第5話
彼女は、女の子にしかできない太ももとふくらはぎを床にぺたんとくっつけた座り方をしていたが、手のひらで太もものあたりをピシャっと叩くと、まるで何時間も座り続けたあとのように、這うようにして部屋から出てきた。
「今、お茶を入れるから」
彼女はそう言って流しの前に立つと、幾度となくその小さなキッチンでお湯を沸かしたのと同じ手つきで、ヤカンに水を入れ火にかけた。間もなく熱せられたヤカンがカタカタと音を立て始めると、民族音楽の小さな打楽器の演奏でも聴くように、じっと耳を傾けた。
彼女がそうやって存在しない楽隊の演奏に聞き入っている間、僕は彼女の後姿を見つめていた。彼女は僕が見たことのない新しいジーンズに薄い緑色のTシャツを着ていた。まだ新しいはずなのに、やけに膝の辺りが伸びて膨らみ、裏側にくっきりとした深い皺が刻まれていた。まるで丸一週間、ずっと同じ姿勢で座り込んでいたように感じられた。しきりに腰から太ももの辺りにかけて、自分を励ますように撫でては、時々ぴしゃりと叩いた。
「私が自分の部屋で初めてひとりで寝た日に、何て言ったか覚えてる?」
初めは擦れたような声で、次第に潤いを帯びたいつもの彼女の声でそう言ってしまうと、長い髪を大きくふわりとなびかせて振り向いた。彼女と知り合う前は、女の長い髪というのは表情とか雰囲気を演出するための道具だとか、ファッションの一部のように感じていたのだが、彼女のそれは、まるで彼女の頭にのっかった遊び道具みたいだった。彼女は長い茶色の髪をしていて、部屋でくつろいでいるときは、闘牛士が使うマントのように頭を振ってヒラヒラとなびかせてみたり、ソファの上にシーツのように敷いてその上に寝そべったりしていた。振り向いた彼女の髪がその小さな顔にかかり、それをそっと手で払うと、僕の目を見つめ、すぐに目を逸らした。長い髪の何本かは曲がった針金のように外に飛び出し、色落ちしたジーンズにはいくつもの皺が刻まれている。どこかで道に迷った少女のように、彼女は目の前に立っていた。僕は時間が止まったように感じ、彼女の背後には真っ赤な太陽の光に包まれる夕暮れどきの公園の風景が見えた。彼女は誰もいない公園で、一人乗りのブランコの鎖を右手でしっかりと握りしめ、力なくうつむきながら座り込んでいる。その手は、あまりにも強く握られていたために青白くなっていた。一緒に遊んでいた友達が戻ってくるのを待っているようにも、来るはずのない迎えを待っているようにも見えた。どちらにせよ彼女は孤独だった。もう一方の手を落ち着きなく動かし、太もものあたりをしきりに叩いている。その手には青い引き綱が握られていた。
バタンという冷蔵庫の扉を閉める音で、僕は現実に引き戻された。彼女は驚いたような顔をして目を丸くしている僕に気付くと、子供の体調を気遣う母親のような仕草で僕の顔を見た。
「疲れてるみたいね。話を聞いてくれるかと思ったんだけど」
「いや、そんなことない」僕は口の中でもごもご言ったけれど、彼女はそれを無視して青い包装の箱を差し出した。
「これ友達のお土産なんだけど、食べてみて」
そう言って彼女は、箱にぴったりと張り付いた包装紙を、子供が待ちに待ったプレゼントを開けるときのように、びりびりと乱暴に破きはじめた。
「よっぽどお腹がすいてるんだね」
僕は彼女がいつものように包装紙を破るのを、テーブルに頬杖をついて眺めていた。彼女への最初の贈り物で指輪をプレゼントしたときも、彼女は静かなレストランでホワイトクリームをたっぷりとかけた鴨肉のステーキを前にして、同じように大きな音を立てて包みを破いたのだった。食事の前にプレゼントを渡したかったのだけれど、思いのほか料理が早くきてしまって、テーブルには僕のプレゼントと料理が一緒に彼女の前に置かれたのだった。