでいるリビングを通過して、地下へと続く階段の前で智里はライトをつけた。
コンクリート質の階段や手すりはひんやりと冷たく、階段は暗闇に吸い込まれていた。
「暗いから気を付けて」
智里はそう言って階段を下りていく。佐賀も後に続いて一段足を踏み出したとき、前にも似たことがあったような感覚に襲われた。真っ暗で、冷たい地下へと続く道を知っているような。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
この変な感覚を振り払って佐賀はどんどん階段を下りて行った。この場所が寒いせいか、さっきの感覚のせいか、指先が小刻みに震えている。
「あすみさんと一緒に来るかと思っていたよ」
「彼女には明日メールしてあげて。今日はもう帰宅しちゃっていたから」
階段を下りた先にドアが現れた。暗くてよくわからないけれど、きっとこの先にスイステラがあるのだろう。
「開けてみて」
言われるがまま、ドアを開く。その先に青い光に照らされた植物があった。広い部屋にたった一つのプランター。
「これがスイステラ……」
青白い花が二つ咲いていて、もうすぐ開きそうな蕾がその下に一つ。
佐賀はその見たことのない花に手を伸ばした。指先が少し触れ、稲妻が走るように脳内にたくさんの映像が流れ込んできた。
「綺麗でしょ」
その言葉にはっとして、佐賀は一歩スイステラから離れる。
「でも、どうして今咲いたんだろうね?」
「それが疑問なんだよなぁ……」
佐賀はスイステラを上から下までよく見た。
「……見られてよかった。ありがとうございます」
佐賀は智里を見て微笑んだ。
「うん、十二時に門が閉まるからまた明日あすみさんとおいでよ」
二人は暗い階段を上り、玄関で別れた。
「スイステラ……」
その花に触れたときに視えたものを佐賀は思い返していた。
一つは家紋。スイステラと酷似していた。大きな屋敷のようなところの地下室が視えて、そこは牢屋のように鉄格子がかけられていた。そのドアの部分にこの家紋が彫ってある。鉄格子の中にはやせ細った、薄汚れている子どもがいた。
そしてもう一つ視えたものは男性の顔。その人は鉄格子の前を歩いていてこちらを振り返った。その顔に見覚えがあった。彼は仁穂に触れたときに視えた男性と同じだった。
「仁穂ちゃんの家に行かないと……」
この男性とスイステラの繋がりが何なのか。どうして突然視えたのか。
最近動きを見せ始めた一族と関係があるのではないかという不安と期待が脳裏を過る。
その夜、佐賀は事務所に戻らなかった。かつて一度だけ行った、仁穂が父と過ごしたアパートに向かい朝を待って麻野に連絡を入れた。
「もしもし、千宜?」
『なんだ、こんな早くに』
「仁穂ちゃんが子どもの頃過ごしてた家に行きたいんだけど、どこだっけ?」
佐賀はちらりと自分の左手にあるアパートを見る。
『なんで急に?』
「あの家にあるもので、仁穂ちゃんに渡したいものがあって」
中学も卒業するし、と付け加える。いつも通りの口調、やましいことなど何もないとアピールして。
『分かった』
納得したのか、麻野はアパートの情報を教えてくれた。
「ありがとう」
こうして佐賀は手回しを終えた。何も言わずに勝手に動けば早々に捜索が開始されてしまう。ある程度居場所を伝えておけば、捜索がすぐに始まることはないだろうと佐賀は考えていた。
この家で視えるもの次第でどう動くかが変わってくる。もしも、本当に一族に関わりがあるのなら、追わないわけにはいかない。
「さて、行こうか」
佐賀は階段を上り、仁穂の家のドアを開ける。警察の監視はあるはずだが、特に誰も声をかけてきたりはしなかった。
「おじゃまします」
室内は古めかしい木の匂いがした。床は定期的に掃除しているようだが、よく見ると隅には埃が溜まっている。靴箱の中には子供用の小さな黄色いサンダルが入っていた。
奥に進み、佐賀はテレビの横の本棚の前で足を止めた。あの時視えた本のタイトルは『意味のない生物』だ。本に指先を当てながら、一冊ずつタイトルを読んでいく。その途中で本の並びの規則性に気づいた。
「著者順か……」
