12. 真実を追う人・後
「うーん……」
ブラインドから細い光が入り込んできている。何だか少し遠くに感じる色の違う天井をぼーっと見つめていた。
「どこだここ?」
むくりと起き上がって鍵のかかったドアが見えた。横を見つめると使い慣れた掃除道具が置いてあった。
そうだ、事務所に泊まったんだ。
「ふ……ぁ……」
欠伸交じりに腕を上げて伸びをする。こんな狭い場所でも眠れる私はすごいのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は視線をテーブルに向けた。そこには昨日持ち帰ってきた一冊の本が置かれている。まるで本当に発行された正式な書籍のように見えるそれは実際には存在しない本だった。
「よくわからない……」
あの後、私は夜更かしをしてこの本を隈なく読んだ。ゆっくりゆっくりと、一文字ずつを追いかけた。けれど、何も見つけることはできなかったのだ。
「佐賀さんは今頃、どこで何をしているんだろう」
差し込んだ光が佐賀さんの本棚を照らしている。
もしかしたら、ここにも何かヒントが残されているかもしれない。
私は立ち上がって、なんとなく目についたファイルを取った。ここにあるのは本というよりも資料ばかりだ。たくさんある資料を私は今まで真面目に読もうとしたことがなかった。
今までサガシヤがやってきた依頼や、協力者として関わった事件の資料。そこには私の知らないサガシヤがあった。
「一つの事件に一冊以上の資料……」
佐賀さんはそうやって丁寧に仕事をしてきたのだろう。その隣の本棚からも適当に一冊取り出して開く。開いてすぐに大きく①と書かれていた。
どういう意味だろうと思いながら、次のページへ進む。そして、そこに書かれた文字を見て、私は驚いた。
「塚皐月……」
これは皐月くんに関することがまとめられているファイルだ。名前、出身といった個人情報から、どのように佐賀さんと出会うか佐賀さんが視たものが緻密に書かれている。それは、以前から聞いていたことと大きな違いはなかった。
「視たものもまとめていたのか……」
だとしたら、このどこかに仁穂ちゃんに関するものや、スイステラに関するものもあるのかもしれない。
そう思って、他のファイルを手に取ろうとしたとき、私のお腹が鳴った。空腹には耐えられそうもない。
「あすみさん」
ちょうどその時誰かがドアをノックした。声からして皐月くんだろう。
「おはようございます」
私はそう言ってドアを開ける。まだ眠そうにソファーに横になっているイチくんが目に入った。
「あの人寝起きの機嫌すごく悪いんですよ」
欠伸をひとつした皐月くんはヤカンに水を入れて火にかける。朝食のカップ麺を用意するためか、お茶を淹れるためか。
「社長がいなくなるのは初めてじゃないらしいですよ」
「え?」
思ってもいなかった言葉に驚いた。
「麻野さんから軽く聞いた話でしかないですけど」
「それってどういうこと?」
「麻野さんが監視対象を見失ったのは前にもあったということです」
麻野さんは佐賀さんたちを守るために少しでも早く出世しようとしていて、今だってたくさんの仕事を抱えているのに。佐賀さんは勝手にいなくなって麻野さんの足を引っ張っている。それが、前にもあった。
「その時に涼さんと出会ったらしいです」
「涼さんと……」
「涼さんはサガシヤの下で僕らの監視をしているってことです」
皐月くんはカップ麺を手に取り蓋を半分開けた。
「なんで急にそんな話を……?」
「……前に失踪したときの原因は麻野さんの婚約者が亡くなったせいなんです」
婚約者が亡くなった。その言葉が頭に響く。
同時に、麻野さんから聞いた両親が亡くなった時の話を思い出した。
「佐賀さんは、その死も視えたの?」
