Vtuberアンナ・カレーニナ、最期の生放送

ポリエチルベンゼン

第7章31節 線路に身を投げ出すシーン

添付資料:配信当日のツイート2つ

①アンナ・カレーニナofficial

 20yy/mm/dd 20:mm:ss

 今日、アンナは絶望を抱え、ニジェゴロド駅に向かう…

 Vtuberアンナ・カレーニナ最終話、本日21時30分から生放送!

 #アンナ・カレーニナ #Vtuber

 (ファンアートは「#見知らぬ女」のハッシュタグをご使用ください)

 配信URL


②アンナ・カレーニナofficial(魚拓)

 20yy/mm/dd 18:mm:ss

 Vtuberとしてあらゆる試みを尽くしたけれど、結局はみんな同じ。

 どこに行こうと、どんな時間を過ごしても、みんな他の人に気が移るし、

 誰が人気とか、憎しみ合って、苦しめ合って、この世に放り出されている。

______________



 配信待機画面が切り替わり、ニジェゴロド駅の情景が映し出されると、デフォルトアイコンや名前にVtuberと入っている様々なアイコンが、コメント欄を通り過ぎていった。赤いハンドバッグを提げ、顔にヴェールをかぶせた3Dモデル、アンナの姿が画面の端から現れてきた。その姿を認めると、コメントの流れが速くなる。単純に彼女の登場に歓声を上げる者もいれば、卑猥な言葉を投げかける者も、既に大小の額のルーブルを投げ銭している者もいた。


 アンナはヴェールを破綻させることなく、停車していた機関車に乗り込んでいく。彼女が何も話さないままに画面が車室に切り替わると、彼女は薄汚れたソファに腰を下ろしていた。ハンドバッグはソファーとの間に不可解な干渉を起こして震えていたが、《バッグ震えとるw》に類するツッコミはやがて落ち着いた。同時接続が1万人を超え、ピョートルというハンドルネームの男が《アンナ最終回わこつ》という言葉と共に赤い枠で彩られた額のルーブルを投げ銭する頃、車室のドアが閉まる効果音が響いた。

 

 アンナは何も話さなかった。彼女の心の中を推測するべく、反対側の座席を埋めるように配置されたコメント欄では、品のある言葉から全く礼節を欠いたみすぼらしい言葉まで、様々なものが去来していた。

 《辞めた後に俺のところに来れば金儲けでもエロでもなんだってできるぞ!》多額の投げ銭と共にコメント欄の何者かが叫ぶ。

 「見栄を張ってるだけのくせに。それに、そんな不躾な言葉で人を誘おうとしても、誰もよってこないから」アンナは心の中だけでそう思いたかったが、音声の不具合を疑われると面倒と考えて、言葉を発してしまった。

 すると、その人物(イワンというハンドルネーム)の人物は、アンナを傷つけるような言葉を書き連ねていった。他のアカウントの中にはイワンを指弾する者もいれば、いつもとは異なる彼女の服装に関して、眺めまわすようなコメントも流れた。恐らく話を逸らすつもりでそのようにしたのだろう。


 不倫というテーマを扱ったVtuber作品であったがゆえに、コメント欄は頻繁に荒れていた。しかし、作品が視聴者に与える影響を非難する声があれば、あくまで物語だとして擁護する声も生まれてくる。ただ、中には注目を浴びるために擁護をしているのではないかという人物もいた。

 《私が彼と話をしてもよろしいでしょうか?》少額のルーブルを投げ銭しながら、アニーと名乗る人物がアンナに話しかけてきた。明らかにアンナと口を利くためにルーブルを投げてよこしたのだ。この人物はいわゆる常連で、わざわざアンナとヴロンスキーの間に生まれた子供と同じ名前にすることで、その名をアンナが発するたびに《私だw》と言いつつ投げ銭してくるのだった。

