第2話

 その夜、僕は夢を見た。あの少女と犬に出会ったケヤキ通りの空は、眩い日の光に照らされた雲に覆われていた。燃えるように空に広がるうろこ状の雲の中から、巨大な白い龍が現れ、長い首を左右に揺らした。その動きに大気が揺さぶられ、重苦しいほどの風圧が、僕を地面に押さえつけるように吹き下ろした。僕はその龍の大きさに圧倒され、地面に縛り付けられたように身動き一つできなかった。

 そのうちに龍の動きはピタリと止まった。そして今までに聞いたどんな動物の鳴き声より、ずっと悲しげな声で鳴いた。その声は恐ろしい龍のうなり声などではなく、犬の遠吠えのようにも聞こえた。僕は何かを尋ねたい気がして話かけようとしたが、それを声にする前に空の龍は雲の中に消えてしまった。

 そんな不思議な夢がある出来事と重なり、僕に旅に出る決心をさせたのは、一週間後の風の強い日のことだった。


 このところの忙しさですっかり体力が落ちていたらしく、ちょっとした風邪だと思って仕事を休んでいたものが、ふたを開けてみれば回復までにたっぷり一週間必要だった。熱が下がって明日は仕事に復帰できるかなと思えば、翌朝また体温計の目盛りは三十八度を指すのだった。このようにして登り降りを繰り返し、山を三つばかり越したところでようやく布団から這い出ることができた。

 よろよろとした足取りで電車を降りたのは、なにも病み上がりで筋力が落ちたからだけではなかった。復帰第一日目に僕を迎えたのは気持ちの良い青空ではなく、街の埃を巻き上げながら容赦なく吹き付ける風の強い日だった。

 あの犬や少女に出会った通りにさしかかると目の前の景色がゆらゆらと歪み、足取りはますます怪しくなった。まるで慣れない竹馬に乗ったように歩道を浮遊してしまい、到底これが自分の足だとは信じられなかった。危うく転びそうになるのをなんとか踏みとどまって立ち止まると、少しずつ僕の記憶もはっきりしてきて、何かがなくなっているのに気付いた。埃っぽい風に目をしょぼしょぼさせながら必死で目を凝らすと、そこにあったはずの車道と歩道を隔てていた石造りの花壇が取り壊されてなくなっていた。歩道の脇には、その花壇の残骸か工事に使用した何かの道具が白いシートで覆われていた。

 僕は初めて自分の自転車が盗まれてしまったときと同じように、そこですっかり立ち尽くしてしまったが、花壇がなくなってしまったことを悔やんでいた訳ではなかった。あんなに大きなものが見慣れた風景の中から忽然と消えてしまったというのに、その消えたものが一体何なのか、すぐに思い出せなかったことに愕然としたのだった。仕事への依存度が高まり、通勤のために道路を歩く時間など全くの無駄と決め付けていた僕にとって、それは初めからなかったも同然だったのだ。

 胸にぽっかりと開いてしまった穴を埋めようとする失恋したばかりの男のように、僕は懸命に記憶の引き出しから自分を慰める思い出となりそうなものを拾い集めた。ようやく、いくつかの光景が目の前に浮かんでくるころには、意識がはっきりとして地面にしっかりと足をつけて立っていた。

 足早に行き交う人々を持ち前の意に介しない態度でやり過ごす野良猫がその花壇に横たわっている姿や、暖かな日に猫の真似をして寝転んでいる男性。そんな所で寝ていて大丈夫なのかと心配になったものだ。時折、鳩がやってきて何かを突いていったり、人々が入れ替わるように座り込んで話し合い、子供の声が聞こえたりしたその花壇も、いつの間にか消えてしまっていた。

 歩道には二台のトラックが止められており、花壇に植えられていた草花や、それを育んでいた土が山のように積まれていた。きっと道路を広げるとか何か別のものを作るとか立派な理由があるのだろうが、それにしても、そういった工事の反対運動の張り紙ひとつ見かけなかったのは僕には意外だった。自然の河川や森を破壊する工事なら、きっと周辺住民の反対にあうのだろうが、人工的に作られた憩いの空間は作られたときと同じく手軽に処分されてしまうのだろうか。いつもなら、ここらで昼寝をしていた猫のように、そんなことには無関心でいられたのだろうが、風邪ですっかり体力を無くして傷つきやすい部分を露出させてしまった僕は急にやりきれない気持ちになった。

 弾けるような音がして何かが足元に当たり僕は驚いて飛び上がりそうになった。それはトラックの荷台から気まぐれに吹いてきた北風にあおられて僕の足元に飛んできた、うす汚れた紙きれだった。左足に貼り付いたまま離れようとしない紙くずを、僕は仕方なく拾い上げた。それが印刷の文字だったら気にも止めず、そのまま捨てていたかもしれない。でもその紙には太いマジックで手書きされたような文字と犬の写真が刷られており、長い間風雨にさらされていて所々まるで虫にでも食われたように穴が開いていた。今にも崩れ去りそうなその紙くずを、小鳥を抱くようにそっと手に包み強く吹き付ける風から守った。風をしのげる地下街の入り口の階段を下りてベンチに腰掛け、そっと紙を広げた。それは迷い犬の特徴と連絡先が記された張り紙だった。ひどくインクが滲んでおり、犬の名前も種類も読み取れなかったが、写真から見て取れる犬の特長には見覚えがあった。そこに写っている大きすぎるリボンのような首輪こそ無かったが、その犬はあの真っ青な空が印象的だった日に見かけた白く美しい犬にそっくりだった。

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