第2章

この喫茶店で働く初日。

不安と期待で店のドアをくぐる。

アンティーク調のドアベルが今の心境とシンクロしたかのようにリンと鳴る。

「おはようございます」

「おはよう」

挨拶を交わすと早速店主が

「このエプロン付けてね」

と黒いエプロンを渡してきた。

この店はこの黒いエプロン以外は指定がない。

なので着慣れたシャツにズボン、それに履きなれたスニーカーという何ともラフな格好なのだ。

引っ越しの際に荷物になるからという理由で洋服の大半を捨ててしまったので、とても有り難い。

そして初日はテーブルの配置とテーブルの上に何を置くのか、どう補充するのかという基礎中の基礎を教わった。

途中、常連さんなのか元気なおじいさんがコーヒーを飲みに来たので挨拶をした。

おじいさんは

「ようやく雇ったのか!新人さん、マスターはもう年だからよろしく頼むよ!」

と大きい声で言っていた。

常連さんが気さくそうな人でよかった。

と心の中で安堵すると同時に、都会のようなめんどくさい人間関係がなさそうなので、ここに来て正解だなと感じた。


「今日はここまで」

そう店主は言うが時間はまだ15時。

「お客さんがいないんだ、しょうがないよ」

そう、今日はお客さんが開店から3人しか来ていない。

そして今に至っては、店の中に店主と俺の2人だけ。

コーヒーについて教わりたかったが

「急いでもいいことないよ」

と店主に諭され仕方なく帰路につくことにした。


帰り道、駅前の書店でコーヒーについての本をパラパラ読んでみたが、さっぱり。

内容が難しく理解ができない。

コーヒーの種類、淹れ方、スペシャルティコーヒー、精製方法。

何が何だかさっぱりわからない。

かろうじて店で使っているサイフォンを使った抽出方法のページを見て、おおまかな手順を知ることができた。

この本を買って帰ろうかと思ったが、内容を理解できないものを買ってもお金の無駄になってしまうと思い断念した。

その代わり、駅前のコーヒーチェーン店でブレンドを飲んでみたが、大まかな味の違いは感じることができたものの概念的なそういった難しいことはわからなかった。

コーヒーというものはそもそも概念的なもので飲むものなのかと、ふと思い考えを放棄した。

きっと違う気がしたからだ。

確かにコーヒーをサーブするまでは何か概念的なものがあるのかもしれない。

しかしお客さんに出し飲んでもらい味わう。

そこに概念などなく、飲んだ人だけが感じる何か抽象的で不安定で飲んだ人によっていとも簡単に変わってしまうような感覚で味わうものなのかな、と感じたからだ。

などと考えてしまうのは少し生意気だろうか。

寒さが肌に刺さる。

さて、帰ろう。




ようやくこの喫茶店での動き方に慣れてきたころ店主が

「そろそろ淹れ方を教えようかね」

といつもの低い声で言ってきた。

正直待ちわびた瞬間だった。

「はい!」

と自分でも驚くくらいの声量で返事をした。

新しいおもちゃを与えられた子供のように目をキラキラさせていたかもしれない。

それほど自分にとって楽しみだった瞬間だった。

すべてにつかれて逃げてきた自分にとって、それまでの過去を忘れさせてくれるほどにコーヒーというものに興味をそそられた。

軽い気持ちで放った一言がこんなにも自分を取り巻く環境を変え、少しばかりの勇気を振り絞ってよかったな、とふと思った。



「まず、うちはサイフォンで抽出してるのでフラスコとロートを使います。」

と店主が説明してくれた。

まるで理科の実験みたいだな、と思ったのを心にそっとしまう。

教えてもらったとおりにコーヒーを淹れてみた。

「飲んでごらん」

店主に促され、一口味わってみる。

違和感を感じる。

同じ豆を同じ分量で同じ抽出方法で淹れたのに、まるで味が違う。

「これ、いつもマスターが淹れている味ではないですよね」

と、店主にも味を見てもらった。

店主は「そうだね」と一言。

カップを置くと

「おいしく淹れるためにはもっと経験がいる。私も長年かけてたどり着いた味だ。一朝一夕でできるようになるものではない。コーヒー豆を知り、その日の気温、湿度、豆の状態を考慮して淹れてあげる。やっていればいずれ出来てくる。」

それにね、と店主は続ける。

「私と君とで同じ味を出すことができても、それは君の味ではなくなってしまう。おいしい君のコーヒーを淹れることが大事なんだ。」

この人の言葉は自然と心にすっと入り込んでくる。

頑張ろう、そう心に決めコーヒーをもう一回淹れてみた。

やっぱりうまくいかないなぁ。



師走も過ぎ、街にはいつもよりゆったりとした時間が流れていた。

コーヒーを淹れ始めてから少し経ち、淹れる姿も板についてきた。

最初のころは常連さんが子供の成長を目に焼き付けるように見守る親のように見守っていたが、それも最初も最初だけ。

今は店主と話すのに夢中だ。

都会の謙遜から逃れて早数か月、嫌なことから逃げ出し喫茶店で働き、徐々に心が楽になってくるのがわかる。

初めは逃げることに抵抗があった。

世間が逃げることを悪としているからだ。

実際に嫌なことから逃れてみると何も感じない。

「ブレンドおねがいします」

店主からだ。

サイフォンで淹れるコーヒーの音が心地よい。

お店の中にはお客さんの談笑の声、カップのカチャカチャと鳴る音、それにコーヒーを淹れる音。

お店の外からはお店の前を走るバイクの音。

あぁ平和だ、とふと思いにふけってしまう。

そんなことを考えているとサイフォンの水が上に上がりきっていた。

火から外し、コーヒーを落とす。

フィルターを通り不純なものを除いた暗い橙色の雫が落ちていく。

周りにはコーヒーの香りが満ちてゆく。













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まどろみの中に まんじゅう @nipeeeei

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