まどろみの中に

まんじゅう

第1章


まっとうな人生とは何なんだろうか。

きっとそれはつまらないものなのだろう。

周りの人間が決めた理想の人生というレールの上をただひたすら歩いていく。

そんな人生は御免だ。




こんなにも清々しい朝はいつぶりだろうか。

騒がしい街も口うるさい上司も煩わしい人間関係もここにはない。

携帯電話も解約し、今手元にあるのは一昔前のガラケーのみ。

全てを捨て離島へと越してきた。

ようやく離島での生活にも慣れはじめ、これからの生活のことを考える。

貯金はまだある。仕事はどうしようか、何を生きがいにしようか。

考え始めると嫌なことばかり思い出す。

こんな時は近所に見つけた喫茶店に行こう。

カラン、と古ぼけたというかアンティーク調と言った方が良いのか言葉にしにくい真鍮製のドアベルが鳴る。

「いらっしゃい」と低い声でカウンターの中にいる店主が出迎える。

引っ越したその日に腹が減り近所に見つけたこの喫茶店は特別何が美味しいというわけではないが、懐かしさを感じるような居心地がある。

おかしい話だ。

一回も来たことがないこの喫茶店に懐かしさを感じるなんて。

店内を見渡すと客が少なくこの店は流行っていないのだろうか、ここに喫茶店を建てたのは間違いだったのでは、と考えてしまう。

きっと地元に根差した喫茶店なのだろう。カウンターに座っている体系はふくよかで顎ひげを生やし中折れハットを被った少し前のヨーロッパの映画にでも出てきそうな紳士風のおじさんが店主と世間話をしている。

仲良く話しているところに水を差してしまう気がしてテーブル席に座った。

これまた古いふかふかしすぎて腰を痛めそうなソファーが妙に心地が良い。

メニューを見ずにブレンドを頼む。

考えることが多すぎてメニューを見て悩むのを避けるのもそうだが、ここのブレンドは、ダークチョコレートにかすかなフランボワーズのような、苦みの中にしっかりと果実味があり、飲んでいると悩んでいるのがバカらしく感じる。

今度豆でも買って帰ろうか、いや、そもそも淹れ方も知らないし道具もない。

道具があったとしても決してこの味にはならないだろう。


このコーヒー1杯を飲み切るのにどれくらいの時間がたったのだろう。

すっかりコーヒーは冷めてしまい酸味が目立つようになってしまった。

カウンターにいた紳士風の男の姿はなくなっており、店主がカップを拭いていた。

私は何を思ったのかカップを拭いている店主に

「ここらへんで仕事はないか」

と質問をした。

店主は少し考え、一生懸命頭を働かせている。

悪いことをしたなと頭の中で思った直後

「ここで働いてみないかい」

と思いがけない返事が返ってきた。

「お給料はそんなに出せないけれど次の仕事が見つかるまでどうかな?」と。

私は飲食店で働いた経験もなければ、コーヒーの知識もからっきしだ。

そんな自分が働けるのだろうか、だがそれも悪くない。

せっかくすべてを捨ててここに来たのだ。

やったことがないことをやってみて見える世界もあるだろう、と。

「お願いします」

私はアルバイトとしてこの喫茶店で働くことを決めた。


この喫茶店は新しい住まいから歩いて5分という近すぎてありがたい。

時給は880円、まかないつき。

一人暮らしの男にとってまかないはありがたい。

料理はできないわけではないが道具をそろえるのが億劫だ。

お客はまばらだ。

混んでいるところを未だ見たことがないだけなのか、はたまた本当に閑古鳥が鳴いているのか。

前者であることを祈ろう。

でないと働き始めて早々に次の仕事を探さなければならなくなってしまう。

これから働くことを想像すると少しばかり緊張してしまう。

楽しみな気持ちとそれから少しばかりの不安と緊張。

あぁこんな気持ちいつぶりだろうか、

そんなことを考えていたらいつもより寝れなかった。

遠足前の子供の様だな…




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