そんなことを考えていると目当ての本を見つけた。本を手に取り、表紙を撫でる。普通の哲学書のように見えるが、これに何かが隠されているのか。
「よし」
佐賀は覚悟を決めて本の上に手の平を乗せた。しかし、何も視えなかった。
「まるで鍵がかかっているみたいだな……」
どうしたものかと悩みながら本を開く。タイトルだけだとスイステラを連想させるが、内容は全く異なっていた。価値のある人間とか、そんなことがつらつらと書かれている。
「胸糞悪いな……」
本を閉じて背表紙を撫でる。その時、佐賀は違和感に気づいた。
「なんか入っている?」
表紙と背表紙の紙は外れないようにテープで固定されていた。その隙間に何かが入っているように感じたのだ。
佐賀は部屋からカッターを探し出してテープを切った。
「あった」
本と背表紙の間に紙が一枚。恐る恐るその紙を取り出し、二つ折りにされた紙を開いた。
「『君が見つけるのを待っていた』?」
それはまるで誰かに宛てられた手紙のようだった。小さな文字がびっしりと並んでいる。
「奪われた記憶?」
『君が見つけるのを待っていた。
奪われた記憶を取り戻せるように、鍵になりそうなことを書き残しておこうと思う。
僕は鈴鹿誉、フタバの兄だ。この紙を見つけたとき、おそらく僕は生きていないだろう。
君を生み出したのは陽寒の一族と言って、とある不思議な花を家紋にしている。彼らは人体実験を繰り返して君のような存在を作り出した。
僕は君を彼らから逃がすために一つの作戦を決行することにした。君が今も自由に過ごすことを望んでいるが、叶うなら、僕の妹たちも幸せであってほしい。
君のかつての記憶を少しでも取り返す手掛かりになれたら、嬉しい。幸せになって』
紙に書かれた文章に佐賀は困惑した。
「どういうことだ?」
この手紙は誰に向かられた物なのか、フタバとは誰なのか。
「鈴鹿……誉」
仁穂と同じ名字。ということは、誉は仁穂の父親の可能性がある。
しかし、この手紙の最後が引っかかる。『妹たち』とは誰なのか。
「仁穂と仁稀」
仁穂には双子の姉がいると聞かされていた。その二人のことを指しているなら、妹ではなく娘たちと書くべきなのではないか。
あるいは、仁穂と共にこの家に住んでいたのは父ではなく兄という可能性だ。
「何のために偽る必要があった?」
仁穂に対して父親を名乗ることのメリットはなんだ。佐賀の頭がズキズキと痛む。
「くそ……」
陽寒の一族。自分が追っているものは陽寒の一族というのか。ああ、聞いたことがある気がする。
佐賀の足がもつれてその場に座り込んでしまった。そして、そのまましばらく座っていた。
「ああ……そういうことか……」
胡坐をかくように座り直し、額に手を当てた。
佐賀はもう一度手紙を読んだ。指先で一文字一文字をなぞりながら。欠けていた歯車が戻って、次々と光景が浮かび上がる。紛れもない、佐賀自身の記憶だった。
「……さて、行こうかな」
佐賀は近くにあった紙にメモを残してそれを箪笥に隠した。サガシヤの人間がこれを見つけられるかは分からないが、見つけられても、見つけられなくてもどちらでもよかった。
手紙を折って胸元に隠し、手紙が隠されていた本を本棚に戻した。これもわざと、元の場所を避けた。
玄関のドアに手をかけて、外に出る。古めかしい階段の手すりに触れると当時の映像が視えた。階段をゆっくりと上っている仁穂の手を取る男性の姿。
「若い」
男性は二十歳くらいに視える。隣の仁穂は五、六歳くらい。妹たちという言葉の方が信憑性は高い気がする。
「フタバは仁稀ちゃんか」
思い出した記憶の中にフタバの姿はなかった。フタバの前に連れていかれたことはあるが、靄がかかったように姿が見えない。おそらく、佐賀の記憶を奪ったのは彼女だろう。
そして、自由になれた妹とは違って、彼女は一族に囚われ続けている。
「急に色々思い出したせいで頭が痛いな……」
同時に様々な作業をしたせいで熱くなってしまったパソコンのように、頭が重く痛む。芋づる式に次々と記憶が戻ってきていた。
「とりあえず誉……」
次に何をしようか考えていた時、目の前に一台の車が停まった。五人乗りの白い車。その後部座席の窓が開いて、見覚えのある人物が姿を現した。
