青空の記憶

楠木風画

第1話

 落ち葉の舞う歩道で先を急ぐ僕の前に、手品師がハンカチの中から鳩を出したかのように、その犬は現れた。


 馬のそれのように筋肉質で美しく伸びた首。

 たった今トリミングされたばかりのような、艶やかで肌触りのよさそうな白い毛が全身を覆っていた。犬の種類は知らないほうではなかったが、その犬についてどれだけ考えを巡らせてみても、僕の知っているどの犬種にも当てはまらなかった。

 たぶん雑種なのだろう。柴犬ぐらいの大きさで、日本犬には見られないダルメシアンのような伸びやかな体をしていた。


 僕は遠くを見つめるようなその犬の横顔に見惚れ、今ではすっかり立ち止まってしまった。まるで役者のそれのように哀愁と気品を感じさせるような顔つきで、じっと空を見つめる姿を見ていると、古いアメリカ映画の一場面を見ているような気分になった。彼の視線の先に目をやると、真っ青な空と、その大きなキャンバス一杯に無造作に描かれた模様のように、白い雲がうろこ状に広がっていた。

 職場への道のりを、目の前の路面や信号ばかり見ながら黙々と歩いてきた僕は、その時はじめて空がこんなに青く綺麗だったのに気付いた。そんな自分を少し恥じながら、しばらく足を止めて彼と一緒に空を眺めた。すっかり葉を落とした大きなケヤキの枝、その遥か上空で世界を覆うように広がる空の、青と白の美しいコントラストの谷間に吸い込まれてしまいそうだった。

 僕は空を眺めるうち、その犬とずっと長い間友達同士だったような気分になった。そうしていると、自然と心が落ち着き、柔らかい毛布にくるまれているような時間を過ごすことができるのだ。そんな懐かしい感覚を久しぶりに味わいながら、僕はしばらく、そこに根の生えたように立ち止まっていた。


 背後から歩いてきたOL風の女性が、僕のすぐ目の前を足早に通り過ぎた。その足取りは、歩道の真ん中で立ち止まっている僕を非難するデモ隊の行進のように感じられた。

 僕は仕方なく職場への行進に復帰することにした。いつまでも犬と一緒に時間を潰しているほど暇ではないし、彼のほうも僕と一緒にいることを望んでいる訳ではないだろう。

 その犬の前を通り過ぎ、角を曲がる前に、ふと気になって振り返ると、そこに彼の姿はなかった。足を止めて辺りを見回したが、歩道に敷き詰められた落ち葉と青空に広がる雲が見えるだけで、走り去る犬も飼い主らしき人物も見当たらなかった。僕が目を離していた一瞬の間に何処かに走り去ったというよりは、ある角度からは見えない別次元の空間に去っていったような気がした。


 僕をやさしく包んでくれた出会いの余韻も、仕事場に足を踏み入れると、すぐに忘れてしまった。会ったこともない相手から引っ切り無しに送られてくる電子メールのために、必要最小限の労働と誠意を込めた返信を繰り返すのが、日々繰り返される僕の日課だ。

 コンクリート剥き出しのモダンな作りのオフィスも、初めて見たときには、ずいぶんと感心したものだが、今では不用品を積み上げた倉庫に机を並べただけの忘れ去られた空間で、灰色になるまで働く悪夢を見るまでに僕をうんざりさせていた。何年も同じ場所に座るうち、いつも足を置いている床が削れてへこんできているような気がする。


 ようやく一段落がついたところで、壁の時計が十二時を回ろうとしていることに気付くと、僕は大きく伸びをして深呼吸をした。こうして肺の中の空気を換気して全身の筋肉に動けと命令してやらないと、ぴったりと椅子に張り付いてしまった体を仕事から引き剥がすことができないのだ。昼飯なんて安く早く食べられればいいと思っているいつもの僕だったら、この日もカレーライスか何かを水で流し込んで終わっていただろう。その後少し辺りを散歩して、時間きっちりに仕事に戻るのだ。だけど、この日はそうじゃなかった。


 昼食のために外に出ると、いつもは目を向けることのない空を見上げた。空には雲ひとつなく真っ青な空が広がっているのがビルの谷間から見える。僕はなんともすがすがしい気持ちになった。そして今朝出会った犬と一緒に見た青空の記憶を、くすぐったいような感触を味わいながら思い出した。


 そうして、僕は今朝の犬と出会った通りが見渡せる飲食複合ビルの最上階の店で食事にありつくことにした。最上階といっても、そこは三階で、通りを行き交う人の表情まで、ある程度見ることができた。