とてもお腹が空いていると言っていた彼女だったけど、最初にかぶりついたのは食べ物ではなく、僕がさんざん頭を悩ませ、しまいには自分の一部分に感じるほど愛着を持つようになった贈り物のほうだった。彼女はまるで、それが憎憎しいものでもあるかのように、引きちぎるように包みを開け始めた。このとき初めて彼女のそういう習慣を目にした僕は、紙を破る大きな音に驚いて振り返った隣のテーブルの老紳士とともに黙って見守るしかなかった。彼女は周りの反応など気にせず、化粧箱の中から指輪のはめ込まれた紺色の箱を取り出し、土の中から宝物を掘り出して汚れた顔も構わず屈託無い笑顔を浮かべる子供のような顔をして、その宝物をテーブルの上に吊り下げられた淡い照明の光に当ててもてあそんでいた。
こういう場合当然の展開として、僕はありがとうの一言を待っていたのだが、彼女は目の前にいる僕のことなど忘れているかのように、黙々と、どの指を指輪で飾るかということを考えているみたいだった。いつもは職場の友達の話とか、彼女の車をどこかにぶつけて傷を作った話とか、くるくると話題を変えながら、いつ尽きるともなくしゃべり続ける彼女だったが、本当に胸がいっぱいのときは自分の世界に入り込んで周囲が見えなくなってしまうようだった。だから僕は一人ぼっちでポツンと座って、彼女が正気に戻るのを今か今かと待ち侘びるしかなかった。
突然、土産物の包装紙を破っていた彼女の横顔から表情が消えたかと思うと、開けかけの包みをそっと置き、ゆっくりと天井を見上げた。その目はこの部屋の中のどこか一部を見ているというよりは、どこかもっと遠く、壁に隔てられた夜空を仰ぐような視線だった。
「結衣?」
彼女の名前を呼ぶのは久しぶりだった。引っ越してきてからというもの、ここしばらく名前で呼び合うことなどなかったんだと気付いてはっとした。
「お土産って……友達の家に泊まりに行ったんじゃないのかい?」
何かもっと大事なことを言うべき気がしていたが、僕は最初に思った疑問を口にした。
「うん」
結衣はそう返事をしたが、視線は遠くを見つめたままだったので、僕は彼女が話を聞いてないんじゃないかと思った。なかなか次の言葉が出てこないので彼女の肩に手をかけようとしたとき、やっと話を始めた。
「だけど彼女は旅行の予定があったの。結局私が彼女の部屋で留守番を引き受けることになったってわけ。でも、彼女。旅行先から帰ってきたとき、私がまだ部屋に居たんでびっくりしたみたい。彼女としては私に合鍵を預けたり留守番を頼んだりするのも、全部冗談のつもりだったのよね。私がすぐに帰るもんだとばっかり思ってたって言ってた。その証拠に彼女、帰りにいつものスーパーで自分一人分の夕食のおかずしか買ってこなかったんだから。彼女本当に申し訳なさそうな顔して謝るから「居心地良くって、そのまま居着いちゃった。ごめんね」って言ってあげた。そしたらせめて夕食でも一緒にって、ディナーをご馳走になってきちゃった。もうお腹いっぱい」
それだけ言ってしまうと、結衣は隣に座って僕の手を擦るようにしながらぴったりと腕を重ね合わせた。テーブルとセットになった椅子はベンチシートになっていて、両側に二人ずつ座るようにくぼみが作られていたが、その幅はとても狭く、いったいどんな人なら二人並んで食事ができるのやら見当もつかなかった。このテーブルと椅子も、ここに越してきたときに結衣と一緒に選んだものだ。初めてこの食卓が部屋に来たときに一度だけ試したやり方で、彼女は僕の横に座っていた。彼女は幅の狭さに初めて気付いたとでもいうように大げさに驚いて見せたが、僕は結衣に触れている腕の皮膚から、彼女の体温や肌の感触とは違ったものを感じ取っていた。それは静電気のように手と手が触れた瞬間に伝わるようなものではなく、ゆっくりと伝わってくる体温のように僕の意識の中に染み込んだ。
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