第3話

 年が明け、また暑い夏がくると、僕は岩手へ向かう列車の中にいた。学生の頃、初めての一人旅で訪れた、ある小さな町をもう一度訪れてみようと思ったからだ。市街地から少し離れ、これといった観光スポットもない寂しい町だったが、当時の僕にはその雰囲気がとてもありがたくもあった。家庭でも学校でもこれといったトラブルもなく平凡な学生生活を送っていた僕だったが、何故か人とうまく付き合うことができず、常にカーテンを引いた部屋の中からしか外の世界と接することができなかった。自分でもそんな自分とどう付き合っていいか分からず、たまらなく寂しくもあった。手探りで闇からの出口を探していた僕は、夏休みに貯金を全部下ろして電車に飛び乗り、その町に一週間ほど滞在したのだった。毎日何をするわけでもなく、その辺を散歩して過ごした。狐や狸が出てくるわけでもない。道路には車が行き交い、東京ほどではないが朝のラッシュもある。気の抜けるほど、自分が生まれ育った町との違いは感じられなかった。

 その町での滞在中、ずっと夕食を世話になっていた食堂があった。木の枠に磨りガラスの引戸をガタガタと開くと、中には鉄パイプにビニールシートの椅子と薄い肌色のテーブルが六つ並べられていた。店先にある真新しい自動販売機やテレビから流れる都会と変わらない映像がどこか不釣合いに感じられたのを覚えている。店の奥からは、常にさまざまな調味料の入り混じった香りが漂い、のれん越しに顔を出す主人の顔が印象的だった。彫りの深い端整な顔つきは昭和四十年代の映画俳優を思わせ、深く刻まれたしわに優しさが感じられた。彼の奥さんは小柄でよく太り、転がせばどこまでも遠くに行ってしまいそうな体型だった。目尻やエクボの周りが深い皺で刻まれ、常に笑顔を絶やさない人柄が一目で感じられた。それでも夫婦の間で喧嘩が全くなかったわけではなかった。というのも、お客さんが僕だけしかいなくなると決まっておばさんのほうが色々な不満を思い出し、奥の洗い場からおじさんに小言をならべていたからだ。どうしてわざわざお互いの顔が見えないところで文句を言うのか分からなかったけれど。おじさんは、おばさんのこの発作的な行動にすっかり慣れているらしく、口答えすることもなく「まったくしょうがないよな」という顔で僕に微笑みかけるのだった。この食堂のおじさん、おばさんが、僕が他人に無防備な笑顔を見せた最初の人だった。


 列車が二人の住んでいる町に近づくほど、僕は二人の笑顔をはっきりと思い浮かべることが出来るようになった。それが僕には嬉しくてたまらず、列車がトンネルを出て明るい光が差し込んできたときなどは、自分自身が光り輝いて辺りを照らしているような気になった。僕は旅行鞄の中からカメラと新しいフィルムを取り出した。それは、この旅行のために職場の近くの中古カメラ店で買ったものだった。その日、真鍮製からプラスチックボディのものまで新旧入り乱れたカメラやレンズが雑然と陳列されたショーケースの中を、僕の視線は子供のように落ち着きなく跳ね回った。やがて、見覚えのあるカメラを見つけると、夢から覚めるときの、あの狭い場所から抜け出るような感覚がして、僕は突然思い出した。それは幼いころのアルバムの中で、他のどんな写真よりも嬉しそうな笑顔を浮かべた小さな僕が、抱えるようにして持っていたカメラと同じものだった。僕はその写真が大好きで何度も眺めていたので、カメラの形も絵に描けるほど頭に焼き付いていた。だからそれを見つけたとき、興奮して大きく鼓動する心臓の音を、誰か他の人が聞きつけやしないかと心配になるほどだった。

「これ、写せるんですか?」

 年老いた店主は「よいっと!」と渇いた掛け声とともに腰を上げると、ショーケースの明かりのスイッチを入れた。くたびれた蛍光灯が点いたり消えたりし、やがて点灯した。店主は黒縁の眼鏡をゆっくりとした動作で鼻の上に乗せると、ショーケースの重いガラスの引戸を開きにかかった。何度も休みながら随分と時間をかけて戸を引きずっているので、途中で手を貸すべきかどうか真剣に悩んでしまった。店主を老人扱いして気を悪くしないだろうかと思い悩むうちに戸が開いてくれたので、店主と共に僕もほっと息をついた。カメラを取り出して見せてくれるのかと思っていたら、踵を返して店の奥へと引き返していった。