「乗れよ、サガラ」
彼の白い髪が揺れて、冷たい視線がこちらを向く。
「……シオン」
乗っていたのは防犯カメラに映っていたあの白髪の少年だった。しかし、佐賀はこの少年をずっと前から知っている。
佐賀は言われた通りに車に乗り込んだ。
「やっと思い出したんだ」
車は速度を上げて走行する。進行方向は事務所とは反対だ。
「おかげさまで。まだ全てを思い出したわけじゃないけれど」
「へぇ、じゃあ教えてあげようか?」
悪戯を楽しんでいるかのような顔でシオンは佐賀を見てきた。
「鈴鹿誉は仁穂と仁稀の兄であり、一族に従事する人間だった。彼と僕とお前はあの日同じ屋敷にいた」
シオンは前を向いたまま、黙っていた。
「彼は僕とお前を逃がそうとしたんだ。それなのになぜ、お前はそっち側にいる?」
誉は命を懸けた。佐賀と麻野の父が出会った日、あの時の火事は誉が起こしたものだ。そして、その遺体も彼で間違いない。
「断ったんだよ。誉くんが死んだら、フタバが独りぼっちになっちゃうからね」
「仁稀か……」
「でも、お前だけが幸せになるのは気に食わない。僕はお前が大嫌いだから」
歪んだ笑顔だ。
「安心しろ、真っ白なキャンパスに戻してやるから」
シオンの左手の人差し指が佐賀の額に触れた。その瞬間、電源が落ちるように佐賀の意識は途絶えた。
「ん……?」
「あ、やっと起きた」
気が付くと佐賀は壁も床も天井も白い部屋にいた。テーブルが一つあって、その上にフルーツの盛り合わせが置いてある。白髪の少年はそのブドウを一房食べ切りそうなタイミングだった。
「記憶がある……?」
佐賀は硬い床から起き上がって頭に触れた。
「面倒だから気絶させただけ。お前は嫌いだから取り上げてもよかったけど、僕の目的のために利用させてもらうよ」
目的ってなんだ、佐賀はそう聞こうとして止めた。
「ここは?」
全てが白い部屋。窓はない。どこかにドアがあるはずだが、パッとも見てわかるようなものではないらしい。
「僕らが生まれた地下室の一つ」
そう言うとシオンはフルーツと共に置かれていたナイフを手に取り、佐賀に向かって放り投げた。ナイフがカランと床にぶつかる。
「思い出してごらんよ。僕らは作られてこの部屋で何度も拷問された。心も体も壊れそうなくらいに。そして僕らは手に入れた」
佐賀はナイフを見つめていた。使い込まれた形跡が見える。欠けた刃に黒っぽい汚れがこべりついている。
「僕らの存在理由を」
恐る恐る佐賀はナイフに触れた。幾つもの悲鳴が自分を囲うような感覚がして、佐賀はすぐに手を離した。一瞬のことだったはずなのに、顔には脂汗が滲んでいた。
「……お前、僕と同じくらいの年齢じゃなかったか?」
「薬で成長が止められているからね」
あっさりと答えるシオン。人の成長を薬で止めているなんて。
「薬くらいで抵抗感のある顔しちゃって。僕らは所詮人工物だったろ」
佐賀が驚いた顔をすると、シオンはそこまでは聞かされていなかったのかと言った。
「仁穂や仁稀も……?」
「いや、あの三人は外の人間だから天然だよ。ヒトミと同じ、本物の奇跡」
ヒトミ、佐賀はその名前にも聞き覚えがあった。
「ヒトミには会ったことはないと思うよ。僕ですら時々しか会えないんだから」
シオンはテーブルを離れて落ちているナイフを拾った。
「仁稀はどこだ」
「フタバはこの上にいるよ」
ここは地下室だと初めに言っていた。仁稀は地上の屋敷にいる。
「あの子は処分対象になったから、その最後のお世話をお前にさせてあげるよ」
「処分?」
「あの子は要らないってさ」
シオンはナイフを首に当ててそう言った。
このままだと殺されてしまう。
「お前はフタバを一人にしないために残ったんだろ! なのに、処分を止めないのか⁉」
シオンの立ち位置が分からない。彼が何をしようとしているのか、自分をどうしたいのか、佐賀にはわからなかった。
シオンは不気味だが、フタバを助けるというなら手を組んでもいいと思っていた。なぜなら彼女は唯一の仁穂の家族だから。
「さぁ、どうかな」
興味などないというような言い方。シオンは壁の一部を押した。そこはドアになっていて、彼は部屋から出て行ってしまった。
