秋桜《コスモス》の咲く場所

吾妻栄子

秋桜《コスモス》の咲く場所

「予約取ったホテルは空港のすぐ近くだけど、朝早い便だから早めにチェックアウトしないとね」


「そうだね」


 彼に向かって頷きながら、ふと街路樹の桜を見上げた。


 茜色、黄色、緑色。


 それぞれに鮮やかな色合いの葉の向こうに高く澄んだ秋の青空が覗く。


 日本人は淡い薄桃色の花霞だけが桜のように持て囃すが、桜の木は秋でも艶やかな姿で同じ場所に立ち続けているのだ。


「あ、コスモスだ」


 隣の彼の声でふと我に帰る。


「こんなとこにも咲くんだな」


 ピンクが三つ、白が二つ、赤紫が一つ。


 それぞれの色が秋の陽射しに透けて目映く輝いている。


 街路樹越しに経ったマンションとスーパーの駐車場の間にある、ほんの僅かな植え込みのスペースに咲いた秋桜コスモス


「コスモスは強いから」


 音もない風が花を揺らし、残像が目の中に尾を引く。


 *****


「コスモスぅ!」


 あれは確か三歳の時だ。


 近所の空き地に咲いた大好きな花の群れに駆け込んだ。


 春の桜より色濃い本当のピンク。清々しい白。どこか毒を含んだ艶かしい赤紫。花を支える黄緑色の茎はかぼそく見えるが、多少の衝撃は受け止めて折れないしなやかさを備えている。


「一人で行っちゃダメ」


 ママは歌うような日本語で告げるとコスモスと同じピンクのワンピースを新しく着せたばかりの私を抱き上げた。


 ふわりとラベンダーの香りに包まれる。ママのいつも着けていた香水の匂いだ。


「重くなったねえ」


 ママの顔は見えなかったが、語る声には温かな笑いを含んだ響きがあった。


「コスモス、いっぱい咲いてる」


 私は抱っこされたまま小さな手で指し示す。


 家二軒程のスペースの空き地は七割方ピンクで残りは白と赤紫のコスモス畑だ。


「メキシコのママのおうちの近くにはもっといっぱい咲いてた」


 鼻に届くラベンダーの匂いがきつくなり、抱き締める腕の力がより強く熱くなった。


 *****


 日本では「秋桜」と古来からあったような字を当てるが、コスモスは元はメキシコの高原に咲いていた花で日本に伝播したのは明治に入ってからだ。


 そうと知った時、ママはもう私の側にいなかった。


「初めて会うけど、お母さんには何を持っていけばいいかな」


 純日本人の彼の口から「お母さん」と聞くと、私のママとは別な人に思える。


「前に会った時は日本の緑茶とか京菓子を持ってたけど」


 大学に入りたての頃だから今から九年半前だ。


「今は向こうの子も十歳くらいだから和風の小物とか文房具とか買っていこうか」


「向こうの子」とは正確には異父妹だが、冠婚葬祭で二、三度顔を合わせたきりの再従姉妹はとこよりも遠く感じる。


「前に会った時は赤ちゃんだから特には何もやらなかったんだよね」


 恐らく向こうにとっての私は他人よりもっと隔てた位置にいるはずだ。


 ママから送られて来るメールでは小さな頃の私に似て、もう少しラテン的な浅黒い肌をした異父妹いもうと


 日本人の父との間に生まれた私よりも、スペイン人の再婚相手との間に生まれたこの子の方がより純正なママの娘に思える。


「ママにもそうだけど、あの子に会う方がもっと不安だよ」


 もっと正しく言えば、ママとスペイン人の再婚相手、そして十歳で思春期に差し掛かった異父妹で完成された家庭に「客」という異分子として訪れるのが怖いのだ。


「前に会った時も嫌なことがあったわけじゃないけど」


 ママも再婚相手の彼も笑顔で迎えてくれた。サグラダファミリアの見える新居に移り可愛らしい赤ちゃんが生まれたばかりの幸福なカップル。


 それが異国から訪れた女子学生にことさら冷蔑や拒絶を突きつける理由は無いのだ。


「妻が前の夫の下に置いてきた娘」という過去の存在にそこまでの関心など彼らは端から抱いていない。


 そもそも両親が離婚してママがメキシコに戻った後に彼と出会って再婚したわけだから、私の方でもこの新たに結ばれた一家を憎む理由がない。


「でも、子供も十歳にもなれば色々察するからね」


 メールで送られてくる近頃のあの子の表情は、「外国人のお母さんに捨てられて本国に帰られた可哀想な子」と日に陰に噂され、色黒く彫り深い顔立ちから「ポカホンタス」とアダ名された頃の私にそっくりだ。