ピーっとヤカンが鳴いて皐月くんは火を止める。
「そこまでは聞いていません。ただ、こういう話ももしかしたら役に立つのかなって思って」
私は持ち帰ってきた本に視線を移した。『意味のない生物』というタイトルの本。著者名は『ヒカン』と書かれているが、正式に発行された本ではないためこの本を書いたのは家主である仁穂ちゃんのお父さんの可能性が高い。少なくとも、仁穂ちゃんのお父さんと関わりがある人物に違いないだろう。
「役に立つ情報か……」
この本はおそらく佐賀さんが手に取った。だとすればこれは役に立つ情報なはず。
少しもヒントを見つけられなかったのは探し方が間違っているからだろう。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
皐月くんは作ったカップ麺を私の元まで運んで来た。
「皐月くんは仁穂ちゃんのお父さんのことどのくらい知っているの?」
「僕が知っていることは既にあすみさんも知っていると思います」
仁穂ちゃんが皐月くんに自分の話をしている姿は想像できないし、きっとそれは事実なのだろう。
私は何をすればいいんだろう。佐賀さんを見つけるために。
「『意味のない生物』ってタイトルなかなか過激だよね……」
私はカップ麺の蓋を剥がしてパキンと箸を割る。
「どんな事が書いてあるんですか?」
「……鬱になりそうなこと」
大多数の生きている意味のない人間と、生きている意味がある人間の違いが書いてあるような感じだった。生きている意味のない人間は差別され、最終的に処分される。
書き方的に、著者は生きている意味がない側の人間に感じる。だとすれば、『ヒカン』は『悲観』ということなのか。
「なんか、仁穂ちゃんのから聞くお父さんのイメージと違うんだよなぁ……」
「でもそれって結構昔の記憶なんでしょ」
目が覚めたイチくんが事務所から姿を現す。
「子どもの頃の記憶って結構脚色されているでしょ」
イチくんの言うことも間違っていないと思う。だけど、仁穂ちゃんにとってお父さんと過ごした時間はかけがえのないものなのだ。
「いつかまた三人で暮らそうって。その言葉は本当だと思う」
仁穂ちゃんの双子の姉と三人で。離れてしまった家族が一緒になるために、仁穂ちゃんのお父さんは頑張っていたはずなんだ。
「どうして姉だけ離れて暮らしていたの?」
「どうしてだろう……?」
私たちは互いを見つめ合う。まだ、調べなくてはいけないことがある。何をすべきかわかった気がした。
ちょうどその時、事務所のドアが開く音が聞こえた。
「おはよう」
その声を聞いて、私は事務所に飛び出す。
「おはよう、仁穂ちゃん」
そこにはいつも通りの仁穂ちゃんがいた。昨日のこともあったから、勝手にどこかに行ってしまうのではないかと心配していたが杞憂だったようだ。
「ちゃんと考えたんだ」
「うん?」
「あいつを追えばお父さんの居場所がわかるのかもしれない。だとしたら、私のやるべきことはあいつを探すことだって」
そう言うと仁穂ちゃんは私たちに頭を下げた。
「私もサガシヤとして、あいつを探させてください」
私は仁穂ちゃんに歩み寄り、その肩に手を置いた。
「絶対見つけよう。佐賀さんも、お父さんも」
その後ろで皐月くんとイチくんは視線を合わせていた。
「まずは飯食いましょうよ」
「そうだね」
朝食がまだだった私たちは急いでカップ麺を啜り、昨日みたいにテーブルを囲んで座った。
「それじゃあ、始めようか」
私は手元に紙とペンを用意して、仁穂ちゃんの話を聞く体勢を整えた。
「お父さんの話を聞かせてくれる?」
彼女はこくりと頷く。
「お父さんはすごく優しくて、
「仁稀は姉だっけ?」
「うん、双子の」
