11. 真実を追う人・前

 梅の花が一足先に春を知らせた二月の末、仁穂ちゃんは無事に高校に合格した。合否は高校に貼り出される受験番号で知らされるというのでいついて行き、その番号をしっかりと確認した。


「おめでとう、仁穂ちゃん!」


 その後私は急いで事務所に連絡し、合格祝いのパーティーをすることにした。仁穂ちゃんの好きなチーズケーキも買ってきて準備は完璧だ。


「これで仁穂ちゃんも高校生かー、感慨深いなぁ」


 佐賀さんは切り分けたケーキを前にして、顎に手を当てて年寄り発言をしていた。


「女子高生か……」


 その隣でイチくんがケーキをパクリ。皐月くんはいつも通り少し離れた社長の椅子に座っていた。


「仁穂ちゃんすっごく頑張ってたもんね」


 私は仁穂ちゃんに笑いかける。いつもの落ち着いた表情が今日は少しだけ口角が上がって見える。高校に行くように麻野さんに言われてから本当に頑張っていた。


「この前来た小湊さんも同じ学校だっけ?」

「うん」


 小湊楓は先日サガシヤに依頼に来た仁穂ちゃんの同級生だ。肩のあたりに佐賀さんと同じような火傷の痕がある少女。さらに彼女は仁穂ちゃんの数少ないお友達でもある。


「高校はどこら辺にあるの?」

「家から一時間くらい」


 仁穂ちゃんの偏差値と、あとは自由な校風で選んだ学校だ。校則が緩めでアルバイトをしている学生も多い。


「駅から少し距離があるんですよ」


 私もケーキを口に運ぶ。クリスマスのときのケーキ屋さんと同じところで買ったものだ。


「この学校就職にも結構力入れてるんですね」


 いつも通りパソコンを操作していると思っていたら、仁穂ちゃんの学校を調べていたらしい皐月くんはフォークを咥えたまま言った。


「就職か、したことないな」

「イチくんはずっと朱雀組?」

「そっすね。高校のときに頭領に会ったんで」


 高校生のときからずっとそんなところにいたのか。


「今はサガシヤに就職していることにならないんですか?」

「確かに。あすみさんはうちに就職しているもんねぇ」

「えっ、こんなところにすか?」


 残念なことに私はここに就職してしまっているのだ。イチくんからしたらここは就職するようなところではないようだが。


「あすみさんはなんでサガシヤに?」

「えー、なんでだろう? 騙されたから?」

「騙してないよー」


 確か変な求人広告を見つけて、その後依頼に無理矢理巻き込まれたんだっけ。なんにせよ、ここに居るという覚悟を決めたことは間違いない。


「彼女が立派なサガシヤになると見抜いたんだよ」


 腕を広げて大げさに佐賀さんは言う。


「……まぁ、でも、あすみさん来てくれてよかったんじゃない」


 仁穂ちゃんがそう口をはさんでくれたことに私は嬉しくなる。


「じゃなきゃこの部屋でこうやってケーキ食べるなんてことしてないでしょ。汚かったし」


 私が来るまで、仁穂ちゃんは仕事がなければこうして事務所に顔を出すこともなかった。今は仕事がなくても来てくれる。事務所に集まってお祝いしたり、年越しをしたりする時間が私は好きだ。

 ふと外を見るとまだ外は明るかった。少し前までは暗くなっている時間だったのに。


「もうすぐ三月ですね……」

「女子中学生の看板娘っていう肩書きが終わりになるね」


 そういうことじゃないだろう、と思いながらも面倒なのでスルーした。


「三月かー」


 私は佐賀さんの横顔を見る。いつもと変わらない。

 組織に連行された佐賀さんは、聞いていた通り数日後に戻ってきた。麻野さんではない、スーツを着た男の人が運転する車で。佐賀さんは疲弊して戻ってくるのかと思ったがいつもと少しも変わらなかった。むしろ、しばらく会っていない麻野さんの方が心配になるほどに。


「春が来たら、今度はお花見しようか」

「いいすね。酒飲みましょう」


 イチくんがにやりと笑ってくいっと飲む仕草をする。未成年が二人もいるというのに。私はちらりと皐月くんを見る。お花見と言ったら屋外だが、彼は大丈夫なのだろうか。


「あとは仁穂ちゃんの卒業式と入学式に行かなくちゃね」

「は⁉ 来んな!」


 仁穂ちゃんの顔が一気に般若のようになる。佐賀さんが来ることが余程嫌なのだろう。


「いいじゃん、仁穂ちゃんの保護者としてさ、成長を見守らせてよ」


 千宜にも頼まれてるからさ、と佐賀さんは付け足した。さすがの仁穂ちゃんも麻野さんの名前が出されたら断れないようでものすごく嫌そうな顔をしながらも拒絶はしなかった。


「無事に進学決まってよかったね」


 佐賀さんは微笑む。


「これからもよろしくね、鍵師さん」


 そう言って差し出された右手を仁穂ちゃんは握った。これからも変わらず、サガシヤとして依頼をこなしていく日々が続くのだと信じて疑わなかった二月の日。その晩に一本の電話が入ることを私はまだ知らなかった。