 フィルムを巻き上げるレバーを操作する音やシャッターを切る音が、壁掛け時計のコチコチという秒針が時を刻む音と共に聞こえてきた。おそらく店主が長い年月の間に相手にした何百何千というカメラにしてきたのと同じように、僕には聞くことさえできないような写真機の発する微かな言葉に耳を傾けているのだろう。僕は手元の時計を見ながら、仕事に戻らなければいけない時間を気にしはじめた。

 しばらくして、先ほど顔を出したときとは全く別人のように厳粛な顔をした店主がカメラを持って出てきた。その店主の様子を見た僕は、喉元まで出かけていた欠伸を飲み込み、背筋を伸ばして彼の一挙一動に注目せずにはいられなかった。ショーケースの上にカメラを置き、裏蓋を開いて頭の懐中電灯の光をあてながら説明をはじめた。

「動きは問題ないみたいだね」

 店主は健康状態を患者に宣告する医者のように、こちらが喜んでいいのか悲しんでいいのか判断に困る抑揚のない声でそう言った。

「ただ、シャッター幕のここにカビがあるだろう?」

 見ると確かに白い汚れのようなものが広がっていた。それがカメラにどんな影響があるのか分からなかったが、写りには問題ないという店主の言葉を信用することにした。懐かしいカメラをなんとか手に入れたいという気持ちが先行して、細かいことを気にする余裕はなく、すぐに購入を決めてしまったのだった。ショーケースの中の正札の値段より、少し値引きしてくれた。


 列車がまたトンネルに入ると、車内の蛍光灯に照らし出された自分の顔が車窓に青白く映しだされた。浴室で鏡を見るのとは違って、こういうときに見つめ返してくる僕の目には何かしら心の内を見通せるような力があった。その目の奥に宿るものから、僕は半年前の出来事を思い出していた。

 結局、あの日に偶然見た迷い犬の張り紙について、僕は何も確かめなかった。僕の見たその犬が、写真と同じかどうか、持ち主に連絡して確認することもしなかった。電話番号も一部消えてしまっていて、正確な番号が分からなかったからだ。

 消えていた二桁の番号に順番に数字を当てはめていけば、連絡を取ることはできたはずなのに、僕はそれをしなかった。その犬が今どうなっているか知るのが怖かった。それに次の日に見た少女の存在も気になっていた。あの娘が、もし飼い主だったら、今頃どうしているのだろう?全てをハッキリさせるのが怖くて僕は逃げ出したのだった。


 目的の駅にたどりつくと、僕は無意識のうちに、あの懐かしい夫婦のいる食堂に向かって走り出した。胸の高鳴りを抑えることができなかった。突然食堂に入っていって、「おじさん、おばさん。久しぶり!」と叫んだら、どんな顔をするだろう。注文を取りに出てきたおばさんは目を丸くして腰を抜かし、店の奥まで転がっていってしまうかもしれない。それを見ていたおじさんは、またいつものように笑って僕に視線を送るのだ。駅前の丸いポストも、角の煙草屋を兼ねた駄菓子屋もなくなっていた。だけど道順は覚えていた。呼吸を整えるために一度立ち止まって大きく深呼吸すると、あの食堂に充満していた臭いが、もうすぐそこまで漂ってきている気がした。僕のことを思い出してくれたら。僕の成長を喜んでくれたら。ありがとうと言いたくて、ここまで来たことを伝えよう。


 東京へ引き返す列車に乗客の姿はまばらだった。燃えるような夕暮れの太陽がオレンジ色のシーツをかぶせたように車内を照らしていた。僕は斜め前の座席で楽しそうにしている家族連れを、流れる雲を眺めるような目で見つめていた。幼い兄弟が袋の中の菓子を競うように口にほお張っていた。兄が大きなかけらを取り出すと弟がその腕ごとつかんで口へと運ぼうとする。兄が弟の頭を押さえつけると弟のほうは口を大きく開けたまま餌を待つ雛鳥のように首を伸ばす。

 僕はしばらくその様子を眺めながら、自分にもあんな時期があったのだろうかと訝しんだ。それは引き取りに行かなかった忘れ物のように、期限切れとなって処分されてしまっていた。「その忘れ物は僕のものです」そう名乗り出なかったばっかりに。

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