イチくんの質問に仁穂ちゃんは答える。最近サガシヤに加わったイチくんには知らない話も多いだろう。
「名前はどうして知っているの?」
「お父さんが教えてくれた。仁稀の漢字も」
仁穂ちゃんのお父さんは仁稀ちゃんのことを覚えていて欲しかったのだろう。
「お父さんの名前は? ヒカンとの関係は?」
そう聞くと仁穂ちゃんは黙ってしまった。
「……わからない」
お父さんのことはずっとお父さんと呼んでいたし、お父さんを名前で呼ぶような親しい第三者と会うこともなかった、と仁穂ちゃんは言った。
「じゃあ仁稀ちゃんのことで知っていることは?」
「仁稀のことは名前しか知らない……会ったこともない」
「写真も?」
「うん」
私とイチくんは困った顔を合わせた。
「その姉はどうして別のところにいたの?」
「仁稀は……」
仁穂ちゃんの言葉が詰まって、彼女は急に立ち上がった。
「仁稀は一人じゃないって言ってた……気がする」
「誰かと一緒だった?」
彼女は少し辺りを見て再び着席した。
「なんかすごいことを思い出したような感じがしたけれど、そんなことなかった……」
落ち込む仁穂ちゃんを見て、今のやり方ではだめだと痛感する。
「そういえば、隣室にあるたくさんのファイルの中に皐月くんの情報が書かれた物を見つけたの。もしかしたら仁穂ちゃんについて書かれた物もあるかもしれない」
そう言うとイチくんが立ち上がって伸びをした。
「たくさんあるけど四人がかりならすぐ終わるっしょ」
その言葉に頷いて、私たちは隣室に移動する。順番がバラバラになっているたくさんのファイル。棚を四区画に分けて、それぞれの担当範囲を捜索していく。
全てのファイルにある資料の一枚ずつに目を通していく。
「なんか最近こんな作業ばかりだなぁ」
「サガシヤの本来の業務だよ」
面倒くさそうなイチくんに私はそう言う。佐賀さんがいるとすぐに見つけてしまうけれど、本来はこうやって一つ一つ丁寧にやっていくのだろう。
サガシヤにある資料は膨大な量で、全てに目を通すまでに二日間を要した。
その間に見つかったのは鈴鹿仁穂と書かれたファイルが一つ。しかし、そのファイルの中身は空だった。
もう一つ、不思議なものが見つかった。それには仁穂ちゃんとお父さんの家の住所が書かれていて、その隣には『ホマレ』と書いてある。この紙は全く違うファイルの中に挟まれていた。そのファイルは千石智里さんに関わる依頼の資料が管理されているものだった。
「どういう意味なのかねぇ」
顎をさするイチくん。
どういう意味なのか。これは佐賀さんがわざと移動させたのか。それともただ間違えただけで意味なんてないのか。
「意味がない……」
私はぽつりと呟く。
「意味がない……?」
仁穂ちゃんが不思議そうに私を見てきた。
意味がないという言葉を、私は聞いたことがある。ファイルを開いて、少し乱暴に紙を捲る。
「これだ……」
そこにはスイステラの生体が書かれていた図鑑のコピーが貼り付けられていた。
「意味を持たない花、スイステラ」
そして私は立ち上がり、隣室から一冊の本を手に取って戻ってきた。
「この本、『意味のない生物』は、存在する意味がないんじゃなくてスイステラだよ」
点と点が結ばれていく。
スイステラは本来「あまりの美しさに見た人が言葉を失うから意味のない花」とされている。この本は意味があることに価値を見出しているような逆の書き方をしているから気づかなかったんだ。
私は時系列を整理した紙を取り出す。
「佐賀さんは智里さんからの連絡を貰ってスイステラを見に行った。そこでスイステラと仁穂ちゃんのお父さんの関係を視た」
そして、佐賀さんはいなくなった。
「仁穂ちゃんの家に行って、この本を見て、どこかに行った……」
佐賀さんが一人で行動したことを考えると、やはり一族が関わっているのだろうか。