 その翌日、私は仁穂ちゃんとショッピングに出かけていた。一番の目的は制服を買うことだ。合格祝いだと言って、麻野さんが全額出してくれることになっていたようで、仁穂ちゃんは嬉しそうにネクタイを選んでいた。


「本当に自由なんだなぁ」


 指定の制服は決まっているが、ネクタイやリボン、カーディガンなんかは好きなものを着用していいらしい。合格発表のときに見かけた在校生はパーカーを着ている人もいたので本当になんでもいいのだろう。

 少し離れたところから私は仁穂ちゃんの後ろ姿を見ていた。


「よろしかったらお姉さんもご一緒に選んであげてください」


 販売員の女性に声をかけられて私はそうですね、と言った。他人から見たら、私たちの関係は姉妹になるのか。親子ほど年は離れていないから、年の離れた姉妹だと考える方が自然なのか。

 私は仁穂ちゃんの隣まで歩き、手に持っていた緑色のネクタイを見た。


「それにするの?」

「あっちの赤いのと迷ってて……」


 仁穂ちゃんの指す先を見る。


「どっちも買っちゃえばいいんじゃない?」


 麻野さんならきっと少しくらい許してくれる。そう言おうとしたとき、ポケットに入れていたスマホのバイブが鳴った。


「事務所からだ」


 今日は午後から行くと伝えてあったはずなのだが、急ぎの依頼でも入ったのだろうか。私はスマホを耳に当てた。


「はい、もしもし」

『お忙しいところすみません。今すぐ事務所に来られますか』


 電話の相手は皐月くんだった。


「依頼ですか?」

『佐賀さんがいなくなりました』


 予想外の発言に私は耳を疑う。


『起きたときにはいなかったんです。どこかに行ったのか、とかも考えたんですけど、それにしては不在時間が長くて……』

「ちょ、ちょっと待ってて下さい。すぐ向かいますから」


 止めないとものすごい勢いで話してきそうだったので、一度電話を切る。


「なんだった?」


 二色のネクタイを手にした仁穂ちゃんに電話の内容を伝えると、私たちはすぐに店を後にした。






「いなくなったってどういうことですか⁉」


 私は勢いよく事務所のドアを開けた。


「いつもの部屋にいなかったんです」


 佐賀さんはいつも隣室で一人で眠っている。ドアを閉めて。事務所のソファーに皐月くんとイチくんが眠っていて、二人は佐賀さんが起きるまで、隣室のドアは開けない。


「今日は全然ドアが開かなかったので、空腹に耐えきれず僕が開けたんです」


 その時には佐賀さんの姿はなかったと。


「それは何時ですか?」

「気づいてすぐに電話したので十一時前です」


 私は腕時計を見る。


「二人が起床したのは?」


 そう聞くと二人とも考え込んで黙ってしまった。


「二人で夜中に起きてゲームしてたんすよ。そのせいで、何時に寝て何時に起きたのかが……」


 二人は私たちが帰宅した後に就寝し、一度起きてゲームをしたのち、再び眠りについたのだという。


「最初に眠ってからは隣室のドアが開いているところを見ていません」


 つまり、二人に気づかれずに佐賀さんが部屋を出るタイミングは二人がゲームをする前とゲームをした後のどちらも考えられるということだ。


「とりあえず麻野さんに連絡して、佐賀さんから連絡来てないか聞いてみよう」


 私がそう言ってスマホを取り出すと、仁穂ちゃんがそのスマホを奪い取った。


「それはダメ!」

「どうして? 麻野さんなら何か知っているんじゃ……」

「監視対象が失踪したなんて知られたら、あの人も、私たちだって、どうなるかわからない!」


 他の二人も仁穂ちゃんと同じことを思っているようだった。視線を床に落としたまま、きゅっと唇を噛んでいる。


「わかった」


 私はこの中で最年長だ。大人として責任のある振る舞いをしなくてはならない。仁穂ちゃんの手からそっとスマホを取り返した。


「時間を決めよう」


 スマホに触れて画面を付ける。現在時刻がぱっと表示された。もうすぐ正午を迎えようとしている。


「十七時までに佐賀さんがどこにいるのか見つからなかったら、麻野さんに連絡しよう」


 その意見に反対する人はいなかった。佐賀さんがいなくなったことを隠しているのも危険であると、彼らは分かっている。


「これは私の判断で私が決めたこと。これならみんなには迷惑が掛からないでしょ」


 佐賀さんの失踪を報告しなかったのは一般市民である私の判断。そうすれば、協力者である彼らが責められる割合は減らすことができるだろう。その分、私が怒られてしまうと思うが。


