桜の流星群

一六八(いろは)

桜の流星群

「桜の流星群」

                                   浮世

 私の青春は、ここで消える運命なのだ。私はそう思った。

高校三年生の春、私が通っていた公立高校の出席日数が危うい、と担任から告げられた時、私の二年弱による儚い学生生活は終わりを迎えようとしていた。保健室登校、入れない教室、義務教育、校舎を見てもよおす吐き気。私は、弱冠十代にして鬱病を患っていた。

 しんと静まり返った保健室のベッドに寝そべる私は、窓の外に体育の授業をしているだろう同級生、下級生達の爽やかな喧騒を脳の傍で聞きながら、私はこれから道が別れる友の事を思った。目を閉じて、今までの「学生生活」を追想する。私達は強い絆で結ばれていた。私の所属する和太鼓部の部活の部長を務めるAは、病床の私をいつも気遣っていた。無理はしないで、でも一緒に卒業したい、そう言ってくれた。

 しかし、私の心身は悲鳴をあげていた。鬱病になったきっかけは、部活の副部長に就任した事、自分の不明瞭な進路の事、漠然とした憂鬱がきっかけだった様に思う。そして、そういった責務から逃げる事をしなかったのは、Aの存在が大きかった。Aは大人しく控えめな私と正反対で、楽天的でいつも明るくユーモラスで、部のムードメーカーだった。しかし、Aはある時、そういった明るいイメージと裏腹に「弱音や愚痴の言える、心を開ける仲間」をいつも探しているのだと打ち明けた事があった。リーダーという立場は時に孤独で、時に憎まれ役でもある。そうでもしないと、集団は統率出来ないのだ。これが三十代半ばのビジネスマンなら、仕事は仕事と割り切る事が出来たであろうが、Aも私もまだ十代そこそこの等身大の少女だ。平部員が感じる数倍のプレッシャーを感じながら、それでもいつも通り部活動を仕切っていたと思う。Aの理解者は、部活内では私だけだと言っても過言では無かった。対局でいる様で、似ている私とAは一年の頃から友情を深めていた。

しかし、私の心は次第に軋み始める。私もまた、蓄積するプレッシャーや副部長というポジション、迫る受験の影に耐えきれなくなっていたのだろう。気づけば朝、いつも通り教室に入る事はおろか、いつもの様に登校する事もままならなくなっていた。ある日気まぐれに教室に入る事が出来ても、私はそこにいる友達が自分の悪口を言っている様な気がした。完全に被害妄想だった。しかしそれは、私にはどうしようもない事だった。ただ、皆といる事が尊く、それでいて恐ろしかった。私は、その小さな箱の中にしか居場所が無いにも関わらず、ただただそこから逃げ出してしまいたかった。

そして、私は選択を迫られた。担任のその報告が最後の通達となったのだ。その宣告を聞いた私はもうこの高校に居る必要性も、居続ける気力も感じなくなっていた。鉛の様に重い頭と心を引きずる様にしてベッドから這い出る。保健の先生に礼をいった後、保健室の扉に手をかける。その時脳裏に浮かんだのは、私と全く同じ苦しみや孤独を味わっているであろうAを見捨てる自分自身の姿だった。

授業中の暗くひんやりとした廊下を一人で歩く。私の足音だけが廊下に響いている。のろのろと歩みを進める毎に、視界は涙で滲んでぼやけていく。私の高校生活で積み上げたものは、Aとの友情は、こんなあっけない形で崩壊してしまうのか。真っ黒な暗雲が頭に立ち込めた、最低な気分で校舎の外に出る。私を置き去りにする様に春の空は青々として、どこまでも清く澄み切っていた。

