第4話

 僕が忘れ物を受け取りにその場所にたどり着いたとき、おじさんとおばさんの食堂は跡形もなく消えていた。代わりに洒落たみやげ物店が二軒並んで建っており、僕は自分の記憶を疑って辺りをぐるぐると探し歩いた。けれど結局たどり着いたのは、二人があの時からもう歳を取ることもなく、僕の思い出の中にしか存在しないのだという事実だった。

 近くの民家でござを干していた老人の話では、食堂の奥さんは病気で亡くなり、ご主人も後を追うように逝ってしまったということだった。何処に埋葬されたのか知っているものは誰もいなかった。大阪に息子夫婦がいて彼らが引き取っていったという話も耳にしたが、それも確かではなかった。

「ごめんな、今日はもう終いだよ」

 声のするほうを見ると、列車の窓の写りこみに、おじさんの笑顔が浮かび、すぐに消えた。


 終電間際の各駅停車を乗り継いで自宅近くの駅のホームに降り立ったとき、そこに僕以外の乗客の姿はなかった。走り去った電車から迷い出た新聞紙が、僕の歩く数歩先を舞っているだけだった。

 どこをどう通って帰ったのか覚えていない。アパートに着くと、僕は酔ったような足取りで階段を上った。頼りない作りの階段は歪んだままになっていて、いつも決まった調子で左右にふらつきながら上らなければならなかった。

 誰もいないと思っていた僕の部屋には明かりが灯っていた。僕はこの世界に天涯孤独の身で放り出されたような気がしていたから、一瞬ここが自分の部屋じゃないと思った。聞きなれた声が部屋の中から僕を捕まえてくれるまで、自分の部屋を探す旅にもう一度出発しようと本気で考えていた。

「今日はもう会えないと思ってたわ」

 開かれたドアの中から、最初に僕の目に映ったものは彼女の細い腕だった。

 僕が手にしていた旅行鞄を受け取ろうと彼女の手が差し出されたとき、僕はその好意を払いのけるように背を向けて靴を脱いだ。くだらない意地を張って、そんなふうに彼女に背を向け始めてから、もうどのくらいの月日が過ぎただろう。部屋に置かれた観葉植物が背を伸ばし始める春が来て、梅雨の雨雲が暗く影を落とし、アスファルトの焼けた匂いが漂う夏が過ぎ去っても、僕は彼女に背を向け続けた。一度は互いの瞳の中に自分の心が見えるほど理解しあっていたはずなのに、今ではそこに深い霧が立ち込め、何も見えなくなっていた。

 彼女が顔色も変えずに奥に引き返していくのが肩越しに感じられた。以前の彼女なら僕の態度に憤慨し、目を真っ赤にして抗議の態度を示したことだろう。僕は彼女の充血した目に驚き、手の先を真っ青にして震えながら訴え続ける彼女のことが心配になったものだ。そんなとき僕は彼女の手を握り、鎮静剤を打つ代わりに、内に秘めた愛情を子供に聞かせる寝物語のように話して聞かせたものだった。


 歩き疲れて棒のようになった足をゆっくりと靴から引っこ抜きながら、僕は彼女の細い腕のことを考えていた。遠い昔、いや、ほんの二、三年前のことだ。街の雑踏の中ではぐれまいとして初めて彼女の手を握った時、自分が彼女をどう守り、どう歩いていこうとしたか。この細い腕を折らずにおくには、いったいどんな握りかたをすればいいのか。今思い返せばまったく馬鹿げた考えだったけれど、包帯でも巻いておけば誰も君の腕にぶつかってこようとはしないだろうと提案しもしたし、寝返りを打って彼女の腕を折ってしまう夢も一度ならず見た。女性と付き合って、相手の気持ちより体のほうに気を遣うなんていうのは僕にとって初めてのことだった。

 彼女は決して美人という顔立ちではなかったし、彼女の冷ややかな表情のせいで初対面の人が持つ印象も良いとは言えなかった。人に笑顔を向けようとするにはするのだけれど、無理に引っ張った糸がすぐ切れるみたいに、すぐに元の、離れたところから人を眺めるような顔に戻ってしまうのだった。

 僕が彼女に惹かれたのは、まだ彼女のことを何も知らないときからだった。

 その日、僕は友達が仕事の都合で行けなくなったコンサートに開演間際に飛び込んだ。暗くなりかけた会場でやっと指定席を見つけ、たった今ここで精根尽き果てたというようにへたへたと座り込んだのだった。学生のころに一度聴いたきりだったフルオーケストラの演奏が始まり、ホール全体が弦楽器の豊潤なハーモニーに包まれると、僕は重い荷物を抱えて走ってきたせいで荒くなった息を、大きくため息をついて整えなければならなかった。気がつくと隣の席の女性も僕と肩の動きを合わせるように息を大きく吐くのが感じられた。僕は彼女の方を向きかけたが思い直して止めた。彼女のほうもそれに気付いたみたいだった。彼女はジーンズにTシャツという格好で、揃えた足の上に置いた手を開いたり閉じたりしていた。それは爽やかな草原の空気をゆっくりと深呼吸しているかのように実にゆっくりとした動きだったので、彼女の手の動きに合わせて呼吸をすることで僕の弾んだ息もすぐに収まったのだった。視界の端で、長い髪の間から見える彼女の表情は安心しきった穏やかな様子で、曲が進行して二つ目の主題が流れるころには、僕はすっかり彼女のほうへと気持ちを向けてしまい、演奏が耳に入らなくなってしまった。客席の薄暗い中でも、白い肌を露出した腕は、はっきりと見えていたし、ぴったりとくっつけた二つの膝小僧には、まるで目と鼻と口がちょこんと配置されているように見えて、寄り添う小さな姉妹のようにいじらしく見えた。うまく説明できないけれど、僕たちはこんな風にして、一緒に呼吸を整えながら互いに惹かれあっていったのだった。終演後になかなか立ち上がろうとしない彼女に話しかけたのも、一緒に来た友達に話しかけるように自然なことのように思えた。


 僕が荷物を玄関に置いたまま台所に行くと、彼女は流しで洗い物をしていた。彼女は洗い終わって並べてある食器を手に取り、また洗った。僕が食卓に腰を下ろすと、彼女は手を止めて自分の部屋へと引き返した。僕の横を通り過ぎるときに、ちらっと見えた彼女の横顔には、何か訴えたげな気持ちが見え隠れしていた。

 自分の部屋に戻った彼女は、大きなダンボールの中に何か重たそうなものを放り込むように入れていた。どすんどすんと重い音がする。下の部屋の人に迷惑になるんじゃないかと心配になったが、彼女の気持ちが読めず声をかけるのがためらわれた。


 自分の部屋が持てる広いところに引っ越したいという彼女の希望で、今のところに移ったのは一年ほど前だった。僕にとっては通勤のために最寄りの駅までバスを使わなければならなくなった分不便になったわけだが、彼女は自分の軽自動車を運転して通勤していたので、むしろ駐車場付きのアパートを借りられたことで便利になった。そのことを気にしてか、最初のうちは駅までの送り迎えを几帳面にしてくれていた。一ヶ月もすると環境にも慣れてきたので、僕は彼女の運転する軽自動車からバスに乗り換えた。彼女の負担を軽くしてあげたいという気持ちからだったのだが、毎日の送り迎えを幸せな生活の象徴のように感じていた彼女は、僕の自立を喜ぶどころか、まるで裏切られでもしたかのように非難した。はっきり口に出して抗議したわけではなかったが、その日を境に毎晩風呂上りにワインを飲みながらしてあげていたマッサージを断るようになった。

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