「私、明日もう一度仁穂ちゃんの家に行ってきます」
また別のことに気が付くかもしれない。イチくんはこくりと頷いてくれた。
「篠木さんにそのことは伝えておきます」
皐月くんは素早く立ち上がってパソコンの前に移動する。
「私も行……」
行く、そう言おうとして仁穂ちゃんは言葉を止めた。明日は最後の卒業式練習の日だ。彼女は学校に行かなければならない。
私はテーブルの上に置かれたカレンダーを見る。
佐賀さんが出席したいと言っていた卒業式は明後日に迫っていた。
「なんでもない……」
麻野さんは仁穂ちゃんの家の存在をずっと隠してきた。それは仁穂ちゃんが過去にこだわって今を蔑ろにしないようにするため。普通の学生として生きていけるようにするためだ。
その日の晩に、仁穂ちゃんはぽつりと呟いた。
「あいつ本当に帰ってくるのかな……」
私には佐賀さんの思考なんてわからない。けれど、返答は決まっていた。
「絶対、連れ戻すよ」
あなたの保護者として卒業式に出席できるように。
仁穂ちゃんを学校に送り出して、その後すぐにイチくんが車に乗って現れた。
隣に篠木さんは乗っていなかった。
「おはようイチくん。篠木さんは?」
いくら何でも私たちだけで勝手に動き回るのは怒られてしまうのでは。
「忙しくてついていけないから勝手に行って、ってさ。向こうにいる警察官に話は通してくれているらしいよ」
私は車に乗り込む。
本当にそんなことをして怒られないのだろうか。これが許されるようになるなら、麻野さんが権力を欲している気持ちがわかる。
「道覚えているの?」
「いや、住所教えてもらった」
イチくんは慣れた手つきでカーナビの設定を始める。
「でもお嬢ちゃんには伝えるなってさ」
その言葉にちくんと胸が痛む。自分の家の場所さえも知ることが許されないのか。
仁穂ちゃんは午前中で学校が終わって帰ってくる。私はそれまでに何かを見つけたいところだ。
「皐月くんはお留守番?」
サービスエリアに行ったときに珍しく外に出てきたが、それ以降で彼が外に出るところは見ていない。サガシヤに関わっていることだから来てくれるかと思ったのだが。
「いや、病院」
「病院⁉ どこか具合悪いの?」
思わぬ返事に私は衝撃を受ける。
「警備員くんじゃなくて、一階のお姉さんが今朝倒れてて」
救急車を呼んで付き添いとして皐月くんが同乗したらしい。
「涼さん大丈夫なの?」
「わかんない」
イチくんは慌てることもなく順調に車を走らせていた。
「俺らが今できることはボスを見つけることだけっしょ」
彼の的確な言葉に私は落ち着きを取り戻した。確かにその通りだ。涼さんの側には皐月くんがいる。何かあったら連絡してくれるはず。
私たちの最優先は佐賀さんを見つけることだ。
「そうだね」
カーナビが次の角を左折するように言った。
車は少しずつ狭い道を通るようになり、人通りが減り、そしてあのアパートが姿を現した。
「何を探すの?」
イチくんは路肩に車を停めてエンジンを切る。
「私、ずっと変だなって思っていて」
「変?」
そう聞き返されてこくりと頷く。
「智里さんの家にスイステラを見に行ったのも、仁穂ちゃんの家に行くのも、隠そうと思えば隠せそうなのに、全部私たちは辿ることができている」
智里さんには私に連絡をするように言っていて、仁穂ちゃんの家に行くことは麻野さんに言っていた。
「まるで佐賀さんがついてこいって言っているみたい」
鞄の中に入れてある本だって、一冊だけ並び方が違うから気づいたのだ。佐賀さんが意図的にヒントを残しているように思えた。
「確かに、そうかも」
「だとしたら絶対、この先の行動が分かるものが残されていると思うんだ」
「探してほしいってことか……」