「シオン!」
仁穂の家で、全て思い出したと思った。だけど違った。シオンと話していく中で、抜けている記憶に気づかされる。佐賀に余裕なんてなくなっていた。
「サガラ様」
突然、背後から声がした。振り返ると後方の白い壁にもドアがあったようで、スーツに身を包みサングラスをつけた大人が立っていた。
「フタバ様の元にご案内します」
「待て、シオンは……」
「ご案内します」
まるでロボットのような抑揚のない話し方。こちらの話を聞いていない。
その人はドアの前に立ち、佐賀が立ち上がるのを待っていた。
「わかりました……」
立ち上がり、白い部屋を出る。部屋の外は真っ暗だった。
僅かに明かりの灯った階段を上り、長い木の廊下が現れた。
「こちらです」
廊下を少し進んで、再び階段を上る。同じような長い廊下に出て、障子張りの部屋が並んでいた。
「こちらです。彼女に触れると記憶を取られる可能性がありますので、不用意に触れないようにしてください」
案内されたのは金属の扉が取り付けられた部屋だった。中の様子はわからないが、この先に仁稀がいる。
佐賀はドアに手を伸ばし、ゆっくりと開けた。
その部屋は明かりがついていなくて、大きな窓から月明かりが入り込んでいる。
「仁稀ちゃん……?」
部屋に入ると音をたててドアが閉められ、鍵もかけられた。
「あいつ!」
ドアを殴ろうとして、佐賀はそれをやめた。部屋の中には鉄格子の牢屋があって、その中には少女がいた。少女は扉に背を向けて、星空を眺めていた。佐賀が入ってきたことなど何も気に留めていない。
「仁……フタバちゃん?」
その言葉を認識して、少女は振り向いた。彼女の長い髪が揺れ、光のない瞳が佐賀を捉えた。その顔は仁穂とそっくりだった。
「ここにいたんだね」
仁穂の大切な家族。佐賀の瞳から涙がこぼれた。
「仁稀ちゃん、逃げよう。君の妹がずっと君を待っているんだ。君は一人じゃない」
仁稀を逃がして、必ず二人を再会させる。佐賀は誉の手紙を思い出す。あれにも書いてあった、妹たちが幸せであってほしいと。
佐賀は胸元から手紙を取り出そうとして、それが無いことに気が付いた。
「回収されたのか……」
フタバはいつの間にか佐賀に背を向けていた。
「一緒に逃げよう?」
反応はない。おそらく、彼女には意思がないのだろう。彼女も記憶を失っているのかもしれない。それは彼女に触れてみればわかるはずだ。
「フタバ」
佐賀は格子の隙間から手を伸ばす。しかし、彼女は少しも動かず、その背中にはわずかに届かない。
肩に格子が食い込む。檻を掴む左手が次々に情報を集めていく。ずっと一人だった彼女。暴力を受け、こんな場所に閉じ込められて。彼女の記憶を奪う力だけが搾取されている。
「お願いだ、君を守らせて……」
その後も仁稀が佐賀の方を向くことはなかった。
近くから鳥のさえずりが聞こえて佐賀は目を開けた。視界に入ったいつもと違う景色に動揺して、勢いよく上体を起こした。
「いてて……」
硬い床で眠ってしまったせいで、体がバキバキだ。
「おはよう、仁稀ちゃん」
仁稀は昨日と同じように窓の外を眺めていた。明るい日差しが仁稀の艶やかな髪を照らしている。
「おはようございます。朝食です」
背後のドアから声がして振り返るとちょうど閉まる瞬間だった。一体いつの間にドアを開けたのか、なんて思いながら床に置かれたお盆を見る。
白米のお茶碗が一つ。お粥のお茶碗が一つ。あとは卵焼きと漬物がのったお皿が一つ。
「仁稀ちゃんがお粥かな?」
佐賀はお粥の入ったプラスチックのお茶碗を持って格子の隙間から差し出してみる。すると、それに気づいた仁稀が勢いよく佐賀の手からお茶碗を奪った。まるで飲み物のように、彼女は茶碗に口をつけて啜った。
「待って、スプーンあるから!」
引き留めようとしても手遅れだった。カラン、と彼女の手からお茶碗が落ちた。手の甲で口元を拭って指先を舐める。
「……卵焼きもあるよ?」
仁稀が反応することはなかった。再び、彼女は窓を眺める。
「外に出たいの?」
佐賀は檻の中に手を伸ばし、落ちた茶碗を回収した。
