12.5 Rupture

 これは千宜が組織の人間として仕事を始めた頃の話だ——。






 血を吐きそうなほどの忙しさで日々が過ぎていく。気が付けば夜だし、気が付けば朝だった。この苦しみからは逃れられないのだと、相良を守ることと引き換えになのだと千宜は何度も何度も言い聞かせた。

 千宜が彼女と出会ったのは分厚い雲に空が覆われて、月や星が何も見えなかった真っ暗な夜の日だった。


「あのー、すいません」


 狭い路地裏に現れたのはショートパンツをはき、もこもことしたパーカーに身を包んだ同年代の女の子だった。

 組織の任務を遂行している途中だった千宜は想定外の通行人に近づく。


「何をやっているんですか、今ここは立ち入り禁止です」


 他の人間に気づかれないように、彼はできるだけ声を押し殺した。


「あー、迷子……的な?」


 少し困った顔で笑う彼女。迷子的なってなんだよ、そう言いたくなる気持ちを抑えながら人通りのある道まで彼女を送り届ける。


「こんな遅くに一人で出歩くものじゃない。すぐに帰って寝てください」


 持ち場を離れたことが発覚したら問題になる。一刻も早くこの面倒くさそうな女の子に立ち去ってほしかった。

 だけど、彼女は動こうとせず、その場で指先を絡めている。


「えーと……行くところがなくて……」


 彼女はやっぱり困った顔で笑った。

 その時、無線から作戦終了を告げる連絡が入った。

 千宜はため息をついて彼女を連れて帰ることにした。もう時間も遅いから、本当に仕方なく。


「おかえり、千宜」


 いつもみたいに帰宅を起きて待っていた相良が玄関に走ってきた。


「ただいま」

「誰?」


 千宜の隣に立つ人を見て、相良はほんの少しだけ嫌な顔をした。


「一泊させるだけだ」

「弟さん? 初めまして」


 彼女は笑顔でひらひらと手を振った。


「あんまり似てないね」






 約束通り、彼女は翌日家を出てどこかに行った。

 相良と二人のいつも通りの毎日。数か月がたって、彼女のことなんてとっくに忘れていた頃、いつも通りの巡回中に千宜は彼女を見つけた。

 彼女はタクシーから降りてくるところだった。一緒に降りてきたのは中年の太った男。顔が紅潮した男は彼女の腰に手を添えてぐいぐいとホテル街に誘導していた。


「あー、ちょっとすみません」


 気が付いたら声をかけていた。目を合わせると先に彼女が逸らす。彼女は千宜の顔を覚えているようだった。


「なんだよ、あんた」

「えーっと、その方とどういう関係ですか?」


 無計画に首を突っ込んでしまったので、どう対処したらいいのかを考える。


「あんたに関係ないだろ」


 仰る通りだ。千宜は彼女の名前すら知らないのだから。幸か不幸か、千宜の仕事着はスーツなので見た目だけでは警察だとは分からない。


「あー、迷子?……的なやつで」


 頭を掻きながら言うと彼女の瞳が大きく開いた。


「道、こっち行けば分かるから!」


 彼女はそう言って千宜の腕を取って走り出す。それに慌てて男は追いかけてこようとするが、重たい体がネックになって姿はどんどん遠くなる。


「あはははは!」


 長い髪をなびかせながら走る彼女は口を大きく開けて楽しそうに笑っていた。


「お兄さんもっとまじめな人かと思ってた」

「真面目だよ……」


 乱れた呼吸を整えるために彼女は公園のベンチに腰を下ろした。


「こんな女を二回も助けてくれるんだね」

「あいつ誰だ……ですか」


 一応仕事中なので、言葉遣いには気を付けなくては。


「あの人はねー、ネットで出会った人。今晩泊めてくれるって言うから」

「どう考えてもアウトですよね……。家は? 家族の人は?」

「帰りたくないの」


 彼女は顔を上げてこちらを見た。その瞳が少しだけ潤んでいるように見えた。