まるでちょっと面倒な恋する女の子みたいな。
どうしてこんな面倒な方法を選択するのかは分からないけれど。
「行こうか」
イチくんがそう言って車を降りる。警察官が車に気づいて近づいて来ていた。
私たちは名前や目的を告げる。篠木さんがしっかりと連絡をしてくれていたのでスムーズに屋内に入ることができた。
「……おじゃまします」
部屋は相変わらず埃っぽい。極端に荷物の少ない部屋。必要最低限の物しか置いていない。幼い仁穂ちゃんが遊んでいたであろうおもちゃだってほとんど置いていない。
現場は発見当時のままにしていると麻野さんは言っていたし、仁穂ちゃんも荷物が減っているとは言っていなかったから、元々物が少ない家だったのだろう。
そんな部屋の中で物が密集しているところが二か所ある。一つはあの本を発見した本棚。もう一つが和室の置かれていた箪笥だ。少しだけ開いている二段目には小さな女の子用の服が見える。少なくとも二段目はぴっちりと服が入っていそうだ。
「うーん……」
本棚とにらめっこしているイチくんがうなっている。
私は箪笥に手を伸ばした。
現場を勝手に荒らすと怒られかもしれない。だけど、私にできることは。
「え、なにやってるの⁉」
慌てたイチくんが和室に入ってくる。私は箪笥を全て引き出して、中のものを広げ始めた。
「イチくんも手伝って。何でもいいから手がかりを探さないと」
「お、おう……」
二段目が開いていたということは佐賀さんが開けた可能性があるということだ。まずは二段目の服を全て出した。
「全部子ども服かよ」
畳まれた服を一つ一つ広げて何か手がかりが無いかを探す。
しかし、それらしいものは何も出てこなかった。
「次」
今度は一番上の引き出しを開ける。今度は大人の、男性用の服だ。仁穂ちゃんのお父さんのものだろう。
「こっちはあんまり量無いね」
子ども服に比べたら半分くらいだろうか。無地やボーダーなど、シンプルな服ばかりだ。
「ワイシャツがあるね……」
重ねられた服の下の方に少し黄ばんだワイシャツを二枚見つけた。私は部屋を見渡すが、スーツらしいものはない。
「父親はスーツを着ていなくなった?」
イチくんが私の手元を見ながら言った。
「かもしれないね……」
同じように三段目を開ける。
「また子ども服かよ」
イチくんが一番上にあったワンピースを取り出す。
「ん?」
「どうしたの?」
「これ、さっきも見たぞ」
彼は再び二段目の引き出しを開けてそこから全く同じワンピースを取り出した。
「本当だ」
この二つの内のどちらかは仁稀ちゃんのものなのだろう。
三段目の子ども服は二段目と色が違う物も多かった。それでも、何もヒントになりそうなものはない。
四段目には何も入っていなかった。
「なんもなかったなー」
広げてしまった服を畳み直す。
開いていた二段目に何かあると思ったのだけれど。
「そんな単純なことじゃないのかも……」
あの本だって、著者の名前順になっていたし。二段目に関係あるけれど、二段目は関係ないようなことかもしれない。
その時、ふと前に受けた依頼のことを思いだした。箪笥に固定されたからくり箱を開けるというものだ。あの時も箪笥の絡む依頼だった。
私はもう一度二段目を開ける。
その時は一番上の引き出しを外して、天板の裏側の細工を見つけたんだ。もしかしたら、とわずかな期待を持って、私は一段目の底の裏側を手の平で探る。
「あ」
小指が何かに触れた。
何かはテープで留められているようだった。引きはがして手を抜くと一枚の紙が姿を現した。
「日付と……場所?」
乱暴に殴り書きされた文字。そこに書かれている日付は明日。隣には時間も書かれていて、仁穂ちゃんの卒業式の時間と重なっていた。
ここに来い、と佐賀さんが言っている。