「一緒に帰ろう。そうしたら妹に会えるから」
諦めたくない。昨日、シオンが言っていた処分という言葉が脳裏を過る。
処分なんてさせない。仁稀を説得して、事務所に戻って、姉妹を再会させるのだ。
「仁稀ちゃんが命を懸けて守った妹が待っている」
仁稀の顔がわずかに動いて、表情は変わらないままで彼女の瞳から涙が伝るのが見えた。
佐賀は突破口見出した気がした。
佐賀はその後もずっと仁稀の側にいた。妹の話をして、視えたことの話もした。
その声が彼女に届いていたかは分からない。それでも、佐賀は言葉を止めなかった。
「いつまでそうされているのですか」
閉じたままのドアから声がした。話し声からして、今朝食事を運んできた男だろう。
ちらりと時計を見ると、一方的に仁稀に話しかけてから三時間が経過していた。
「フタバはどうして処分対象なんだ」
「命令ですので」
誉が死んでからも、一族はずっと仁稀を手元に置いてきた。それは彼女に価値があるからで、一族の役に立つからだ。それがどうして処分されることになってしまったのか。
初めに仁稀の元に案内されたとき、うかつに触れると記憶を盗られる可能性があると言われた。ということは、彼女の能力がなくなってしまったわけではない。
「理解できないな……。記憶を奪うというのは一族にとって便利な力ではないのか?」
「シオン様がいれば彼女も用済みということでしょう。あなたと同じように」
同じ。そう言われて佐賀ははっとする。
「あなた様の力は不要を通り越して厄介でしたから」
「確かに」
思わずクスッと声が漏れた。
不要なサガラは外で生き延びることが許されたのだ。それなら、不要なフタバが外で生き延びることだって許されるはずだ。
「ここから出してよ」
「それはシオン様より許されておりません」
「彼はそんなに偉いの?」
ここに来てから彼よりも偉そうな人物に遭遇していない。
「あの方は次席ですからね」
「次席?」
佐賀は昨日のシオンの発言を思い返す。
「主席はヒトミか?」
「お答えしかねます」
まあおそらく間違いないだろう。彼からあと何を聞き出そうか考えていると、不意に仁稀が振り向いた。
「だして」
ドアの外に聞こえるくらいの大きな声。突然のことに驚いていると、それまで絶対に開けようとしなかったドアが開いた。
「失礼」
スーツ姿の男は昨日と同じサングラスをかけていて、ポケットから取り出した鍵で牢屋を開けた。
「どこに?」
牢屋が開かれると仁稀はゆっくりと外に出てくる。格子を掴む彼女の細い指。佐賀はその光景を目で追うことしかできなかった。
「サガラ様はこちらでお待ちください」
なんの説明もなく、仁稀は連れていかれてしまった。いや、自分から連れ出すように言っていたが。
鍵をかけられてしまい、佐賀はここに留まることしかできなかった。あの男がドアの前にいたのは仁稀が出たいと言うのが分かっていたからだろうか。
「もしも今のうちに処分されてしまったら……」
佐賀の記憶では、処分は記憶を抹消してどこかに棄てること。または、殺害することとなっている。記憶を消せるのは仁稀自身で、本人の記憶を消すことはできないとしたら手段は殺害に限られる。
「くそ……」
仁稀の動きからしても、あれはルーティンのような慣れた行為だ。だとしたら処分に直結している可能性は高くない。高くない、はず。
「離れるわけには……」
離れてはいけなかった。本当に仁稀を守りたいのなら。
そんな後悔をしながら、佐賀は明るい部屋で彼女の帰りを待った。
再び部屋が開けられたのはすっかり日が沈んで、僅かな光しか届かなくなった頃だった。木製のお盆にどんぶりを一つだけ乗せてスーツ姿の男が立っていた。
「夕飯です。遅くなってしまって申し訳ありません」
「……フタバは?」
「彼女は最後の役目を果たしているところです。しばらくは戻られません」
男は淡々と話す。お盆は佐賀の隣に置かれた。
「なんのために僕はこの部屋に入れられたんだ?」
仁稀と同じ部屋に佐賀を監禁していたのは。
「お答えしかねます」
「答える必要なんてない」