「……毎晩こうやって?」


 初めて彼女を見たときのように、家に帰らず過ごしているのだろうか。


「違うよ、兄がいる日だけ。帰りたくないのはその日だけよ」


 そう言ってぽつりぽつりと自分の話を始めた。彼女は国立大学の教育学部に通う桑田なずなだと名乗った。


「元々、兄は私が通っている大学に行きたかったの」


 だけど、成績が足りず、諦めて少し離れた大学に進学した。その数年後になずなが合格したのを知って豹変した。


「すぐ殴ってくるし、怖いからってお父さんもお母さんも止めないの」


 いつもは一人暮らしをしている兄がいつ帰ってくるのかはギリギリまで分からないという。


「兄と久しぶりに会った日は酔って帰ってきたから最悪だったよ」


 なずなは困った顔で笑った。それを見て、千宜はため息をつく。


「じゃあ、そういう日はうちに来て」


 千宜はスーツの胸ポケットから警察手帳を取り出す。


「俺は麻野千宜です。あなたに変なことしませんから」

「いいの?」

「一つだけ、お願いがあります」

「なに?」

相良おとうとの勉強を見てもらえませんか?」


 相良は義務教育を受けられていないし、きっといい刺激になるだろうと思っての提案だった。

 こうして千宜となずなは出会い、相良と三人で過ごす時間は少しずつ増えていった。






 時間が経つといつの間にか相良はなずなになついていた。単純になずなが勉強を教えるのが上手だったというのもあったのだろう。


「相良くんは覚えがいいね」


 仕事帰りの千宜に、にこにこしながら報告してくる。


「最近あいつの表情豊かになった気がする」


 両親が亡くなってから相良の表情はまた乏しい状態に戻ってしまっていた。しかし、表情豊かな彼女と共にいる時間が増えたことで相良も明るくなってきた。


「そうだね」


 なずなは嬉しそうだった。

 彼女のそういうところに救われていたのは千宜も同じだ。

 なずなは相良の力のことも、両親がどうして死んだのかも知っていた。だからこそむやみに相良に触れようとはしなかったし、接触を嫌がる相良の気持ちをずっと尊重してくれている。


「私、二人に会えてよかった。居心地良すぎて帰りたくなくなるくらいだよ」


 初めて会ってから七か月がたっていた。


「じゃあ、結婚する? そしたらずっとここに居られるけど」


 その言葉は自然と出た。ぽかんと口を開けた後、頬を赤らめる彼女の顔を、生涯忘れることはないだろう。






「それで、結婚するの?」

「へ⁉」


 なずなの声が裏返る。


「な、なんで知って……」

「昨日声聞こえたから」


 土曜日の日中だが、休日も出勤がある千宜はおらず、二人はいつも通りリビングで勉強をしていた。


「いや、あれは勢いというか、なんというか……そもそも付き合ってないし、好きとも言われてないし……」

「じゃあ好きじゃないの?」


 相良はただ、三人の時間が続けばいいと思っていたから反対する理由などなかった。


「それはまた別の話で……」


 モジモジと恥ずかしそうに指をこねる。


「あ、そこは……」


 相良の間違いを指摘しようとしたとき、ポロリと消しゴムが落ちて行った。それを拾おうと伸ばした手の指先が相良に触れた。


「ごめんなさい!」


 なずなは慌てて手を引っ込める。しかし、それでは遅かった。この世の終わりのような顔をした相良がなずなを見た。

 彼女は全てを察した。


「本当に、表情が豊かになったね……」


 なずなは悲しそうに微笑んだ。






「おい、相良!」


 なずなは千宜にメールを残して自分の家に帰ってしまった。今までもずっと麻野家にいたわけではないから、それ自体は問題ではない。メールに書かれていた自分の死を悟ったということに関して、千宜は怒っていた。