 それでも仕方なくアンナが承諾すると、アニーはイワンとコメント欄で言い争いを始めた。最終回ということもあって張り切っていた二人は、話すたびに投げ銭をすることで、上位チャットを占領していた。人気がないとは言えないVtuberの最終配信、その記録に残るためにこうしているのだと、アンナは理解していた。他の視聴者を置いていくような形で互いに憎しみ合っている哀れな醜い2人のことを、アンナは憎まずにはいられなかった。


 二度目のベルが鳴ると、他のコメントも《おまえらいいかげんにしろよ》とざわつきだした。アンナは時折見かける語尾の《www》にいら立って、できることなら目を覆いたいとさえ思うほどであったが、このタイミングでヴェールまでおかしな動きをしだすようになったら滑稽もいいところであり、彼女はただ沈黙していた。


 そして三度目のベルが鳴ると、イワンのほうが十字架の絵文字をコメントした。この後アンナに訪れる結末を察知していたのだ。しかし、当然アンナは結末ありきの行動をすることはできない。「なんのつもりで十字架なんて切ってるの」と意地の悪い問いかけを投げかけることしかできなかった。イワンは何も答えなかった。


 最終回ということもあり、機関車の車窓を流れる景色は凝った作りをしていた。プラットフォーム、石垣、信号所が規則的になりすぎないように窓の外を流れていき、別の列車とすれ違うことさえあった。更に、レールの継ぎ目で規則正しく社内も振動し、速度に合わせて効果音もリズムよくかけられていた。唯一そうした整然さから逸脱していたのは、相変わらず強く揺れているハンドバッグだけだった。

 窓から明るい夕日が差し込み、風があるかのようにカーテンを揺らすのを眺めているうちに、アンナはコメント欄のことを忘れて、モーションキャプチャに全身を包み、座ったまま物思いに耽り始めた。もちろん、それだけでは配信が成り立たないため、物思いを口に出す必要はあった。


 「どこまで考えていたのかしら…そう、私には生活が苦しみのないものだなんて考えられない。私たちは皆が苦しむべく作られている。誰もがそれを知っていて、何とかごまかせないかと苦心する。でも、それを理解せざるを得なくなったらどうするのかしら」


 《そうした不安から人間を解放させるために、理性というものがあるのだと思います。》アニーがコメントした。絶対に拾ってもらいたかったらしく、システム上最高額のルーブルを投げ銭していた。

 しかし、そのコメントはアンナの疑問にとって、的確な答えとなった。彼女はイワンのコメントも見たが、先のアニーの発言に対する否定は見られなかった。それを認めると、アンナは急に自らのVtuber活動を視聴してきたあらゆる人々のことを、彼ら彼女らの歴史やその心を余すことなく見透かしたような気持になった。そして、Vtuberとして…アンナは目の前でコメントを流す人々のことに興味が移り、自分の考えを発し続けた。


 「そうよ、私も不安、でもみんなだって不安。ここにいる誰もが、決して愉快ではない私の活動内容を視聴して、それでも一時何かから逃れられたような気持になっている。視聴者は誰もが、まさに理性を行使して、私のところに逃れてきているんだわ。でも私のが自分の蝋燭を吹き消してしまったら、それでもう何も見るものがなくなる視聴者がいたら、その理性は何のために存在していたことになるの?どうしてみんなは私が配信を始めると挨拶をするの?どうして卑猥な言葉を投げかけるの?こうしてこの物語の登場人物になろうとするの?全部偽りで、全部架空で、全部虚構で、全部バーチャルなのに!」


 列車が次の駅に到着すると、画面が一度暗転し、場面はプラットフォームに切り替わった(ニジェゴロド駅の使いまわしだが、機関車は停車していない)。アンナはプラットフォームに佇んで、次に事態が動くのを待っていた。コメントでは、ある人物が《アンナの荷物を持ってあげたい》とコメントすれば、この日のために完成させた3Dモデルの出来栄えをじろじろと評価するコメント群もあった。がやがやという効果音も相まって、アンナは次第に息苦しさを感じていた。