私が通っていた公立高校は三本もの坂の上にあった。傾斜のきつい坂は、毎回の登校には堪えるが、教室からの眺めは最高であった。坂の上ということで、風も強く、冬は寒いが体育の後や部活で体を一生懸命動かした後の下り坂は、まさに「青春の一ページ」といった所だろう。そして、坂を下った先には最寄駅とその周辺に広がる商業施設や飲み屋が集結しているのだが、その真ん中にとある施設がある。それはこの周辺でも大規模な総合病院だ。私の仮住まいは、今ここである。真っ黒な電動自転車を関係者駐輪所に止め、私は重々しいガラス戸を押し開く。すこし古びたロビー、奥へ伸びる廊下を進むと、そこには患者には開閉出来ない厳重な扉があった。ナースステーションで動き回っている看護師さんを呼ぶために、インターホンを押す。私の姿を見つけた看護師さんがいつもの様に挨拶をして、私の為に重々しい扉の鍵を回す。私がここ、精神科病棟にやってきたのは四ヶ月前、高校二年の冬だった。

 己の体を投げ捨てる様に、私は病室のベッドに飛び込んだ。病棟に帰ってきたのはお昼頃で、繊細な患者達が集まる精神科病棟とはいえお昼の平和な雰囲気が流れていた。廊下の向こうから、昼食を運んでくる車の音がする。それはひどく優しく陽気で、私の頭の中をさらに憂鬱にさせた。

携帯には、担任からメールが一通届いていた。「申し訳ないが、この調子では卒業に必要な出席日数が確保出来ないので、覚悟を決めてほしい」。そう書かれていた。担任は古典の先生だった。私は現代国語が得意科目だった。他人よりは読解力のある方だと自負していた。私は、その時理解したのだ。真っ暗で底のない冷たい孤独が、私の方を見ている事に。

ベッドに横たえたまま、私は泣いていた。悔しかった。私の回復を信じて、一緒に卒業しようと言ってくれたAの事が真っ先に思い浮かんだ。そして、私には来やしない来年の春の事を思った。私のいない卒業式を迎えるAの心中と、ただ虚しく散っていく桜吹雪が脳裏に浮かんだ。桜の中で、Aは笑っているのだろうか、泣いているのだろうか。どちらにしても、私はもうこの学校には居る事は出来ないのだ。自分が不甲斐なくて、ただただ泣けた。

 そんな中、病室のカーテンがサッと開いて、白衣の看護師が昼食を運びに来る。看護師はベッドの中で泣いている私を見つけて、慰めてくれた。「何かあったのかもしれないけど、ご飯だけは食べてね」と優しい言葉をくれた。看護師が昼食を置いて退室し、お昼ご飯と私だけが病室に残された。私を待つ者は、病棟の昼食ぐらいのものだった。結局私は、看護婦の慰めを無下にして、昼食を残した。看護師は怒らなかった。私は携帯を片手に院内外出をした。担任からのメールには「分かりました、少し時間を下さい」とだけ返信しておいた。

精神病棟の近くには、小さな公園がある。そこには、大きな樹がそびえ立っていた。私は、人間の喧騒に頭が乱された時に、この樹のそばに来て本を読んだり、音楽を聴いたりして心を癒していた。樹は人間と違って、私を拒まない、責めない、求めない。そんな気がしていた。そして、樹の下に座って、私はいつも通り音楽を聴いた。これから、こうして独りで音楽を聴く事が多くなる、少しでも慣れておかないと。そう思って、プレイリストを流す。その時私が私の耳に響いていたのは、「未来にタイムスリップした主人公が、未来の自分に会いに行く」曲だった。その曲の中で、主人公は自分の人生が最期まで素晴らしいものだった事を知るのだ。私は大きな樹の下でAと分かたれた自分の人生が、素晴らしくあるように祈った。

それからは、あっという間だった。担任のメールに私は「高校転学します。また、それについて話しましょう」と返信した。送信ボタンの上に乗った親指は震えていた。でも、それを押し流すように私はボタンを押した。ついにやってしまった、と送信画面を呆然と見つめる。Aと最後に話がしたかった、と思った。