「お母さんは芸術家だからな」


 苦笑いする彼の肩越しにオレンジとも黄色ともつかない色合いの花が二、三輪揺れている。


 これはキバナコスモスだ。


 小学校前の花壇スペースに咲いているから野生ではなく植えたものだろう。


 色合いのせいか純粋なコスモスというよりマリーゴールドとコスモスのダブルに見える。


「それは関係無いよ」


 日本人のパパと結婚して一度は絵を止めた母は離婚してメキシコに戻るとまた活動を再開した。


 日本での知名度は殆ど無いが、メキシコやスペインではそれなりに注目されている画家だ。


「一緒に暮らしている時は普通の母親だったから」


 画家としてのキャリア上では、私と日本で過ごしていた時期こそ例外的な空白期間だ。


 現役画家のママは異父妹にとっては人並みの母親とはやはり違うのだろうか。


 剥き出しの湿った土の匂いがつんと鼻を吐いて、息する胸の奥が微かに痛むのを覚える。


 彼は黙って私の手を握った。


 そこで、自分の歩みが遅れていたことに気付く。


「展示場はもうすぐそこだよ」


 今日は結婚後に引っ越すマンションの展示場を見に行く日だ。


 私たち夫婦と子供一人、二人で暮らす想定の間取りで探している。


 *****


「先週見た所も良かったけど、今日見た所の方が地震や台風が来た時も安心出来そうだね」


 この国の大地はしょっちゅう揺れ動き、嵐に見舞われる。


 見上げた桜並木越しの空はもう日暮れのグラデーションに染まって葉っぱは黒い影絵に変わっていた。


 まだ本格的に葉が落ちる季節ではないが、車道沿いの並木道には車の排ガスやアスファルトに混じって枯れ葉の乾いた匂いが漂い始めている。


「でも、今日見た間取りだと子供二人はきつそうだなあ」


 隣の彼は現実的な声で付け加えた。


「確かに今日見た部屋だと、子供たちが大人になったらちょっときついよね」


 今しがた観覧してきたイミテーションの家を改めて思い出す。


 ショールームにありがちなイミテーションの葡萄を盛った皿を飾ったダイニングや舶来品のマカロニが収納されたキッチン、英語のペーパーバックが枕元に置かれた夫婦の寝室。


 そうした大人の使うスペースはさすがに見せ所なので立派だった。


 一方、日本人の感覚からすると可愛らしいというよりどこか毒々しい輸入品の絵本やライト兄弟辺りが乗っていたような型の飛行機の模型を飾った子供部屋。


 こちらはモデルルーム特有の洗練を纏ってすらいかにも小ぢんまりして見えた。


「子供はすぐ大きくなるしね」


 ママの胸でスヤスヤと安らかな寝息を立てていたあの赤ちゃんももう十歳のポカホンタスだ。


「でも、子供一人ならちょうどいいかも」


 実家は決して大きくはない一戸建てだが、ママが出て行った後、父娘二人で暮らす分には充分過ぎる程だった。


 今は父が一人で住んでいるが、普段は実質的に一階でしか生活していないとたまに帰省してほこりの溜まった家の二階まで掃除すると分かる。


 スペイン・南米文学研究者を諦めて高校の世界史の教員になった父は、メキシコ人のママと離婚した後、まるでそれで異性への情熱パッションを焼き尽くしてしまったかのように他の女性とは再婚も交際もせずに暮らしてきた。


 趣味と言えば、休暇に旅行に出掛けて、そこの自然を写真に収めるくらいだ。


 一階の書斎や寝室には訪れる度に前の休暇で撮ったアンデスの向日葵ひまわりやら富良野のラベンダー畑やらの写真が飾られている。


「一人っ子は可哀想だよ」


 彼は首を横に振る。


「俺はずっと兄弟が欲しかった」


 彼は両親揃った家庭の一人っ子で、私も実質は一人っ子として育った。


「今日見た所は候補の一つにして、もう少し他の所も見てみよう」


 そう語る彼の肩越しに見えるマンションの方からふんわりとカレーの匂いが漂ってきた。


「そうだね」


 夕飯にも間に合うようにと昼食のパエリアを多目に作って同棲中のアパートの部屋に残してきたことを思い出しつつ、彼の背後に聳え立つマンションを見上げた。


 オレンジ色、クリーム色、ライムグリーン……。


 中に点された灯りで輝く窓ガラスは、それぞれの部屋のカーテンの色で鮮やかに染め上げられている。


 あの窓一つ一つの奥にそれぞれ異なる家族がいるのだ。


 はらりと一枚、黄色い桜の葉が目の前を通り過ぎた。


 不意にジャケットのポケットの奥で何かが起き上がったように震えた。


「何だろ」


 取り出したスマートフォンの表示では、キャリアメールではなくフリーメールのアドレスに新着メールが来ているようだ。


 そちらのアイコンをタップする。


“お姉さん、こんにちは”


 太字で表示された件名にドキリと胸が高鳴った。


 今度はその一行を人差し指でトンと押す。


“お姉さん、こんにちは


 私はペネロペです。このメールアドレスはママにききました。私はいま日本語を習っています。お姉さんともっと話したいです。今日は友達とでかけました。コスモスがとてもきれいでした。写真をおくります”


 文面の下に現れた写真には、青い空の下、ワインレッドの花々に囲まれて弾けたように笑う十歳の妹と日本人にしか見えない東洋系の男の子が映っていた。


「あの子から来た」


 思わず隣の彼に見せる。


「日本語、始めたんだ」


 液晶の灯りに照らし出された彼の顔が緩む。


「このお友達の男の子に習ってるのかな?」


 いたずらっぽく笑って私を振り返った。


「一応はどっかの教室に通っているとは思うけど」


 写真の二人は無邪気な友達のようにも幼い恋人のようにも見える。


「スペインのコスモスって日本と種類が違うのかな?」


 彼は今度は写真の背景に見入った。


「多分、これはチョコレートコスモスじゃないかな。甘い香りがするやつ」


 深紅で大きめの花から私は推し量る。


「この辺ではそんなの見掛けないね」


「私もチョコレートコスモスは実際に見たことない」


 妹が映して送ってきた花はまた未知の種である気もしてきた。


「行く前に、こっちからも色々撮って送ってやりたいな」


 彼の手が私のジャケットの肩に置かれる。


 そこから温もりが静かに広がっていく。


「そうしましょう」


 私は大きく頷くと、秋の夜に染まり出した道を彼に先んじて歩き出した。(了)

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秋桜《コスモス》の咲く場所 吾妻栄子 @gaoqiao412

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