「責任は私が取る」


 それでいい。


「いや、責任なら俺が取ります」


 握りしめた私のスマホがつまみ上げるようにして抜き取られた。


「下手なことしたらあなたも疑われかねないすよ」

「イチくん……」

「守るのは俺の仕事です」


 そう言うイチくんの口角が少し上がっていた。すると、彼が持ったスマホが音をたてて震えた。


「あ、どうぞ」


 イチくんはスマホを私に返した。画面にはメッセージが送られてきた通知が一件表示されている。急ぎの用件ではなさそうだったのでポケットにスマホを押し込んだ。


「とにかく、一度状況を整理しよう」


 私たちはテーブルを囲んでソファーに座った。何かの裏紙を一枚取り出して、確実なことを時系列順にまとめていく。


「私たちが帰ったのが六時過ぎ」


 紙を横向きに置きその上の方に長い横線を一本引く。線の上に時間を、下に事実を書いていく。用紙の一番右側に私たちが帰宅したことを記した。


「その後、僕らは夕飯を食べて寝ました」

「時間は? その間ずっと麻野さんと部屋にいた?」


 そう聞くと皐月くんは視線を泳がせる。よく覚えていないのかもしれないが、思い出してもらわなくては。


「飯は二人が帰ってすぐにボスと買いに行った」


 隣に座るイチくんが皐月くんに助け舟を出す。私たちが帰宅したあとにコンビニに行くと書いた。括弧で佐賀さん・イチくんと付け足す。


「飯の後にいつも通りこいつとゲームしてたから、ログイン履歴見ればわかるんじゃ?」


 そう言われてはっとしたように皐月くんはスマホを開く。


「佐賀さんも一緒にゲームを?」

「いや、その間は下でカノジョと飲んでるか、隣室にいる」


 カノジョというのは一階で働いている涼さんのことだろう。二人が恋人関係にあるのかは知らないけれど。


「二人が一緒にゲームするのっていつものことなの? あんまりイチくんにゲームしているイメージなかったけど」

「誘われてやってみたらハマっちゃったってやつだね」

「夕食後にゲームしていたのは六時四十分から九時前までです」


 私は言われた通りに書き残す。


「昨日はカノジョの所に行ったから七時頃に事務所を出てるはず」

「その間二人はずっとこの部屋に?」

「はい」


 佐賀さんと涼さんが会っていたなら彼女にも話を聞く必要がある。


「佐賀さんはその後戻ってきたの?」

「ゲームを終えてからはすぐに寝てしまいましたが、佐賀さんが部屋に戻ってきた音で起きたので、戻ってきてはいると思います」


 戻ってきた時間もわからないと。


「そして二時半に再びゲームを開始して終えたのが五時頃です」


 その後、二人は再び就寝し、起床時間は不明。十一時頃に隣室のドアを開けるまでその部屋は閉ざされたままだった。

 この短い時間の中で、佐賀さんが黙っていなくなった動機があるはず。昨日はいつもと少しも変わらなかったんだから。あるいは、ちゃんと伝言を残していたけれど、二人が寝ぼけて忘れているかだ。


「二人が佐賀さんを確認できていない時間は十九時から十一時の間……」


 かなり幅がある。もっと狭めるために涼さんに話を聞いてこなくては。


「一階に行ってきます。二人は他に思い出せることがないか、探してみてください」


 役目のない仁穂ちゃんは私と一緒に一階に降りてきた。


「さっきはすごく慌てていたみたいだけど何かあった?」


 いつも通りカウンターの中でくつろいでいた涼さんになんて言おうか一瞬考えた。彼女も一般人である。佐賀さんたちとどのような繋がりがあるのかは知らないが、彼女は麻野さんとも仲がいい。麻野さんに伝えられてしまう可能性がないとは言い切れない。


