第3話
魔女も、数十年以上前は、少女のように泣き虫な娘でした。
ただ一つだけ普通の娘と違ったのは、その涙で他の人の傷や病を治せるという事でした。娘は街はずれの家で、祖母と二人きりで暮らしていました。
人前で泣いてはいけないよ。お家でしか泣いてはいけないよ。思慮深い祖母の教えを、幼い娘はきちんと守って過ごしていました。
けれど、娘の事が街の人に知れてしまう日がやってきました。娘が友達とその友人が森に木の実を取りに行った日の事です。
運悪く、娘の友人が狐用にしかけられていた罠に捕まってしまいました。
直接命にどうこうなるようなものではなかったのですが、サメの歯がかみ合うような罠です。ぎざぎざの罠に挟まれた足からは、たくさんの血が流れました。
可哀想な友人の姿に、娘は祖母の言いつけを忘れてしまいました。痛々しさに泣きながら、その足を手当てしてやろうと屈みこんだ時です。
娘の涙が一滴、友人の足の傷に落ちました。ひどかった出血は、当たり前のように止まります。涙をぬぐった手で友人の足に触ると、ついにそのひどい傷跡も無くなったのでした。
それが、娘の涙には力がある、と街の人々が知ったきっかけでした。
最初は娘を含めた皆が、傷や病が癒える、ただそれだけを喜んでいました。
可哀想な傷を負った者や、医者の手に負えない病を抱えた者を憐れんで、娘が涙を流せばその者は救われたのです。
祖母の言葉を無視して、娘は街の人々に交じって暮らし始めました。
娘は、自分の不思議な力が皆を元気にできるのを純粋に幸せに思っていました。
怪我人には傷めた部分に涙をふれさせ、病にはそっと唇に涙を湿らせてやれば良かったのですから。自分が人の役に立つ事を喜ばない人間が、この世にそうそういるでしょうか。
けれど、人の欲というものが娘の幸せを奪ってしまうまでに、時間はかかりませんでした。
ある時のこと。
遠い所にある都から、使者がやってきました。その使者は、娘の癒しの力でこの街以外の者も救って欲しいという、王様からのお願いを携えてやってきたのです。
人の役に立てる事に幸せを抱いていた娘は、礼儀正しいその使者の言葉に喜んで都に着いて行きました。
けれど、それからの毎日は。娘にとって地獄そのものでした。
哀れんで涙を流すという事は、街にいた頃の娘にとっては、さして辛いものではありませんでした。
けれど、都ではほとんど毎日、休む暇がない程に傷を持ったものや病を抱えたものが娘の面会を求めてやってくるのです。
次第に、娘は涙を流せなくなってきました。可哀想だと思うのに、泉の水が枯れてしまったように涙が出てこなくなってしまったのです。
涙の出なくなった娘は街に返されたのか?
いいえ、それなら良かったのですが、とても口では説明しきれない程、娘はひどい仕打ちを受けることになりました。
なんということなのでしょう。
優しく民想いのその王様は、涙の流せなくなった少女から、なんとしてでも涙を流させるよう、家来に命令したのです。
どうしても涙を流させる。その意味が判りますでしょうか?
娘の受けた仕打ちは、とても口で説明できない程むごいものだったと、私にこの話をしてくれた人は言いました。
少しだけ聞かせてくれたのは、食事にわざと辛いものを入れたり、真っ暗な場所で恐ろしい化け物の話などを聞かせたり、娘を鞭で打たれたりしたのだそうです。
ある時は、体中に赤くなるまで熱した鉄ゴテをおしつけられた事もあったと聞きます。その時の絶叫は…想像するだけで身の毛がよだちます。
それでも、娘は都から逃げることができませんでした。それは、娘の友人が一緒に都に連れて来られていたからです。
友人には娘が一緒に付いて来て欲しいとお願いしたということになっていました。しかし、本当は魔女が逃げてしまわないように、人質として連れて来られていたのです。
それに娘が気が付いたのは、王様から酷い仕打ちを受け始めた頃の事でした。
その友人は自分がただ娘の話相手として都にいるものだと、王様の言葉を信じていました。時には、娘への仕打ちに家来を通じて、王様を激しく非難することもありました。できうる限り、娘の手当てもしたそうです。
そんな日々の中、あらゆる苦痛や恐怖に対しても、魔女は涙を流せなくなりました。王様はついに、娘へ最もひどい事をしたのです。
気分転換に散歩でもどうだろうか。
王様に久しぶりに優しく声をかけられたのは、ある晴天の日でした。
娘が久しぶりに城の外に出られるというのに、優しい友人の姿が見えません。
その理由を、娘は城の外に出た瞬間に知る事となります。
娘が付添人と共に城から出てきたその時でした。
聖女をたぶらかし、独り占めしている魔女だ!
眼前の集会場に、娘の友人が鎖に繋がれて引き出されたのです。
処刑台に縛り付けられた、娘の友人に何も知らない善良な民衆は石を投げます。
お前のせいで聖女の慈悲が私達には与えられない。
お前のせいで治らない。
真実とは全く関係のない言葉が、友人に浴びせられていました。
やめて、やめて!
力の限り、娘は声を張り上げたそうです。けれど、その声は届かず、民衆は言葉と共に石を投げ始めたのでした。
友人の元に駆け寄りたいのにできなかったのは、散歩の共としているはずの付添人たちのせいです。娘の両脇を固めていた彼らは、娘の腕を掴まえて離しませんでした。
ただ、友人の姿がよく見えるようにするだけです。それは、まるで。
石はやがて短剣に変わりました。
友人のすり切れた衣服には、赤いものが滲んでいます。友人が抗議の声も、悲痛の叫びも上げられないのは、その口に猿轡がはめられているせいです。
悪人なので、言葉は必要ないと口が塞がれてしまっているのです。
娘は友人のために叫びながら、涙を流しました。付添人たちが娘の涙を恭しく集める事に気づけない程、娘は我を忘れ、ただ友人の為に声を振り絞っていました。
どんなにやめてあげてと叫んでも、民衆の声に娘の声は埋もれてしまっていました。
友人の処刑の最中、絶え間なく流れていた娘の涙です。けれど、ぴたりと、涙は止まりました。
処刑の終わりを知らせる鐘が打ち鳴らされるのを、娘は絶望の中で聞いていました。
娘が街に返される事になったのは、それから数日後の事です。
聖女のおかげで都の人々が救われた。
これからはゆっくりと街で暮らすと良い。
慈悲深い王様は、娘の為にたくさんの金貨を持たせてやりました。そうして、街に半ば放り捨てるように娘を置いていったのでした。
街の人々は娘の帰還を喜び、慈悲の力を有難がりました。街の一番良い場所に暮らすと良いと用意もされていたくらいです。
しかし、娘は、月の深森の中でひとりぽっちでひっそりと暮らす事を選びました。
祖母は流行り病のために、娘に知らされぬまま、亡くなっていました。
娘の涙にすがって、訪ねてくる人も確かに居ました。しかし、もう娘の涙はすっかり枯れてしまっているので、一滴も出る事はありません。
娘には、自分を訪ねてくる人々が、友人や自分に酷い事をした人に重なって見えてしまう始末でした。なので、まともに話すらできません。
人々が彼女の事を深森に住む意地悪な魔女だ。と口にするようになるまで、たいして時間はかかりませんでした。
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