私の手からイチくんが紙を取り上げた。
「キンセンカの花畑?」
「仁穂ちゃんの卒業式は……」
膝の上で拳を握った。
不意に、スマホの着信音が響く。相手は皐月くんだった。
「もしもし」
『涼さんのことでお話が……』
言葉の後ろの方がもごもご言ってよく聞き取れなかった。
『涼さんもう長くないかもしれないんです……』
頭の中がパンクしそうだった。もうどうしたらいいのかもわからない。耳に当てていたスマホを持つ右手が力なく床にぶつかった。
「行くぞ!」
その声で私は現実に引き戻される。急いで立ち上がり、車に乗って病院に向かった。
震える両手を組んで、ただただ神様に祈る。
「皐月くん!」
病院に着いて、病室が並ぶ前の廊下に一人で座っていた皐月くんを見つけた。
「涼さんは?」
「この病室に。今は麻野さんが中にいます」
麻野さんが駆け付けるくらいには涼さんの容体は良くないということだろうか。そんなこと信じたくない。
「容体は落ち着いているの?」
「予断は許さないそうです……。今はかろうじて意識を取り戻しましたが」
脳梗塞によって意識を失っているところを発見された。奇跡的に意識を取り戻したが血液の状態は血栓を作りやすく、血管壁はもろくなってしまっているらしい。血栓ができないように血液をサラサラにすれば、万が一出血が起きたときには止血が遅れることになる。
「特に脳梗塞を起こした部分の血管壁が危ないそうです……」
「どうにかできないの?」
皐月くんは俯いたままだった。
私は病室のドアをノックして中に入る。半分くらい閉められたカーテンから麻野さんの顔が見えて、私は小さく会釈する。
「笠桐あすみが来たぞ」
少しカーテンを手で避けてベッドに横たわる涼さんの姿を見た。
「涼さん……」
僅かに開いた彼女の瞳は光を捉えていないような、ただ瞼が開いている状態だった。
「涼さん……!」
腕に触れると私の冷たくなった手に熱が伝わってくる。
「……佐賀さんの手がかりを見つけたの。明日には帰ってくるよ」
だから、だからどうか死なないで。
ポロポロと涙が落ちていく。
昨日まで普通に一階で服を売っていたのに。サガシヤをずっと見守ってきてくれていたのに。
「絶対、連れ戻すから!」
涼さんの瞳がわずかに動いた。
「一緒に、みんなでお花見行こうねって年越しのときに話したよね……」
少しでも楽しい話を。涼さんは負けない。絶対に負けない。
サガシヤも、麻野さんも、涼さんもこれからもずっと一緒にいるんだ。
彼女の目元がピクリと動いた。涼さんだって負けないって言っているんだって思った、その希望は機械の高い警告音でかき消された。
「え?」
もの凄い勢いで医師と看護師が病室に入ってくる。私は押し出されるようにベッドの向かいの壁にぶつかった。
警告音が耳の近くで鳴っているみたいだ。医師の指示が飛び交っていることだけが理解できた。いつの間にか皐月くんたちも病室の中にいて、私の隣に立っている。
そして、音は鳴り止んだ。
「皐月くん。ここの場所を調べて欲しいんだ」
動かない車の中で、私はくしゃくしゃになってしまった仁穂ちゃんの家で見つけたメモを渡した。助手席にはイチくんが座っている。
「明日……ですか……」
「涼さんと約束したから、絶対行かないと……」
今の自分にできることをするしかない。せめて二人にお別れをさせてあげたい。
「遅くなった」
そう言って現れた麻野さんはサガシヤの車の運転席に乗り込む。
「わざわざ送らなくても俺が全員連れて帰るのに」
「そういうわけにもいかない」
車のエンジンがかかる。
「さっき言っていた手がかりって?」
麻野さんが聞くと皐月くんは手に持っていたメモを見せる。
「日時と花畑が書いてあります。ここに来いってことですかね……」
