第6話

 結衣は主のいない友達の家で、ずっと一人だった。そこには生活感にあふれた家具が並んでいる。服が沢山詰まった大きめのクローゼットの横には、入りきれずに透明のケースに収められた衣類が積み重ねられていた。壁の色に素晴らしく合うカーテンが部屋を明るくしていて、テレビやステレオも部屋の雰囲気を崩さないよう控えめに佇んでいる。洗面所に行けば、そこには友達の歯ブラシがうがい用のコップに無造作に立ててあって、その横には結衣が外泊用に持ってきた携帯用の歯磨きセットが置いてあった。台所には使い古されたヤカンがいつもコンロの上に置いてあって、結衣とお揃いで買った可愛らしい調味料の容器が肩を並べていた。

 そこは決して居心地の悪いところではなかった。むしろ僕らの部屋よりずっと機能的で、結衣の友達の性格を反映してか、必要なものが必要な位置に配置された何一つ不便のない部屋だった。

 結衣はその部屋で、明かりも点けずに床にぺたんと座っていたり、深夜にベッドの上でずっと天井を見つめたりして過ごした。そこでは結衣はただの訪問客であり、彼女が持ってきた外泊用の小さな旅行鞄だけが、その部屋に突然漂ってきた雲かなにかのように置かれていた。


 僕の手に重ねられた彼女の手、体を小刻みに震わせている彼女は、夜の雨の中でずぶ濡れになった子犬のようだった。子供のころから、ひどい寂しがりやで、両親が留守で帰りが夜遅くなるときなどは、ずっと犬を抱いて家の一番奥の部屋の端で震えていたという。そんな話を僕にしてくれたとき、結衣はそれを思い出すのが今でも辛いことらしく、体を揺すって自分を励ますようにしながらでないと言葉が出てこないほどだった。だから結衣が一人暮らしをしたいと言い出したとき、彼女の両親は、これをひとり立ちの第一歩として応援してやりたい気持ちもあるにはあったが、一人の生活に耐えられずに戻ってきてしまうのではないかという心配のほうがそれを上回っていた。娘が家を出るときは、結衣が嫁いでいくときだけだとばかり思っていたのだそうだ。

 実際、一人暮らしは彼女の抱いた夢のようには行かなかった。何かと理由をつけては友達の家に泊まりに行ったり、週末などには煩雑に実家に帰ったりしていた。両親は結衣の顔を見て安心したが不安にもなった。

 僕と結衣が知り合ったのはそんな頃だった。僕たち二人の関係が、まだそれと分からないほんの小さな蕾のころ、彼女が家に泊まりに行くと言って僕を驚かせたのも、そんな事情があったからだろう。僕よりも彼女のほうが積極的だったというわけではない。その夜、彼女は僕を受け入れようとはしなかったのだから。

 そのときのアパートは八畳のワンルームで、必然的に一つの部屋で寝ることになる。僕の心配をよそに、彼女はいつまで待っても現れなかった。待ちくたびれて床につこうかと思っていた矢先、彼女は風呂も歯磨きも済ませたトレーナー姿で突然やってきて、僕に何かを投げつけ、さっさと敷いてあったふとんに潜って寝てしまった。

 僕はあっけに取られたけれども、友達が泊まりに来たときのために用意していたふとんを引きずりだし、彼女とは部屋の両端になるように敷いた。

「そっちは僕の布団だから。こっちで寝たら?」

 と言ってみたけれど、床に転がった見覚えのない熊のぬいぐるみ以外は、誰も聞いちゃいないみたいだった。

 突然の訪問者にすっかり占領された自分の布団を見てすることといったら、ため息をつくぐらいしか思いつかなかった。部屋の中に彼女がふりまいたシャンプーの匂いやら石鹸の香りやらが漂っているのに気付くと、僕はなんだか落ち着かなくなって、冷蔵庫にあったワインをコップに注いで一息で飲み、欲望にかられそうな自分に悪態をつきながら、彼女の真似をして頭から布団に潜った。

 初めてあったときから、自分でも気付かなかった本当の自分を写すことのできる鏡が彼女なのだと感じていた。あのコンサート会場で、僕の上がった息を優しく落ち着かせてくれた、あの時の彼女を思い出すと、僕は安らかな気分になり、彼女の寝息を近くに感じながら、うとうととした。そのうちに僕の布団から這い出した彼女が僕のすぐ側までやってきた。僕が寝ているのだと思ったのかもしれない。いや、もしかしたら僕が夢を見ていたのだろうか。彼女は僕に、そっと彼女が小さいころ飼っていた犬のことを聞かせてくれたのだった。

「そうか、そうだったんだ」

 こみ上げてくる感情を抑えきれず、寝静まっているだろう隣人のことも忘れて叫び出したい気分だった。僕の体は、小さな椅子から落ちまいとぴったりと寄り添う彼女を振り払わんばかりに、どうしようもなく震えた。今や全てのことが一つの糸でつながって、バラバラに引き裂かれていた僕を温かい毛布がくるんでいた。

「あの時見た幻は、きっと結衣の犬だったんだよ」

 彼女は少しビクリと体を震わせただけで、僕が突然発した言葉の理由を尋ねることもなく、むしろそのことで安心したように見えた。彼女には一度も話さなかったというのに、僕が見た犬のことも女の子のことも、そして僕自身のことも、すべて包み込んでくれるような優しい顔をしていた。

 僕は、彼女への愛おしさが込み上げたときに、いつもそうしていたように、包むように彼女の膝に手をのせると、それに応じるように僕の腕に頬を寄せる彼女の髪に口付けした。あの日見かけた白い犬や、その犬の引き綱を持った少女、そして世話になった食堂のおじさん・おばさん達が、僕の到着を長いこと待っていたという顔で集まってきて、僕の心の中で嬉しそうに火を囲んだ。用意してあった薪は勢いよく火の粉を上げて燃えあがった。その炎に励まされるように、僕は長い間先延ばしにしてきた問題を一気に片付けることにした。

 結衣は今ではすっかりこちらに向き直り、じっと僕の目を見つめていた。その瞳には、僕がどんな言葉を口にしても絶対に受け止めるのだという、しっかりとした意思が感じられた。自分を孤独に追い込んだことで、彼女は自分を見つめ直し、強くなっていた。

 僕がその言葉を口にすると、まだ言い終わってもいないうちに、彼女の頬に涙がつっと落ちた。まるでそれが合図ででもあったかのように、込み上げてくる感情に堪えきれなくなった彼女は、泣きながら笑って顔をくしゃくしゃにしてしまった。

 彼女は、はしゃいでいたのだろう。ずいぶんと先のことまで思いを巡らせているようだった。

「ねぇ、大変……私たち、もっと広い部屋に引っ越さなきゃいけなくなるよ」

 僕は泣いている彼女を励ますように、言葉を続けた。

「そうだなぁ、犬も一緒に住めるといいんだけど」

 言いながら、僕は彼女の頭にのっかった遊び道具ごと、しっかりと結衣を抱きしめたんだ。

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青空の記憶 楠木風画 @littlebreaker

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