「変態が消えた」


 すると、仁穂ちゃんがはっきりと言った。


「やったじゃん、仁穂ちゃんの思い通り」


 涼さんはそう言って笑う。


「……何か知っていますか?」

「何かって? どうせすぐ戻ってくるでしょ」


 誰も死んでないんだから、と彼女は付け足した。重大だと考えていないんだと分かった。


「昨日、佐賀さんと何時から何時まで一緒にいましたか?」

「昨日は七時くらいから十時半くらいまで一緒にいたよ」


 私はさっきの紙にその情報を記入する。


「その間ずっと佐賀さんは一緒にいましたか? なにか変わったこととかありませんでしたか?」


 涼さんは口を閉じて私を見つめた。


「涼さん?」

「……取り調べみたいだね」


 その時私は気づいた。もしも私と佐賀さんが逆の立場だったら。きっとすぐに見つけてしまえるのだろう。佐賀さんの能力の強力さを痛感する。

 質問を連投されることは誰だって気分がいいものではないだろう。


「私は佐賀さんと違うので、普通に探すことしかできません」


 私は涼さんにお礼を言ってその場から立ち去ろうとする。


「連絡が来てたよ」


 階段に足をかけたとき、涼さんは私にそう言った。


「メッセージだったから内容は聞いてないけれどちょっと考え込んでいるみたいだった」

「ありがとうございます!」


 私は階段を駆け上がる。

 佐賀さんは誰かからメッセージを受け取った。そのメッセージに呼び出すようなことが書かれていたのかもしれない。脅迫のようなことかもしれない。


「佐賀さんが誰かからメッセージを受け取っていたって」


 事務所のドアを開けて、私は二人にそう告げる。次にやることは佐賀さんが誰と連絡を取ったかを知ることだ。それは皐月くんの力を借りればいい。

 そう考えて、はっとする。そう言えば自分もメッセージを受け取っていたのだった。ポケットからスマホを取り出し、アプリを起動する。相手は植物を研究しているお金持ちの千石智里さんだった。私が佐賀さんと初めて仕事をしたときの知り合った人だ。


『スイステラを見に来ない?』


 メッセージにはそう書かれている。スイステラは智里さんの研究対象である十二年に一度の頻度でしか美しい花を咲かせてくれない植物である。だが、次に花が咲くのは二年後だと言っていた。


「なぜこのタイミングで?」


 まだ花が咲いているわけじゃないだろうに。私は「花が咲いたのですか?」と返信した。既読がすぐについて思いもよらなかった返事が返ってきた。


「スイステラが咲いた……?」


 十二年に一度しか咲かない花が十年で咲いた。私は震える指先でメッセージを打ち込む。それを昨日佐賀さんに伝えましたか、と。


「スイステラって何?」


 そう言って仁穂ちゃんが画面を覗き込んでくる。

 ピコンと表示された文字は「伝えた」と表示した。


「これ、さっき言ってた昨日のメッセージ?」


 智里さんはさらに教えてくれた。深夜に佐賀さんがスイステラを見に訪問していたことを。






「智里さん!」


 連絡を貰ってすぐに私と仁穂ちゃんは事務所を出た。残りの二人は事務所で佐賀さんの帰りを待っている。

 大きな門をくぐって屋敷とは違う一軒家の呼び鈴を鳴らした。


「いらっしゃい」


 初めて会った時と少しも変わらない大人びた女性がドアを開けてくれた。


「おや、そちらは?」

「鈴鹿仁穂です……」


 二人が初対面であることに驚きながらも、私は本題を切り出した。


「昨日、佐賀さんが来たんですか?」

「うん、そう。スイステラが咲いたら見てみたいって言っていたから連絡したんだ。あすみさんと見においでよって」


 智里さんは中に入るように促す。私たちはそのままリビングに通される。たくさんの植物に囲まれた部屋。


「そしたらすぐにでも見たいって言いだしたから、昨日の夜に家に見せたよ。あすみさんには明日直接連絡してって言われた」

「それって何時頃ですか?」


 仁穂ちゃんはカーテンレールに絡む蔦を眺めている。


「十二時には門が開かなくなるからそれまでに来て、帰ったはず」


 十二時。そこから佐賀さんは事務所に戻っていないのかもしれない。電車はすぐに終電を迎える。車は駐車場に置いたまま。佐賀さんはどうやって、どこに移動したのだろう。


「スイステラを見せてもらえますか?」


 十二年に一度しか咲かない、美しい花。あまりの美しさに見た者は言葉を失うことから「意味を持たない花」とされている。


「こっちだよ」


 そう言って智里さんはリビングを出て通路を進む。そして、地下へと進む階段の前で足を止めた。日当たりがいいリビングとは反対にこちらはほとんど日が当たらない、真っ暗で冷たい印象を感じる。


「スイステラは日照時間と温度の管理が難しい植物なんだ。人の手では咲かせることがとても難しい」


 智里さんは階段の横に置いてあったキャンプ用のランプを付ける。


「昔の人が言うには、スイステラは医療の役にたつらしいから研究したい人はたくさんいるんだ。数が多くないから入手するのも大変だけどね」


 手に入れるのも管理をするのも大変な植物。だからこそ未知な面も多いのだろう。足元を気を付けるように言われながら私たちはゆっくりと階段を降りる。そこは刺さるような冷気で満ちていた。


「寒いですね……」


 思わず両手で肩をさする。茶色い扉が現れて、この先にはもっと上をいく寒さが待っていると無言で主張してくる。仁穂ちゃんを振り返ると、同じように寒さに耐えていた。


「雪国の植物だからね」


 智里さんがそっとドアを開ける。足元を這うように空気が流れるのが分かった。


「あ……」


 その冷気の奥にライトで照らされた植物があった。一般的な大きさのプランターに植えられた植物からは一本の太い茎が伸びていて、細長い葉がたくさんついている。その上の方に青白い花が咲いていた。五百円玉くらいの大きくない花が三つ。


「これがスイステラだよ」


 私は一歩、二歩とスイステラに近づく。これが、智里さんが見たかった希少な花。


「綺麗……」


 この寒さの中でも力強く咲く花。幻想的な景色に惹かれて私はその花に手を伸ばす。指先が少し触れて、スイステラは揺れた。


「思わず触れてしまうよね。私も引き寄せられた」


 ドアの前に立つ智里さんはそう言った。


「とても、綺麗です」


 言葉を失ってしまう先人たちの気持ちがよくわかる。


「それ、あいつも触ったの?」


 不意に、智里さんの隣に立っていた仁穂ちゃんが聞いた。


「え、うん。触ってたと思う」


 佐賀さんが触れた。それが意味することは。


「佐賀さんはスイステラから何かを視た……?」


 スイステラに触れることで何かとの出会いに気づいた。だから佐賀さんは出会いに行った?