佐賀は目を見開いてドアの隙間に腕を通す。この指先が男に触れればすべて視ることができる。もしも男が仁稀の処分の日やその方法を知っていたのなら、それを回避する方法を、未来を変えることだってできる。
「感心しないなぁ。そういうズルは」
男に触れる寸前で誰かに腕を掴まれた。
「ねぇ、サガラ?」
腕を掴んだのはシオンだった。彼はドアを開けて、佐賀と目線を合わせて座り込んで優しく微笑んだ。
「知りたいんでしょう? あの子の処分の日。未来を変えたいんだろう?」
そうだ、佐賀は胸の内でそう答えて腕に触れるシオンの手から情報を読み取ろうとする。必要なのは情報だ。誰から集めるかは重要ではない。
「読み……取れない?」
何も情報が流れてこない。佐賀の指先から力が抜けていく。
「次は反対の目でもくりぬこうか?」
「なんで知って……」
麻野の命を守るために自ら抉り取った右眼。そのことを一族の関係者が知っているはずがないのに。
シオンは立ち上がって楽しそうに笑った。
「下位の能力は上位の人に効かないって思い出せなかったの?」
スーツの男が言っていた次席という言葉が思い出される。
「お前の力は僕には及ばない。お前が僕に勝つ方法なんてない。おとなしくあの子と自分の運命を受け入れなよ」
佐賀はシオンを見上げる。
「あー、いい顔! お前はそうやって恐怖を感じて震えあがってればいいんだよ。そのためにお前の感情を残してあげたんだから」
満足そうな表情でシオンは相良を見下ろす。
「さて、補給もできたしもうお前いらないなぁ。放っておくと根掘り葉掘り聞きだそうとして面倒だし」
「フタバは! あの子は生きているのか?」
シオンの前では何もできることはないと、佐賀の余裕はなくなっていた。佐賀が思い出せた記憶なんて彼の前では何の助けにもならない。
「その質問がウザいっての。分かれよバーカ」
そう言ってシオンは乱暴に佐賀の腕を引き寄せて、耳元で囁く。
次の瞬間、崩れ落ちるように佐賀の体から力が抜けた。明かりが遠のいていく。ドアが閉められたのだろう。
待って、そう言いたくても声が出ない。目も開けられないし、体が少しも動かない。床に触れている頬から冷たい感触が伝わってきた。
二人分の足音が少しずつ遠のいていくのが分かる。
『そのうち仁穂にも会いに行くよ』
最後の瞬間、耳打ちされた言葉で頭が埋め尽くされていく。意識が朦朧としてきて、佐賀はピクリとも動かなくなった。
『一緒に働くって何をするんですか?』
何もなかった部屋に無造作に段ボールが置かれている。机も椅子もないので、青年は膝上にパソコンを抱えながら床に座り込んでいた。
『探し物をする事務所なんてどうだろう? そういうの得意でしょ』
手あたり次第に段ボールを開けていく男はにっこりと笑って青年を見た。
『探偵みたいな感じかな』
『探偵って……あなたの場合チート感ありますけどね……』
『じゃあ探偵を名乗るのはやめておこうか』
男は楽しそうにしていた。
『どうして働くのですか?』
青年には男のやろうとしていることが理解できなかった。こんなことをしなくても仕事は与えられる。今のところは金銭的な問題もない。
『組織の目を逸らしたいから……かな。特に千宜の』
男は急に真面目な顔をして青年の方を向いた。
『僕の目的のために君の力を貸してほしい』
居場所をくれると言って連れ出した男のことを、青年は信頼していた。男の目的が何かなんて、そんなことはどうでもよかった。
『……いいですよ』
ガクン、と頭が前に倒れた衝撃で気が付いた。
頭がぼんやりしている。強い眠気と倦怠感に襲われながら、重たい瞼を何とか持ち上げて眼球を左右に動かす。体が背もたれに押し付けられるような感覚と、前方に座席があるのを見てここが車の中であることに気づく。
少しずつ頭が動き出す。左右の窓は外が見えないようにカーテンがかけられていて、右隣には正面を向いて黙って座っている仁稀の姿があった。
よかった、無事だった。
それに安堵して視線を落とすと、縛られた自分の手に厚手の手袋がつけられていることに気が付く。これが視ることを妨害するための道具だと理解するのに時間はかからなかった。