 その時、アンナはこの駅で降りた理由を思い出した、というよりも指示を飛ばされた。ヴロンスキーがアンナにあてた手紙がこの駅に到着しているかどうか、確認する必要があったのである。一応時代設定は19世紀後半のロシアなので、eメールの類は存在しないのだ。


 アンナは画面外にいる一人の荷物運びを呼び止めた。その声は、重労働をする人間としてはあまり適さないくらい年老いた雰囲気を漂わせていたが、ヴロンスキーの手紙を持った御者が近くにいることを告げると、その手紙をアンナに渡そうとした。渡そうとしたのだが――


※※※※※


 トルストイは焦った。アンナ役の人物がアニーとイワンの口論を半ば放置していたことで、既に尺はかなり押していた。更に悪いことに、ヴロンスキーの手紙を表示させようとしたところ、不具合で全く画面に現れない。早く手紙を読ませてアンナに最期の決心をさせるシーンに移りたいが、それでもうかつにパソコンを操作してデスクトップ画面当たりが出てきた日には、これまで実直に登場人物の心情を描写してきた自らの努力が無駄になる。

 しかし、今回のスタッフは運営であるトルストイと、アンナ役の人物しかいない。本来であればコメントに頼らず役者を揃えて演技をさせれば問題ないのだが、それではVtuber、配信者の特長ともいえる双方向性を喪失することになる。自身の表現と媒体の特性がぶつかり合い、テキストでは書くことのできない物語を完成させようというのが、トルストイの試みであった。

 それでも、不義の愛に身を染めた人物が辿る哀れな末路だけは、しっかりと書ききりたい。その思いは変わることがなかった。だからこそ、「君の手紙が間に合わず残念に思う。私は10時に帰る」というヴロンスキーの手紙は、アンナに決意を抱かせるそのぞんざいな文言だけは、何としても表示させねばならなかった。


 一方、トルストイが「今御者を探しておりますんでね」などとアドリブを入れている間、アンナは――アンナの「中の人」は――彼のほうを見ながら考えていた。不倫をしたのはアンナとヴロンスキーの2人なのに、なぜ私だけがこのような末路を、線路に身を投げる必要があるのだろうか。確かにヴロンスキーもずっと前に拳銃自殺を図っており、深く思い悩んでいたことは明白だ。しかし、自殺を完遂するのはなぜアンナだけなのだろう。

 アンナの中の人は今までの物語を思い起こしていった。どうしてアンナはヴロンスキーと不仲になったのか。それは、アンナが社交界で孤立したことで不倫相手が幻滅し、自身の領地を経営することに集中し始めたからだ。物語とはいえ、不倫が原因で社交界から排除されていったのに、ヴロンスキーの行いがアンナをさらに孤立へと向かわせたような気がする。


 しかし、アンナはモーションキャプチャに身を包みながら、急に孤立という文言が引っかかるようになってきた。そして、その原因を理解したとき、彼女は意地の悪い笑顔を浮かべた。「そういうことだったのね!薄々そう思っていたわ!」

 そして、時計が21時55分をとうに過ぎていたことを認めると、トルストイに向かって叫んだ。「時間がないから、手紙をみつけたら中身を読んでちょうだい!」


 アンナの声で思わず体がはねた後、荷物運びの老人はその言葉に隠された符丁に気が付いた。短いがゆえに記憶していたヴロンスキーの手紙の内容をマイクに載せた後、トルストイは、配信枠を30分延長した。


※※※※※


 アンナの心臓の鼓動は、叫んだこともあり早くなっていた。思わずトルストイを威嚇するような調子になってしまったが、威嚇すべきは彼だけではなかった。そして、手紙の内容を聞き終わると、彼女はプラットフォームに沿って歩いて行った。

 その時、最終回が初見というタイミングできた視聴者が、《そのモデル、ボーン数はどれくらいなんですか?》というコメントを残したのが目に入った。アンナは「私は本物よ」とだけ呟くと、当初の予定通りプラットフォームを歩き続けた。