 佐賀さんが依頼でもないのに積極的に動いたとしたら。私の脳裏に一つの考えが浮かぶ。


「一族……」


 仁穂ちゃんを見ると彼女も同じことを考えているのだと分かった。


「なにそれ?」


 智里さんは不思議そうに私と仁穂ちゃんを交互に見る。

 私たちは選択を間違えてしまったのかもしれない。もしも一族が関わっているのだとしたら、すぐにでも麻野さんに知らせる必要があった。佐賀さんが自分から行動した時点で報告しなくてはいけなかったんだ。


「ありがとうございました」

「うん……またおいで」


 私は深々と智里さんに頭を下げる。地下から出て、外に出て、スマホを取り出す。


「麻野さんに連絡しようか」


 佐賀さんが自分から姿を消した可能性が高い。


「そうだね……」


 また、麻野さんの苦労を増やしてしまう。そんなことを考えながら私は麻野さんに電話をかける。その横で仁穂ちゃんが皐月くんにメールを送っていた。


「麻野さん、すみません。お話があります」

『鈴鹿のことか?』

「いえ」


 麻野さんは制服を買う件に関してだと思っているのだろうか。


「佐賀さんがいなくなりました」


 聞こえていないのではないかと疑いたくなる沈黙が流れる。


「自分からどこかに向かった可能性があります……」


 怒られる、そう覚悟して私は唇を噛んだ。


『……そこに鈴鹿はいるのか』

「え? はい」

『じゃあ聞こえないように離れてくれ』


 言われた通りに仁穂ちゃんと距離を取る。仁穂ちゃんは少し不思議そうに首をかしげていた。


「離れました」


 そう言うと彼は思ってもいなかったことを話し始めた。


『今朝、あいつから連絡が入ったよ』

「え?」

『鈴鹿の子供の頃の家に行きたいからって場所を聞かれて、教えた』


 おそらくそこに行っているはずだ、と麻野さんは言った。仁穂ちゃんの昔の家というのは、お父さんの帰りをずっと待っていた場所のこと。


『そこにある物で渡したいものがあるらしい』

「渡したいものって何ですか? そもそも仁穂ちゃんの家知っていたんですか?」


 仁穂ちゃんはお父さんを待っていた家がどこにあるのか覚えていない。


『鈴鹿の実家は組織が特定して管理している。本人には知らせていない』

「どうして……」

『理由は言えない。念のため行ってみるけど、すぐに戻ってくるだろう。じゃあ切るぞ』


 プツンと音をたてて通話は途切れた。仁穂ちゃんになんて説明したらいいんだろう。


「どうだった?」

「麻野さんには連絡してたみたい。行き先に心当たりがあるから心配するなって言われちゃった」


 そう言って苦笑いする。麻野さんは意図的に隠していたのだ。私が勝手に話すわけにはいかない。


「帰ろうか」


 佐賀さんもきっと戻ってくる。私たちは事務所に向かって歩き出した。






 事務所に戻って、私たちはおとなしく佐賀さんの帰りを待った。麻野さんからの連絡が来ることもなく十七時を迎えた。

 いつもなら、私と仁穂ちゃんが帰る時間だ。


「帰って来ないね……」


 仁穂ちゃんは帰る支度をしようとはしなかった。すると、事務所の電話が鳴った。


「はい、サガシヤ事務所」


 一番電話の近くにいたイチくんが受け答える。


「いないけど」


 イチくんがこちらを向いて口を動かす。「あさの」と言っているようだ。


「え?」


 電話の相手は麻野さん。佐賀さんが見つかったのだろうか。


「……わかりました」


 イチくんは電話を切る。


「佐賀さん見つかったの?」


 彼は首を振る。


「いると思った場所にいないし、ここにも戻ってきていない。逃走扱いになるってさ」

「え?」


 麻野さんは心配いらないって言っていたのに。


「それに伴って、親族であるあいつはサガシヤの担当を外されることになったって」


 コンコン、と事務所のドアがノックされて、ドアが開かれた。


「その新しい担当になりました、篠木と言います」


 にこりと笑う男性が立っていた。麻野さんの口から何回か聞いたことがある名前だ。麻野さんの上司なはずだが、ドアの前に立っている男性はとても若く見える。


「朱雀組の担当の人」


 ぼそっとイチくんが教えてくれる。この人が、あの頭領の手綱を握っていた人。


「相良くん及びその関係者に逃走またはその幇助の容疑がありますので全員僕が管理することになりました」