それから概ねの進路が決まった私は、単位制高校に再入学する為にまず精神科を退院する事を目標に動き出した。「当たり前の日常を、当たり前に行う」事を主治医と相談し、目標に定めた。朝はちゃんと起きて、ご飯を食べ、やる気が無くても日中は院内へ出て動き、夜には眠れる様に勤めた。あんなに動かなかった体も、目標がしっかりと出来ると動いてくれた。太陽の光を浴び、日が沈む頃には眠るといった、人間として当たり前な日常を丁寧に、確実に習慣化していく事によって、私の精神状況はだいぶ良くなっていった。さらに、俗世から離れた場所で、自分のペースで日常を折り重ねていく事でAや友達と居た光り輝く青春の日々から脱皮していく実感を得た。私はもう、前に進まなければならないのだ。それがどんなに暗く、冷たい孤独の海だとしても。

そして、春の日差しは幾分鋭くかつ苛烈になり、蝉の鳴き声が聞こえ出した初夏のある日、私の退院の日はやってきた。夏の始まりと共に、私は精神病棟を去った。親が迎えに来るまでに病室を綺麗に直して、荷物をまとめている最中今頃、私の通っていた坂の上の公立高校は受験シーズンの始まりを告げているのだろうと思った。あの狭い箱の中で、皆は皆の進路の為に勉強を進めていて、私の事など記憶の彼方に消え去ってしまっただろうと思った。ただ、Aだけを除いて。どうしようもない罪悪感が胸を刺した時、明るい声が遠くから聞こえた。親が迎えに来たのだろう。私は今まで病棟で使用していた荷物でいっぱいになった鞄を引き摺る様にして、声の方へと歩いて行った。

迎えに来れたのは仕事の関係で母だけだったが、母は私に代わって看護師さんや周りの患者さんに挨拶して回っていた。それを傍目に私はぼーっとしていて、目線の先には重々しいあの扉があった。これをくぐるのも最後か、と思うとこの病棟での窮屈でささやかな生活がなぜか愛おしく感じて、少し涙腺が緩んだ。そして私と母は看護師さん達の眩しい笑顔に見送られて、半年間お世話になった病棟を後にした。両手に鞄を持った私の代わりに、母がタクシーを止めてくれた。重い鞄をトランクに積み込んで、私はタクシーのドアを勢い良く締める。まるで、追いかけてくる過去から逃げる様に私は生まれ育った家に帰り着いた

中退した公立高校の隣の隣の駅。早朝の平日、バスロータリーで私は目を閉じながら意識を巡らせていた。季節はあっという間に秋になっていて、まだ残暑の感じられるやわらかな風の中、ふとこんな事を思った。私は一旦死んだのだ。今日は転学先の高校の入学式だ。公立高校を辞めたのが、誰しもが到来を待ち望んだ春あの日。すべての生命が光輝き、息吹をあげ、この世に生まれた事を謳歌する季節。私は、社会的に死んだ。それも自分の意思で。

飛び降り自殺と何が違うのだろう…。と、残された高校生活の門出の日に辛気臭い事を思ったりもしたが、あれだけ力強く芽吹いていた木々の青も赤く色付いていて、それに私は安心を覚えた。あの逃れられない運命を宣告された春の日から、学校から脱皮したのだ、と。すべての生命は、朽ちて、変色して、やがて土に還る。そんな事を予感させる秋風が、私は愛おしく感じられた。ひゅう、と足元を風が通り過ぎた時、新たな学校の送迎バスが目の前に滑り込んできた。