 柔らかそうな木の質感がプリントされた、落ち着いたテーブルと椅子。頭の上から膝ぐらいまで磨きこまれた大きなガラス窓が張られ、外の景色との間を上品に隔てていた。薄い緑色のガラスから外の景色を眺めると、今朝の青空の下で唯一秋の終わりを主張していた寒々しい風は止んでいて、徐々に暖められた地面から暖かな空気が通りの雰囲気を明るいものにしていた。

 行き交う人々はコートのポケットから手を出して背筋をしゃんと伸ばしていたし、通りに置かれたベンチに座っている人々も足を伸ばして本を読んだり弁当を広げたりして思い思いの時間を過ごしていた。その店では昼食や夕食にはパスタ、その他の時間帯はケーキ類が人気のようだった。ちょっと値段も高めだし頼んでから出てくるまでに結構時間もかかる。だから一度だけしか来たことがなかった。

 そんなところにわざわざ足を運んだのは、この店の窓際の席で、どうしても通りを眺めていたかったからだ。外の風景を眺めながら、あの犬との出会いや一緒に眺めた空の記憶をたどってみると、何かが胸の奥に引っかかるような気がした。その引っかかるものが何なのかは、抹茶を絡めた和風味のパスタを全部平らげても、愛らしいカップに注がれた紅茶を飲み干しても、一向に分からなかった。一心不乱に仕事を続けることで止まり続けた僕の精神の均整は、このときすでに崩れていた。


 翌朝、あの白い犬と同じ場所で空を見上げていたのは少女だった。

 その少女は、誰もが足早に行き交う歩道の片隅で、まるでそこだけ時間の流れが止まっているかのように、じっと空を見上げていた。白いセーターの上に茶色のコート、黒っぽいジーンズの下からは大人っぽい黒のブーツが覗いていた。それは彼女のふっくらとした頬や後頭部で髪を丸くまとめた髪型から受ける幼い印象とは対照的だった。光の当たった頬のあたりには、まだあどけない少女の優しさが残っていたし、影になった首から耳元にかけてはある種の女らしさが言葉少なに語られていた。

 僕にとって、そんな具合に人をつぶさに観察するというのはついぞなかったことだった。たとえ、すれ違った人が片方の靴をどこかに置き忘れてきていたとしても、靴下の柄がどんなだかなんて気にしないのだ。

 彼女はただそこに座っているだけだったが、僕に何かを訴えかけていた。少なくとも僕にはそう見えた。どこかで見覚えがある気もしたし、またそうじゃないかもしれなかった。足早に歩く僕と彼女の距離はどんどん近づいていたが、一歩また一歩と進むうち、僕は彼女に何もかも見透かされているような気がしてひどく混乱していった。


 彼女が手にした犬の引き綱が見えたとき、僕は驚いて足を止めた。青く太いものと白く細い糸が交互に編みこまれた、どこにでも売られているような引き綱のように見えた。引き綱の片一方の先に結び付けられた首輪が目に入ったとき、僕は夢の中にいるんじゃないかと錯覚して、しばらく現実の感触を手探りで確かめなければならなかった。それは夢のような現実のようで、現実に限りなく近い夢のようにも感じられた。彼女は少し傷んだその首輪を手のひらでクリームを塗りつけるかのように優しく撫で続けていた。首に巻いていた白いマフラーは、昨日の犬の姿を思わせた。僕はあの白い犬の美しい首に、首輪らしいものが着けられていなかったことを思い出した。拍子抜けするぐらい自然に、僕は彼女が白い犬の飼い主であると理解した。けれど彼女が何故、犬を放すときに首輪ごとはずしたのかは分からなかった。説明のつかないことだった。


 先ほどまで静まっていた風が、まるで思い出したかのように僕の背後から吹き付けた。反射的に上を見上げると、高い木の枝に残っていた枯葉が落ちて、ずっと先の十字路のほうまで飛ばされているところだった。一度地面に落ちそうになると、そこで渦を巻いてまた浮き上がり、今度はゆっくりと左右に揺られながらポトリと地面に落ちた。

 目を離している間に少女がどこかに消えてしまっているのでは、という考えが一瞬頭をよぎったが、彼女はまだちゃんとそこにいた。そして驚いたことには、彼女は眉毛を少しハの字にして何かをたずねるような視線を僕に向けていたのだった。その表情から読み取れる感情はほんのわずかで、無表情といえばそう見える。僕はなんだか恥ずかしくなって、ほんの少し頭を下げて挨拶すると、また足早に歩き出した。

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