 冷汗が私の背中を伝う。


「なんてね」


 彼は表情を変えずにそう言った。


「麻野くんから僕に担当を変えたのはむしろ君たちの自由を守るためです」


 緊張がゆるむ。急にこの人が頼もしく感じた。


「一緒に佐賀さんを見つけましょう」


 きっと麻野さんが目指しているのはこの人なんだろうと思った。この人は組織の中で大きな権力を持っている。それを使って協力者たちを理不尽な扱いから守ろうとしている。


「よ、よろしくお願いします」


 皐月くんが一歩前に出て篠木さんに言った。


「よろしく」


 篠木さんはソファーに座り、私たちにも着席するように促した。


「ではまず、経緯を話してください」


 そう言われて昨日の私たちが帰った後の話をする。佐賀さんがいなくなったこととスイステラの花が関係している可能性があるということも。


「なるほど」


 篠木さんは考え込みながら、向かいに座っていた仁穂ちゃんを見た。


「あなたの同級生に火傷の痕を持っていた子がいたと聞いたのですが」

「あ、はい、います」


 先日依頼に来た女の子のことだろう。


「麻野くんから聞いたんだけど、その傷から何も視えなかったって本当ですか?」

「視えなかったとは言っていませんでしたが、視えたとも言っていませんでした……」


 ふむ、と言って彼は顎に手を当てる。


「何も視えないから何かが視えたのか……」

「どういう意味ですか?」


 私がそう聞いても篠木さんは答えてはくれなかった。


「鈴鹿の家に行きたいって言いだしたのはどうしてだろうね」


 彼の言葉にはっとする。仁穂ちゃんは自分の家のことは麻野さんから隠されているのに言ってしまった。


「私の家?」


 怪訝そうな顔をして予想通り仁穂ちゃんが聞き返す。


「きみの元々の家はうちで監視しているからね」


 あっさりと篠木さんは伝えてしまった。


「麻野くんはきみのことも大切にしているから余計なことは言っていないけれど、わかる範囲できみの身元も特定しようとはしているんだ。その一環だよ」


 仁穂ちゃんはそれ以上を聞こうとはしなかった。


「まずはここに行ってみようか」


 そう言って篠木さんはスマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。内容を聞く限りだと、仁穂ちゃんの家を監視している同僚に連絡しているようだった。


「あぁ、そうだ。この中で運転できる人いる?」

「え?」

「僕、運転うまくないからできるだけしたくないんだよね」


 聞けばここまで電車で来たという。目的地までは佐賀さんの車を使うつもりらしい。


「私は免許ないです」


 仁穂ちゃんは年齢が足りていないし、皐月くんだって年齢が微妙なラインだろう。仮に年齢はクリアしていたとしても、教習所に通うのは無理だろう。だとすれば残りはあと一人。


「俺できますけど」


 イチくんは不機嫌そうな顔をしていた。


協力者おれに運転させていいんですか? もう一人呼ぶとか……」

「この前の騒動で人が足りていないからね、ばれないばれない」


 へらへらと篠木さんは笑う。麻野さんとは全く違うタイプの人だが、彼らを一人の人間として扱ってくれるというのは同じだろう。


「じゃあ、行こうか」


 篠木さんが立ち上がると、すぐに仁穂ちゃんも立ち上がった。


「私も行きます。私の家なら、その権利ありますよね?」


 お父さんをずっと待っていた家に、行きたいと思うのは当然のことだろう。仁穂ちゃんの目は睨むように篠木さんを捉えている。


「行ってもいいけど、きみが家を出てからあの家には警察以外誰も立ち入っていない。期待はしないでね」


 彼はそのまま事務所を出ていく。それに続いてイチくんが出ていき、私も後をついて行こうとする。その後ろにもう一つの足音がついてきていた。


「んじゃ、行きます」


 いつもは運転席には佐賀さんがいるのに。イチくんの後頭部が少しだけ見える。その隣には篠木さん。後部座席には私と仁穂ちゃんが乗っていた。

 カーナビは使用せずに篠木さんが口頭で道順を伝える。見慣れた街を出て、一般道を進んでいく。丸裸になっていた街路樹には小さな芽がつき始めているように見えた。


「あ」


 それから一時間ほど車を走らせたところで仁穂ちゃんが声を上げた。

 