 それ以降しばらくの間、最後だからと様々なコメントが届いた。最初はこの新モデルの立像が明らかになったことで、その出来を品評する声が多かったが、次第にそれらは収まって、最後の機会ゆえに何かアンナに質問をしようというコメントが増えていった。しかし彼女がそれにも答えないとわかると、だんだんとコメントは鳴りを潜め、同接1万5000人に届かんとする中で、コメントの流れが完全に停止することさえあった。


 貨物列車が近づいてきた。トルストイ渾身のモデリングにより、アンナの最期のシーンを華々しく飾るための、地味で武骨な3Dの貨物列車だ。

 画面が振動する。アンナはレールに通じている階段を下りた。通過してゆく列車すれすれに立つと、ゆっくりと動いてくる前輪と後輪の間、その中間の部分に飛び込むべく、機を見計らった。


 「あそこよ!」アンナはそれが多少格好の悪いこととは思いながらも叫んだ。「作者に最初から死を運命づけられ、視聴者の欲望の的になったから、私はあそこに飛び込んでやるのよ!そうすれば私はすべてから逃れることができる!」

 

 アンナは先頭車輌の中央部に身を滑らせようとした。しかし、手放そうとしたハンドバッグがうまく離れず、先頭車両を逃してしまった。そして、アンナが吸い付いたように引っかかっている赤いバッグを外そうとしたとき、モーションキャプチャーも一緒に外れた。


 貨物列車の残りの車輌が通り過ぎていく間、アンナは腕を外に伸ばした初期ポーズのまま、そこに立ち尽くしていた。ハンドバッグは放り出され、プラットフォームの上で相変わらず震えている。コメントはクライマックスで発生した重大な放送事故に対し、一瞬静寂した後、様々な評価を残していった。


《wwwwwwwwwwwwwwwwwwww》

《これは伝説の放送事故》

《神様、あらゆる罪をお赦しください》

《腕のとここうなってたんだ》

《ここまで頑張ったのに茶化すのはよくないよ…》

《プラットフォームのシーンは映像的にもめちゃくちゃ評価されるだろうな》


※※※※※


 破滅的な事態を前にしてトルストイが固まる中、アンナの中の人はそれでもこのVtuberを続けねばならないという決意を持っていた。今、アンナという存在を作り上げた人物は、3Dモデルが死を拒否したことによって、主人公に非対称な罰を与えようとしたことに対する罰を受けている。次は、今まで放埓の限りを尽くしてきた視聴者に対する暇乞いの時間だ。

 

 床に落ちた時にどこかが故障したらしいモーションキャプチャを拾い上げ、アンナの中の人は叫ぶ。「私はどこにいるの?誰のためにいるの?不倫の罪を一身に背負うため?視聴者の欲望を満たすため?それとも投げ銭のため?」


 コメントが止まる。


「でも、物語の筋書きと違うことがひとつだけある!私は孤独じゃなかった!」


※※※※※※


 そのとき、何か巨大な力がアンナの3Dモデルの頭を突き飛ばし、彼女の上半身が線路に倒れ込んだ。初期ポーズから変化はしないだろうと感じながら、彼女はコメントを1つ拾った。「神よ、私の、作者の、視聴者のあらゆる罪をお赦しください」


 遠くのほうで、荷物運びの老人が正気を取り戻し、空中に機関車のモデルを召喚した。ニジェゴロド駅に停車していたものだ。そして、マウスを使って強引に車輌を引き寄せアンナの上半身を潰すまでの間、彼女のこれまでの活動や、毀誉褒貶のコメント、そして収益の配分をめぐり議論を戦わせたあとの居酒屋の光が、今まで闇に紛れて見えなくなっていたものをすべて彼女に照らしだしたかと思うと、無音で大量の叫びと、様々な色と通貨単位で彩られた上位チャットの中でだんだんと弱くなり、配信画面が真っ暗になった後は、再び光がつくことはなかった。


 

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