転学先の私立の高校はいわば単位制高校であり、こう言ってはなんだが決して偏差値の高い高校ではなかった。しかし、私はこの高校で過ごした数年をとても愛しく思っている。友達がいたわけでも、クラブ活動に勤しんでいたわけでもなく、ただ粛々と単位を取るためだけに学校に来る毎日だったが、それでも幸福だった。その高校に行かなければ、一人で景色を眺めながらゆっくりと食事をする喜びも、孤独感の最中音楽を聴く楽しみも知らずに過ごしただろうから。公立高校で見過ごしていた景色や時間の流れを、転学先の高校ではしっかりと感じる事ができた。春は柔らかな日の光に照らし出されて、燦々と輝く葉の揺らぎ、アスファルトに落ちる静かな木陰。夏は吸い込まれそうな青空の下、一人でかじる水色のアイスキャンデー、視線の先にもくもくと浮かぶ真っ白な入道雲、楽しそうに駆け出すクラスメイトの声。秋は夏の終わりを告げる少し寂しげな木枯らし、数多の枯葉で彩られた魔法の絨毯、冬に備えた、衣替えの装い。そして冬には一面の雪。命が芽吹き、精一杯の彩りを弾けさせて、終わっていく。その循環に私は魂の安らぎを覚えた。あぁ、私の青春は決して、終わらないのだ、と。

私は自分の時間をしっかりと生きていく中で、ゆっくりと、それでいて確実に流れていく時間と移り行く背景を友の様に感じていた。穏やかな時間を過ごすことによって、私の病状も段々と春を迎えている事が分かった。そうしている内に、私は高校卒業に必要な単位を全て取得していた。

卒業式の朝、私は眠たい目をこすって身支度を始めた。式は朝九時頃だから、逆算して早くに起きなければいけない。布団を勢い良くめくり、部屋着を脱いで小綺麗な正装に身を包む。昔、親戚の結婚式に着て行った淡いワンピースだ。前から、卒業式の日程は母親に伝えておいたので、リビングに入るといつもの様に整った朝ごはんが私を出迎えた。それらを食べ終えて、身なりを整えていると、そろそろ出発の時刻となった。私は玄関の扉を開けて、家の外に出た。思わず見上げた卒業式の日の空は朝日を吸い込んで、生まれたての赤ん坊の様に無垢だった。 

式が終わった後、私は風の吹く坂道を下っていた。傍には薄ピンクの桜が私を出迎えた。風が桜をすくって、桜吹雪が舞う。世界が私の卒業を祝福してくれてるみたいだな、と私は思った。卒業証書を片手に、私は坂を下る。私はまっすぐ帰り道を歩いていく。背後には卒業に浮かれる同世代の生徒達が騒いでいた。その喧騒に私は少しの懐かしさと切なさを抱く。とうとう私は皆と卒業する事が出来なかった。この日を境に、Aと私の人生は真っ二つに分かれてしまったのだ。それでも長く厳しい冬を越えた春は、うっとおしいくらいに素敵で、私はそれがたまらなく悲しかった。

そして、卒業式から一年後。私はまた春の朝に家を出発した。今日は、大学の登校日一日目だ。私はあの後、予備校に通い詰め、そして大学に合格した。第一志望に現役で合格し、心は晴れ晴れとしていた。

燦々と光の差し込む駅のホームで、こちらに向かっている電車を待ちながらまだ見ぬ大学生活に、私は期待に胸を膨らませていた。耳にはイヤホンが刺さっていて、flumpoolの「今年の桜」のイントロが流れ始めた。そして、次第に快速電車がホームに滑り込んできて、私は駅のホームから私鉄の車内へ足を進めた。快速電車はゆっくりと速度を上げ、周りの景色を置き去りにする勢いで走り出した。その景色を、私は電車内のつり革を握りながら、ぼーっと見つめていた。新学期、大学生活はどんなものだろう。友達、出来るだろうか。勉強はついていけるだろうか。そんなありきたりな不安を、久々に感じた。こんなことを思うのは高校入学の前日以来だな、と。

そんなことを思いながらながら窓の外を眺めていると、私の視界に薄ピンクの物体が通り過ぎていった。

桜だ。私はそう思った。桜は、猛スピードで進んで行く快速電車によって、燃え尽きていく流星群の様に流れていった。それは桜が毎年背負っている必ず散りゆくという運命に、逆らっているかの様に映った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜の流星群 一六八(いろは) @yukkuri0115

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