「ここに停めて」


 古びたアパートが並ぶ、人通りも車通りも少ない道に車は停止した。


「見覚えがあるの?」


 私が聞くと仁穂ちゃんがこくりと頷いた。かなり昔の記憶なはずなのに、覚えているんだな。

 篠木さんたちは車を降りる。


「お疲れ様です。特に変わりはありませんでした」


 車の前方からスーツを着た人が小走りで近づいて来た。篠木さんと同じ組織の人だろう。


「うん、お疲れ様」


 彼はイチくんが運転先から降りてくるところを見て顔を歪ませたが何も言わずに持ち場に戻って行った。


「行こうか」


 私たちは歩き出す。赤茶色のアパート。もうどの部屋にも住人はいないのか、全ての郵便受けは壊れていて、開いたままだった。

 階段を上るとコツン、コツンという音がよく響く。先頭の篠木さんは私たちに透明な手袋を渡して来た。


「何かあるといけないからね」


 そう言って篠木さんはドアノブに手をかける。鍵は閉まっていないようで、重たそうな音をたててドアが開いた。

 入ってすぐ左手にキッチンがある。ずっと使われていないのかシンクの中には埃が溜まっている。台所の奥の扉を開けるとそこには洗濯機が置かれていた。その先にドアが二つ。片方がお風呂場のドアでもう片方がトイレのドアだった。

 他のみんなはテレビが置かれていたリビングに入っていた。テレビの隣に大きな本棚が一つ。部屋の隅には子どものおもちゃが転がっていた。テレビはもう使われていないような分厚いものだ。きっと何も映らないだろう。

 その隣の部屋は和室になっていて、布団が畳んで置かれていた。そして、洋服の入った箪笥があって、なぜかその二段目が少し開けられている。隙間から小さな洋服が見えた。


「さて、ここで相良くんは何をしたんだろうね」


 篠木さんは腕を組んで部屋を歩き回る。何か変わっているところが無いかを探しているのだろう。

 仁穂ちゃんは畳の部屋の入口に立ったまま呆然と立ち尽くしていた。


「大丈夫?」


 心配になって声をかける。


「その布団で……」


 仁穂ちゃんは一組しかない布団を指した。


「毎日二人で寝ていたんだ……」


 部屋に入って、仁穂ちゃんの幼いころの記憶がより鮮明に思い起こされているようだった。


「何日も帰って来ない日が続くと、一人で眠るには広すぎて……」


 心臓がぎゅうっと苦しくなった。


「夢じゃなかったんだな……」


 そう言った仁穂ちゃんの目から涙がこぼれた。彼女はずっとお父さんを待っていて、だけどその記憶は時間が経つにつれて薄まっていって。この部屋に残された二人の思い出が、お父さんがいたという証拠なのだ。

 私は仁穂ちゃんを抱きしめた。


「何か気づいたことあったら教えてね」


 こちらのことを気にせずに篠木さんは言った。今は、佐賀さんの足取りを掴まなくてはいけない。

 私は仁穂ちゃんから離れて、まずは近くにあった箪笥をよく見る。普通だったら埃が積もっていたら触っていないと考えられるかもしれないけれど、佐賀さんの場合は少しでも触れればいいので埃の有無じゃ判断はできない。


「……ここってあいつ来たことないの?」


 不意に仁穂ちゃんはそう言った。それもそうだろう。だって佐賀さんは仁穂ちゃんのお父さんのことも探していたのだから。


「いや、以前にも来たことあると思うよ。麻野くんに確認してみないと分からないけれど」

「でも、私の父親の居場所は見えないって言われた。顔もわからないって」


 佐賀さんは以前にも来たことがあって、仁穂ちゃんの言っていることが事実だとしたら、今更ここに何をしに来たのだろう。どうしてここに来ようと思ったのだろうか。智里さんの依頼があった時に仁穂ちゃんはいなかった。なので、スイステラと仁穂ちゃんは繋がらないはず。


「あ!」


 私は思わず声を上げた。


「仁穂ちゃんと佐賀さん、握手したよね……?」


 佐賀さんが仁穂ちゃんに触れる機会は多くない。だけど、合格が決まった昨日、二人は握手をしていた。

 