もう少し辺りを観察してみる。運転席にいるのはあのスーツの男のように見える。助手席には誰もいない。車は二列シートで、後方に座席はないが誰かが隠れている可能性もある。下手なことはできない。
「もう少しで着きますよ」
いつの間に起きたことに気づいたのか、男はそう声をかけてくる。だが、そのおかげで佐賀は確信した。スーツの男が屋敷にいた男と同一人物であると。
「……どこに?」
一体どれくらいの時間意識を失っていたのだろう。さっきまでは夜だったが、外はとっくに日が昇っている。
空腹感が急に押し寄せてきた。
「数日間眠っていたのですから、お腹が空いたのでは?」
腹の音が聞こえたのか質問を無視してスーツは話をする。気を遣っているように見えて、何か食べ物を差し出すわけでもない。
「数日間も?」
「ええ」
そのせいか、頭もうまく働かない。どうして車に乗せられているのだろう。どうして寝かされたのだろう。
フロントガラスから外を見ると木がたくさんあった。あまり広くない道。特徴がなさ過ぎて、通ったことがあるのか、ないのかもよくわからない。
「ここは?」
スーツは質問に答えなかった。どんな質問にも答えるつもりはないということだろうか。
「ここから少し揺れますよ」
その言葉通り、車が上下左右に揺れる。タイヤが砂利を踏む音がよく聞こえてくる。どうやら舗装された道路から外れたらしい。
それから、誰も発言をしないまま車は進んでいった。
「さて」
しばらくして、その声と共に揺れが止まった。スーツはバックミラー越しに佐賀と目を合わせる。
「彼女は本日処分することになっています」
「⁉」
ぼんやりとしていた頭が一気にクリアになる。
今の状況からどうやって彼女を助け出すことができるか、一瞬で考えを巡らせた。
「が、勝手にここまで連れ出しました」
「え?」
スーツは顔色を変えない。
「彼女もあなたも開放してあげます」
彼はそう言って車を降りて、佐賀の座席のドアを開ける。そして、躊躇いなく腕の拘束を外した。
「降りてください」
言われるがままに車を出ると、甘い香りが鼻に届いた。そこはオレンジ色の花で埋め尽くされて、既視感を抱いた。間違いない、ここは視たことがある場所だ。
「そのキンセンカの花畑を越えて、下ると人里に出ますから」
スーツの男は仁稀の手を取って、彼女も車から降ろした。
ずっと、彼はシオンの言いなりでどちらかというと敵なのだと思っていた。
「ありがとうございます」
彼のおかげで仁稀を守れる。彼女を仁穂に合わせることができると、熱い思いが込み上げてくる。
「仁稀ちゃん、行こう」
佐賀は仁稀の小さい手を取る。花畑に足を踏み入れて、佐賀は手を引いていく。
「サガラ様」
男に呼び止められて、佐賀は振り返る。
「一つ、忘れていました」
振り返ったとき、男が何かを持っているのが見えた。次の瞬間、大きな音がして、まるでスローモーションのように仁稀の体がオレンジの花の中に呑まれていった。自分の手の甲に赤い液体が跳ねていた。
「仁稀ちゃん!」
佐賀は座りこんで彼女の体を抱き起す。男の方を振り返るとちょうど車が去っていくのが見えた。
「仁稀!」
彼女の白い服がみるみるうちに血で染め上げられる。
「死んじゃだめだ、君は仁穂ちゃんの唯一の家族だから、君たちはやっと一緒に居られるから」
佐賀の瞳から涙が溢れて、それが仁稀の頬に落ちる。微かに開いていた彼女の瞳が揺れた。
「仁稀ちゃん、お願いだ、生きてくれ」
少女の口角が少し上がるのが分かった。
「つたえて……いきてくれて……ありがとうって」
「だめだ、仁稀ちゃんが自分で伝えるんだよ」
彼女の顔が青白くなってく。触れた手は冷たく、力が入っていない。
「おたんじょうびおめでとう……だいすきだよ、仁穂」
彼女は目を閉じる。
「仁稀!」
生きて欲しい。生きて戻って、仁穂と再会して、二人で幸せに暮らしてほしい。
あの事務所で二人が笑っている姿を見せてほしい。
「死なないで……」
腕の中の彼女はもう動かなかった。
サガシヤ事務所は依頼と真実を探している【完全版】 白瀬シキ @shirase_shiki
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