「視たのか⁉」

「うん」


 台所で夕飯の支度をしている相良は背を向けたままあっさりとそう答える。

 千宜は肩を掴んで自分の方を向かせるとそのまま胸ぐらをつかんだ。


「分かっていてどうして見殺しにするんだ」

「料理中、邪魔しないで」


 質問に答えない相良に腹が立った千宜は思いきり殴り飛ばした。


「ふざけんなよ……」

「父さんと約束した!」


 相良は言葉を遮って叫んだ。


「この約束を守るために父さんと母さんも見殺しにしたんだ……」


 その瞳には涙が浮かんでいる。


「たとえ何があっても未来を変えるつもりはない」


 相良は千宜を睨みつけた。


「……何を視たんだ」

「言わない」

「そのくらい言えよ!」


 このままだとなずなは死んでしまう。それは分かっているのに、どうすることもできない。父と母のときと同じだ。


「だったらなんで俺のことは助けた……」


 その瞳を失ってまで。


「もう次は……助けるつもりはない」

「……そうかよ」


 千宜はコートを手に取り家を出て行った。

 相良が座り込んで、声を殺して泣いていたのを千宜が知ることはなかった。






「喧嘩したの?」

「うん、千宜が一週間帰ってきてない」


 自分が死ぬことを知った後も、なずなは麻野家を訪れていた。


「そう……なんだ……」


 なずなが暗い顔をしているのが分かっていたが、相良にはどうすることもできない。


「きっと事件でも追いかけているんだよ……」


 そんなこと思っていないのに、相良の口から勝手に言葉が出た。本当はなずなを死なせないためにどうしたらいいかを考えているのだろう。

 相良が視たのはなずなのお葬式の景色だった。そこには初めて見る、薄ら笑いを浮かべた人がいて、一目でこれが件の兄だと分かった。


「事件……」


 なずなははっとしたように立ち上がった。


「私、用事があったんだった!」

「え?」

「ごめんね、行かなきゃ」


 ばたばたと荷物を片付けてあっという間に家を出てしまった。急にどうしたんだろう、と思いながら勉強を続けていると彼女が手帳を忘れていることに気が付いた。


「忘れ物……」


 恐る恐る触れたが、特に何も視えなかった。それに少し安堵しているとその手帳に紙が挟まっていることに気づいた。


「なんのメモだろう?」


 なんとなく、気になって紙を見ると、そこには千宜に宛てられた文章が並んでいた。

 初めに助けてもらえてよかったとか、結婚を持ち出してくれて嬉しかったとか、兄弟仲良くしている姿を見るのが楽しかったとか。


「『私は千宜くんが好きです』」


 その言葉が遺書のようで、気が付いたら相良は家を飛び出していた。


「千宜、早く、早くしないと、間に合わないよ……!」


 それを伝えることはできない。相良は地面に触れて彼女が辿った道を視る。


「あっちだ」


 余計なことは何も考えていなかった。彼女が向かった廃ビルに着くと辺りを見渡して姿を探す。


「なずな……! 千宜!」


 止めて欲しかった。自分が視る死を、この連鎖を断ち切ってほしかった。


『私が不仲の原因になるなら、どうせ死ぬんだし早くいなくなった方がいい』


 声が、聞こえた。


「なずな!」


 見上げた空から何かが落ちるのが見えた。

 相良の手にはなずなの告白が書かれた紙が握られていた。その紙の最後には『出会ってしまってごめんなさい』と書かれていた。






 桑田なずなの葬儀に千宜と相良は二人で出席した。その場には薄ら笑いを浮かべた彼女の兄もいた。

 遺影の彼女は笑っている。何度も見せてくれた優しい笑顔だ。もう二度と見られない笑顔だ。

 あれからずっと考えている。死ぬべきはこの奇妙な力を持つ自分なのではないかと。自分の存在が彼女も、両親も殺してしまったのではないか。


「俺は仕事があるから、お前はまっすぐ帰れよ」

「うん……」


 一人の道をゆっくりと歩いていた。この道は何度か歩いたことがある。両親と共に、なずなと一緒に。燃え上がるような夕焼けが辺りを照らしていた。

 川にかかる大きな橋まで歩いたとき、顔色が悪い一人の女の人が悲しそうな顔をして川を向いているのが見えた。

 相良には彼女がひどく思い詰めていて、今にでも身を投げ出しそうに思えた。


「死ぬなら心中しない?」

「え?」


 たぶんきっかけは何でもよかった。楽になりたいという衝動に駆られて相良は手すりを飛び越えて身を投げ出した。


「ちょ、は⁉」


 橋にいた女性は相良に驚きながらも助けるためにと川に飛び込んだ。

 橋は思ったよりも高さはなくて、川の流れは穏やかで、相良はあっさりと助け出されてしまった。


「何してんの……」


 女性はゴホゴホと咳をした。


「確かに死にそうな顔してたかもしれないけど、元からこの顔……」

「……なんだ」


 水を吸った服が重たい。髪から垂れた水が河原を濡らしていくのを見ていた。

 助かってしまった。どうしたら死ねるだろう。どうしたら償えるだろう。どうしたら許されるだろう。


「……でも、あんたが本当に心中してほしいならしてもいいよ」

「え?」

「だけど、死ぬときは私が決めるから。それまではあんたもおとなしく生きて」


 彼女は力強い瞳を向けて言った。


「悪くないね……」


 そして彼女は相良が唯一恐れず触れることができる存在となる。


 その後、相良は源氏名でサガシヤを始めることとなる。最期を約束した相手のすぐ近くで。






「せん……さ」


 ベッドに横たわる涼が声をかけてきて千宜ははっとする。


「気が付いたか」


 彼女の瞳は千宜を捉えていた。


「今、昔のことを思い出していたんだ。なずなのことを」


 あの時相良を助けた女性がなずなの友人だったということは後から知った話だ。


「しぬ……やくそく……てるのに」


 涼はもう長くは生きられない。けれど、相良を生かすために共に死ぬ約束をしてくれたことを千宜は感謝していた。

 涼が心配しているのは相良と共に死ねないことではなく、相良を生かす口実がなくなってしまうことだと千宜にはわかっている。


「ありがとう。あなたのおかげで弟はここまで生きている」

「さきに……ずなに、あいにいく……わ」


 涼はわずかに笑った。


「俺たちに巻き込んでしまってすまなかった」


 千宜は頭を下げる。

 すると、ドアがノックされてあすみが病室に入ってきた。

 相良が涼の死を知っていたのか、知らなかったのか、千宜は分からなかった。知っていたとしても、一族の件が解決するまで死ぬことはないだろう。


 こうしてまた一人、相良の味方はいなくなってしまった。

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