「そういえば、した」

「その時だよ! その時佐賀さんは仁穂ちゃんから何かを視て……」


 そしてここに来た。


「何を視たのか分からないのにこの先どうやって探すの?」


 イチくんの冷静な一言によってアパートは急に静まり返る。


「隠そうと思えば」


 最初に口を開いたのは仁穂ちゃんだった。


「あいつはいくらでも隠せるでしょ。それでもこれだけ痕跡を残してるってことは私たちに見つけさせようとしているんじゃない?」


 仁穂ちゃんの指先が箪笥の上を滑り、埃が取り除かれて一本の道ができる。


「何を?」


 私は思わずそう聞いた。


「真実」


 ドスンと何か、重たいものが胸に落っこちたような感覚。佐賀さんはいつだって探していたのだ、彼が失くした真実を。


「この本棚、埃が全然ない……」


 私と仁穂ちゃんの視線が交差する。そんな空気の中で篠木さんが「あ」と言った。


「順番が変だね」


 本棚の前に立つ篠木さんの横に歩く。


「変ってどういうことですか?」

「あの本だよ」


 彼が指していた本棚の上から二段目。本の大きさごとに綺麗に段が分けられている、そんな整頓された本棚。

 しかし、私は彼の言っている意味が分からなかった。順番の規則性を見つけることはできなかった。


「この本」


 篠木さんの指先が一冊の本に触れる。彼は指先を少しひっかけて、本を手前に出した。


「哲学書ですよね?」


 本のタイトルは『意味のない生物』と書かれている。


「並び順、著者名だ」


 いつの間にか隣にいて一緒に本棚を覗き込んでいたイチくんが言う。よく見てみると、確かにそうなっていた。左手から順にあいうえおで並んでいる。


「ヒカン……?」


 その本の背表紙にはカタカナでそう書かれていた。随分変わったペンネームだ。


「ここはカ行の場所なのに」


 両隣は本当にカ行の著者名が書かれている。タイトルの順番ではなく、著者名の並び。


「仁穂ちゃんの言う通りだね……」


 佐賀さんは足痕を残していっている。彼の辿った道が分かるように。

 佐賀さんは望んでいる。私たちが彼を追いかけることを。

 私はその本に手を伸ばした。本は一センチも厚さがない。とても短い文章が書かれているのだろう。表紙を捲り、一ページずつ読み進めていく。


「まずは当事者を知らないと……」


 私はぽつりと呟いた。勝手に口からこぼれたような言葉だった。

 こんなようなセリフを、私は聞いたことがある。その時に確か、立派なサガシヤになるように言われたんだ、佐賀さんに。


「当事者って?」


 イチくんが顔を覗き込むようにこちらを見てきた。

 私はもう一度本に目を落とす。


「この本の著者について調べてもらえませんか?」

「ええ……構いませんよ」


 篠木さんは少し困惑しているようだったが、スマホを取り出して電話を始めた。その相手は皐月くんのようだった。てっきり警察の権力を使うのかと思ったが、皐月くんの力を借りる方が早いかもしれない。

 絶対にこの本に何かがある。私にはその確信があった。


「え、いない? いくら調べても出てこないんですか?」


 篠木さんの言葉を聞いて私は後ろのページを見る。出版社や発行日が書いてあるはずのページを。

 確かにそこには書かれていた。実在する出版社名と、初版の発行日。そしてこの本の発行日も。


「十二月二四日……」


 間違えるはずもない。その日は仁穂ちゃんの誕生日。

 ピースが一つはまる音がした。


「この本は、仁穂ちゃんのお父さんが書いたもの……」


 本当は発行されてなんかいない。あたかも本物っぽく作ったのだ。

 何のために?

 仁穂ちゃんのお父さんはどうしてこれを紛れさせる必要があったのだろう。それは彼自身が姿を眩ませたことと関係があるのだろうか。


「貸して!」


 仁穂ちゃんはそう言って私から本を取って、ページを捲った。

 だけど、それでは意味がない。書いてある内容は特別なことではないのだ。

 紙の音が少しずつ速くなっていき彼女の呼吸も浅く、苦しそうになる。その手を止めたのは篠木さんだった。


「……もう今日は終わりにしましょう」


 仁穂ちゃんから優しく本を取り上げて、篠木さんは仁穂ちゃんの背に手を当てて玄関の方に誘導した。俯いたまま部屋を出る仁穂ちゃんの後ろ姿がただただ悲しかった。


「それ、借りてもいいですか?」


 そう聞くと篠木さんは私に本を渡してくれた。

 私たちは車に乗って、来た道を戻る。夜空の下を走る車内はどんよりと重たい空気に包まれたまま、誰も何も発言しなかった。目を開けて俯いたままの仁穂ちゃんが心配で時々横を見ても、どんな言葉を掛けたらいいのかわからない。

 麻野さんはきっと、こうなることが分かっていた。


「……今日は」


 仁穂ちゃんと私の家が近づいてきたころ、彼女は少しだけ口を開いた。


「今夜は一人でいたい」


 ミラー越しにイチくんと目が合った。


「……うん、わかった」


 仁穂ちゃんの家の前で車が停まる。車からは仁穂ちゃんだけが降りた。


「ちゃんと家にいてくださいね?」


 篠木さんの言葉に仁穂ちゃんはこくりと頷いて部屋に入っていく。その近くに一台の車がいるのを見つけた。おそらく篠木さんが手配した、仁穂ちゃんを監視するための組織の人なのだろう。

 イチくんは事務所に向かって車を発進させた。


「また、適当なタイミングで来ますから」


 そう言った篠木さんの言葉の裏側に、勝手なことをしないように念を押しているようなものを感じた。

 いつも通りの駐車場に戻ってきた私とイチくんが事務所に入っていくのを見届けて、篠木さんは帰って行った。


「今日はあすみさんが隣室で寝て。あそこは鍵かけれるし」


 真っ暗な階段を、イチくんはどんどん上っていく。


「佐賀さんは真実を探している……」


 それを見つけるのは、佐賀さんか、それとも私たちか。

 呟いた私の腕には一冊の本が抱えられていた。

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