「詳細が分かったら連絡してくれ。同行する」
「麻野さんが同行するんですか?」
「篠木さんの直下の部下になったから問題ない」
会話が途切れて静かになると車は動き始めた。
「……明日は鈴鹿の卒業式だな」
私はメモの場所に行く。おそらくイチくんも。皐月くんは事務所から無線でサポートをするだろう。
明日、仁穂ちゃんは一人だ。
「……仕方ないな」
麻野さんの言葉がすごく重たく感じる。涼さんがいたら、参加してもらえたかもしれないのに。
じわりと目頭が熱を帯びる。
車は苦しい静寂を乗せていつもの街を走っていた。
約束の日、仁穂ちゃんは仁穂ちゃんの約束のためにちゃんと学校へ向かった。
「あいつのこと、よろしく」
「うん」
目的は一つだ。
迎えに来るイチくんは間もなくの到着予定。
佐賀さんの指定した場所の見当がなかなかつかず、皐月くんが夜通し探してくれていたようで、少し前にようやく見つかったのだ。
キンセンカの花畑は少し遠いところにあった。
『そこを右折してください』
イチくんの運転する車は言われた通りに右に曲がる。後続には麻野さんが乗る車と、他の組織の人が乗っている車が二台。いつの間にか合流していた。
この車の後部座席には篠木さんが座っている。
「混んでるな……」
イチくんが舌打ちする。
県をまたぎ、かなり遠い場所まで来た。
「違うな、迷惑駐車?」
田畑と古めかしい家が立ち並ぶ田舎の風景。少し大きめのこの道の前方に迷惑な停まり方をしている車がいるらしい。
「時間がないね……」
私はスマホの時計を見る。佐賀さんの指定した時間まであと七分。ここからもっと狭くて走行しにくい道が待っている。
「私、走る」
「は?」
このまま車で待っていたら間に合わないかもしれない。そう思ったらいても立ってもいられなかった。
助手席のドアを開けて、私は目的地に向かって走り出す。
間に合わない、なんてことになりたくなかった。佐賀さんを捕まえて、そうしたら言いたいことがたくさんある。涼さんのこと、仁穂ちゃんのこと。佐賀さんを信じて帰りを待っている麻野さんのこと。
止まっていた車を追い越して懸命に走った。
「皐月くん、道を!」
右耳につけている無線を通じて皐月くんにナビゲートをお願いする。
『そのあたりの左手にある細道が近道です!』
車で行くならまだ直進しなくてはならないが、確かに左手に舗装されていない落ち葉が敷き詰められた細道がある。私は迷わずその道を進んだ。
息が切れる。時間まであと三分。緩やかな上りの傾斜が続いている。人なんてほとんど通らないのか、顔の高さに飛び出ている細い乾いた枝がたくさんある。脚が悲鳴を上げても止めるわけにはいかない。冷たい空気が喉を通り肺に突き刺さる。
そんな山道を駆け上がって、そして、開けた場所が見えた。そこにはオレンジ色の綺麗な絨毯が広がっている。
「花ばっ……」
呼吸が苦しくて言葉が出てこない。図鑑で見た、キンセンカの花畑。その中に二つの人影を見つけた。スマホで時間を見るとまだ三十秒の余裕があった。
人影の片方は背が高く見えるので、佐賀さんに間違いないだろう。
「佐賀さん!」
駆け出そうとした瞬間、パンという大きな音が鳴り響いた。
『なんの音ですか?』
目の前で、一つの影がゆっくりと崩れ落ちる。
「え……?」
『あすみさん?』
「撃たれた……佐賀さんと一緒にいた人が撃たれたの……」
私は花畑の中に入り、倒れた少女を抱きかかえる佐賀さんを見る。
佐賀さんは私のことなんか気づかず泣き叫んでいた。
その腕の中にいたのは左胸から血を流した、私がよく知っている少女に似た女の子だった。
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